74の話~不意打ち~
お疲れと声をかけ、宿に戻っていく一座の者を見送り、アデルはいつの間にか広場が不気味な静寂に包まれているのを肌で感じていた。
時たま、酔っ払った男達が笑いあいながら広場を通り過ぎてゆく。
ロメオは噴水の淵に腰掛け、先程の約束を一方的に守っているようだった。
「で、何なの。この場で済むなら、今聞くわよ」
「そういう事じゃないんだ」
ようやく二人きりになり、ロメオは幾分大きな声で、アデルに言った。
「会えてよかった」
ぎこちなく言い、ロメオはすぐさま黙り込んでしまう。
「…私はてっきり、あんたが怒ってるんじゃないかと思ってたわ。この前は悪かったわね。でも本当に、急いでいたのよ」
アデルの声が、少しだけ優しくなったように聞こえる。
ロメオはそれに答えず、「君もコーラーに行くんだって」と言う。
アデルはうなずき、少し考えてから、ロメオの隣に座った。
そう、とロメオは呟き、暗闇で人気の消えた天幕を見つめていた。
アデルは不思議と、この沈黙が嫌だとは思わなかった。
二人はしばらく、暗がりの下で、同じ場所を眺めていた。
やがておもむろに立ち上がり、「よければ、送っていくよ」とロメオは言った。
怪訝そうな顔をしているアデルに気付き、ロメオは「言っとくけど、別に変な意味じゃなくて、送るだけだから」と珍しく紳士的な発言をする。
アデルから警戒心の無い笑みを引き出す事は出来なかったが、アデルは拒絶することもなく、真顔で「ありがとう」と答えた。
数分も歩けば、一座の者が滞在している大きな宿にたどり着いた。
無言で二階の客室に上がり、借りている部屋まで歩みを進めると、アデルはロメオを振り返って「何か飲む?」と小さな声で尋ねた。
「入ってもいいの」
「いいから、聞いたのよ」
アデルはにこりともしない顔で言うと、やがて戸惑うロメオをおかしそうに眺めた。
ロメオの返事を待つ間もなく、アデルは部屋の鍵を開け、どうぞ、とロメオを招き入れた。
誠実、紳士、と心の中で呟きながら、彼女の部屋へ足を踏み入れるロメオだった。
アデルはテーブルの上の酒瓶に手をかけ、隣に置いてあったグラスに中身を注ぎいれると、ロメオに手渡し、自分は部屋に隣接する浴室へと向かう。
え、と驚くロメオに「化粧を落としたいのよ。全身化粧まみれなのよ、わかるでしょ」と、褐色に塗りたくった腕を差し出した。
自分はいつまでここにいていいのだろうか、と焦るロメオは、いつしか自分の滑稽さに、自然と自嘲的な気分になる。
少し話をして帰るだけだ、と何度も自分に言い聞かせ、ロメオはアデルが戻ってくるのを待っていた。
何を話せばいいのだろう。
言いたい事は、既に言ってあるような気もする。後は、アデル次第なのは違いなかった。
正直なところ自分自身、どうしたいのかもわからなかった。
あまりしつこく食い下がるのも自分らしくないし、と思うが、そんな事を言ってしまっては、ますますアデルの軽蔑を買うのはわかっている。
あの頃だって、本気でアデルを馬鹿にしていたわけじゃなかった。
ただ、どうしていいのかわからなかった。
自分の周りを行き交う女の子達とは、アデルは明らかに違う種類の女の子だった。
他の女の子達のように、自分に媚びへつらう事もなく、むしろハーレムの王のような自分を、住む世界が違うとばかりに、時には嫌悪感を交えた眼差しで、彼女はほんの少しちらりと視線を送る程度だった。
まさかあの頃から、僕は彼女の気を引きたかったのだろうか。
そうだとしたら、自分はあまりにも幼すぎた、とロメオは暗くなりながら、中身の半分消えたグラスを握り締めていた。
来る者は拒まず、洗練されたいっぱしの男のつもりでいた。
けれど、自分が一番気になる人を傷つけて、自分はいったい何をしていたのだろう。
絹糸のような髪を掻き揚げ、ロメオは椅子に深く腰を沈めた。
足音も無く、アデルが自分のすぐ側に立っているのがわかる。
「おかわり、もらってもいいかな」
どうぞ、とアデルは静かに答え、湯上りの髪を布で何度も乱暴にこすった。
ロメオはふいに、スロにいた時のような何気ない日々に一瞬だけ、巻き戻されたような気分になる。
自分の思い込みだけで、実は何一つ変わっていないような錯覚に陥り、すぐさまロメオは軽く頭を振ると、空になった器に、もう一杯の葡萄酒を注ぐ。
「なんでこんなきついの飲んでるの。体によくないよ。踊り子さんは、体が資本でしょう」
ちょうだい、とそのグラスに手を伸ばし、アデルは一気に飲み干した。
妖しげにきらめく瞳は、かつてのヴィオレッタそのものだった。
唖然とするロメオに、そのまま唇を押し付け、喉に少し刺激を残す酒を流し込む。
