72の話~憩い~
ヴィンチェンツォがビアンカを連れて出仕するのも、この夏で既に何度目のことであったか、本人も覚えていない。
一緒では目立ってしまう、と何度も遠慮するビアンカであったが、あなたは王の客なのだから遠慮はいらない、とヴィンチェンツォは有無を言わさず王宮へ向かう。
当然目ざとい女官達は、比較的早い時間帯であれど、幾度か宰相閣下が美しい女性を連れて出仕するのを目撃しており、「あの方はどなたなんでしょう」と、遠巻きにビアンカに好奇の目を向け、そのたびに女官長に追い払われていた。
フィオナの客人という話であったが、フィオナも必要以上にビアンカを紹介せず、勘繰る女官達に一言、「私の遠縁なの」とやり過ごしていた。
「私達がおりますから、安心してお仕事してらっしゃいな」
フィオナに追い立てられ、後ろ髪を引かれる思いでヴィンチェンツォはお妃の居室を後にする。
そうは言われても、同じ王宮内にビアンカがいると思うと、かえって気になってしまう。
彼女が後宮にいた頃と同じだ、とヴィンチェンツォは実感する。
「宰相様は、あなたがこちらにおいでの時は、わりと遅くまで宰相府にいらっしゃるようですけど、それ以外は定時でお帰りになられる事が多いのよね。不真面目になられたというわけではありませんけど、あまりにもわかりやす過ぎて、面白いわ」
はあ、とビアンカは曖昧にうなずくしかなかった。
その時、ステラと一緒に、アンジェラが愛らしい姿を見せる。久しぶりに会うビアンカの膝に、一目散に飛び込んできたアンジェラの頭を何度も撫で、ビアンカは「大きくなったのね」と目を細めた。
何か違う、とアンジェラは不思議そうにビアンカの顔をじっと見上げていた。
しばらくしてからアンジェラは、はっとして言った。
「イザベラっぽくないんだ。着てるものも、お化粧も、髪の色も全部違うよ。同じ人なのに、違う人になってる」
「どこか、おかしくないかしら」
子どもの率直な意見は、大変貴重である。ビアンカは傍目から見て、自分に何か不審な点はないか、アンジェラに尋ねてみた。
「ううん、とても素敵。こっちの方がいい」
アンジェラの答えは、自分の思うところに返ってきたわけではないが、ありがとう、とビアンカは花がほころぶような微笑を浮かべた。
***
多忙なはずの宰相閣下は窓枠に腰掛け、中央の庭園でアンジェラと一緒に遊ぶビアンカの姿に見入っていた。かくれんぼをしているのか、せわしげに庭を移動するビアンカを、ひたすら目で追っている。
いい加減お仕事してください、とロッカがご機嫌斜めな声を出す。ビアンカが王宮にいる日は、恐ろしいほど効率が悪い。
はっきり言って、ビアンカがスロにいてくれるか二人が喧嘩の最中の方が、よっぽど働き者だった、と秘書官から不名誉な烙印を押されつつある宰相だった。
早く帰りたかったら、お仕事してくださいね、とロッカはもう一度念を押し、積み重ねられた書類に一つずつ、ヴィンチェンツォの代わりに宰相府の印章を押印し続ける。
思えば、ランベルトのあまりに出来の悪さの前に、ヴィンチェンツォの手抜き加減は目立たずにいたが、彼の卒業も危うかったはず、と十年近くも前の事を思い出す。
いつだか、エミーリオの入学を金で買えと冗談で言ったのも、実際は本気だったのかもしれない、とロッカはヴィンチェンツォに対して疑念を抱く。
「なんだ」
ロッカの、夏でも底冷えがするような眼差しに、ヴィンチェンツォは居心地悪そうにしていた。
いえ、とロッカはすまして受け流し、「昼は会食がありますからね」と言うと再び捺印作業にいそしむ。
ロッカが自分に容赦無いのは、もはや慣れっこになっていたが、ある日突然、「愛想がつきました」と辞表を突きつけられるのも一番困る。
最近妙に煙たく感じる時もあるが、自分にはなくてはならない存在、機嫌を損ねないよう心配りを忘れてはならぬ、と宰相閣下は珍しく反省し、自分の机へと戻っていった。
***
午後は北の庭園で、アンジェラは朝から変わらぬ調子で元気に走り回っている。以前より日差しは和らいできたものの、まだ太陽の勢いには衰えが見えない。
子どもは元気ね、とメイフェアがげんなりした顔で言った。
「噴水が綺麗になったよ。お水も、ちゃんと出るようになったの」
大はしゃぎしながら、吹き出る水に手を伸ばすアンジェラに、ステラが「濡れますよ」と声をかける。
以前は、苔むして何の彫刻か不明であった噴水も、今では綺麗に掃除され、水の吹き出し口は、美しい女神が手にした壷であったとビアンカは知る。
噴水の周りは、薄紅色のクローバーの花が彩りを添えていた。モニカが念入りに手入れをしていたのか、花はまだたくさん咲き誇っていたが、もうすぐ花の季節も終わりね、とビアンカは名残惜しそうに呟いた。
「冠作る」とアンジェラは柔らかい葉の上に座り込み、次々と花を編んでいく。
ビアンカはアンジェラの隣に腰を降ろし、自分も花を編み始める。
出来た花輪を自分の首にかけ、新たに輪を作り続けるアンジェラの瞳が、遠くの人物を捕らえ、きらきらと踊った。
「暑いのに元気だね、お嬢さん方。玉の肌が日焼けしないように気をつけるんだよ」
ロメオ兄ちゃんにもあげる、とアンジェラがロメオの頭に花冠を被せる。
ロメオは天使のような微笑を見せ、「お姫様ありがとう」とアンジェラの頬にキスをした。
同じく冠を頭に乗せられ、微動だにしないステラに気付き、ロメオは顔を引きつらせながら「君もとっても素敵だよ」と取り繕うように言った。
「見え透いた世辞は気持ちが悪い。特にお前となると、胡散臭い事この上ない。どうせ似合っていないのは知っている」
自分の髪に、何かを飾りたてるような事をしたのは、はたしていつが最後だったろう、とステラは遠くを見つめて呟いた。
「そんな事ないよ。ステラのお嫁さんの格好とか、見てみたい。すごく綺麗だと思う」
真顔で返すアンジェラに、ステラはありえない、といった顔をした。
「この私が女装…?」
女の人は女装って言わないよね、とロメオはぼそりと呟いた。
「女の格好は、任務以外でした事はほぼ皆無のような気が致します」
もったいない、とメイフェアが首を何度も横に振る。
「アカデミアにいた頃、催し物で学生演劇に出演した事があるのですが、私は何故か花婿役でした。その頃から、既に女装とは縁が切れていたようです」
しばらくの間、誰も何も言い返せず、ビアンカはようやく「それもさぞかし素敵だったのでしょうね」と微笑むしかなかった。
ステラの環境が悪すぎる、とメイフェアはため息をつく。人がうらやむような美貌を持て余し、なおかつ周りから女性扱いされないとなると、宝の持ち腐れ以外の何物でもなかった。
「どうせ私は、花輪を編むような遊びをした事もないし」
不器用な手つきで花冠を編むメイフェアをちらりと眺め、ステラは憮然としていた。
「…人には向き不向きがありますよね。私も器用な方ではないので、それでも開き直るしかありませんけど」
乾いた声で、メイフェアがほほと笑う。
「女の子いっぱいで楽しそうだね。俺らはむさ苦しい面子で会議だったけど」
ランベルト達が女性達の賑やかな声を聞き、噴水の前に姿をあらわした。
そのむさ苦しい中、いち早く抜け出したロメオを見つけ、ランベルトは呆れたような顔をした。
「ロッカにもお花!」
と嬉しそうにアンジェラが駆け寄り、ひざまずいたロッカの頭に、花冠を乗せた。
ありがとうございます、と言う顔は無表情ではあったものの、おもむろにアンジェラを抱き上げた。
これ以上はないという満面の笑顔で、アンジェラは辺りを見回した。
「これ…俺にくれるの」
おずおずとメイフェアが差し出したよれよれの花輪を見て、ランベルトが浮かべた笑みが、明らかに作りものであるのが、メイフェアにもわかる。
「仕方がないでしょ、私こういうの、得意じゃないのよ。いらないならいいわよ」
「そんなことないよ。上手だよ、俺だって作れないし。ありがとう」
凄まじい勢いで不機嫌になる妻をなだめ、ランベルトはその額に唇を触れる。
「俺のぶんがない」
一番後ろに立っていたヴィンチェンツォが、心底傷ついたような