ごくりと喉を鳴らすロメオに向かって、唇を離したアデルは、濡れたような瞳で呟いた。
「許さない気持ちに変わりはないわ。だから、あんたがどこまで本気か、私に見せて」
***
「俺が不在の間は、フィオナ様のところであなたを預かる、という話になっているんだ」
ヴィンチェンツォは家に戻ると、素早く絹の薄いシャツを脱ぎ、脱衣かごの中に放り込んだ。
その様子を、ビアンカが満足そうに眺めていた。つい最近までは、ヴィンチェンツォが脱ぎ散らかした服を、エミーリオが拾ってかごに入れていた。
「私はよいのですが、エミーリオと猫はここにいるのですか」
男の子とはいえども、まだ子どものエミーリオを一人残すのは心配だった。
「ロッカが、面倒見ると言っていたから大丈夫だ」
そうですか、と安堵したようにビアンカが言う。
「あまり王宮内で、必要以上に他人と関わらずともよい。余計な詮索をしてくる者がいるだろうし、適当にフィオナ様に合わせていれば面倒な事にならないと思う」
使用人とはいいつつも、宰相閣下の同居人がお妃の客人扱い、というのは対外的にまずいのだろう、とビアンカはわかっていたし、自分も人に話すのは躊躇われた。
はい、とビアンカはうなずき、餌をむさぼる猫をぼんやりと眺めていた。
***
それから数日して、ヴィンチェンツォはコーラーへ向かって出立した。
思いのほか、淡々とした別れであった。
お気をつけて、と言うビアンカに対し、「ああ」とだけ答え、ヴィンチェンツォは去って行った。
同行者はアルマンドにランベルト、そしてロメオの三人である。
アルマンドは既に王都を出発しており、カプラで先に検疫を受ける手筈になっていた。
ランベルトはこの期に及んで、あからさまに嫌がっていたが、理由はアルマンドらしかった。
「襲われたらどうしよう」
と真剣に渋るランベルトに、ヴィンチェンツォは「あっちは基本乙女だと言い張っているから、詳しくは知らんが、受身なんじゃないのか。身の危険はないと思う」と下世話に呟いた。
そもそも、と何やら続けるヴィンチェンツォに冷めた視線を送りつつ、ロッカがビアンカの耳を後ろから両手でふさぐ。
驚くビアンカに、ロッカは耳元で「ヴィンスがあまりにも聞くに堪えない話をしているので、あなたのお耳を汚すまででもないと思ったのです」と大きな声で言った。
ロメオはひたすらあくびを連発し、「行くなら早くして」とだるそうに呟いた。
では、と言い残して、揚々と出発するヴィンチェンツォ達に、ロッカはビアンカから手を離すと、ようやく頭を下げた。
「思ったより宰相様も、あっさりしてるわねえ。別にいいけど」
メイフェアが旅立つ人々の背中を見送り、何故か不満そうに言う。
ランベルトの長期不在を気に留める様子もなく、メイフェア自身も実にあっさりとしていた。
そうかしら、とビアンカは曖昧に微笑み、ヴィンチェンツォの後姿を眺めていた。
「無事に帰ったら、ご褒美が欲しいな」
伸びてきた髪をビアンカに手伝ってもらい、短く切り終えると、ヴィンチェンツォは鏡で確かめながら、何気なく言った。
「なんでしょう。おいしいものを、たくさん用意しておきますけど、何かご要望はありますか」
精一杯、ビアンカは花咲くような笑みを浮かべて、ヴィンチェンツォを見上げた。
「ビアンカ」
「はい?」
ビアンカの耳元に口を寄せ、ヴィンチェンツォは背中までぞくりとするような甘い声でささやいた。
「ビアンカ、あなただ」
ふいに自宅での朝の会話を思い出し、ビアンカは一人で固まっていた。
先程一瞬だけヴィンチェンツォが振り返り、邪な顔で微笑んでいたような気がするのは、自分の気のせい、とビアンカは若干うろたえながらも、彼等に手を振る。
メイフェアはヴィンチェンツォ達の姿が小さくなると、戻りましょう、とうながしてさっさと後宮へと戻っていった。
ビアンカはただの客人として、ヴィンチェンツォの帰りを待つつもりはなかった。
今日はヴィンチェンツォ達の恩師だという、オルド教を研究するクライシュ・エクシオールが王宮を訪れる事になっていた。
詳しい事は未だに知らされていないものの、どうやら騒動の渦中にある自分が、オルド教の事を知らずにいるのは不謹慎だ、とヴィンチェンツォに伝えると、ロッカの後押しもあり、宰相閣下はクライシュとの面会を了承してくれた。
肝心なところで、ヴィンチェンツォは自分に核心的な話をしてくれない。
知りすぎているからこそ、自分には教えてくれないのだろうか、と周囲の様子を感じ取りながら、ビアンカは不審に思われない程度に、自分も知る権利がある、とヴィンチェンツォに言っておいた。
時間はあまり無い。
ビアンカは一呼吸すると、ロッカの後ろについて、自分も後宮への入り口へと向かって行った。




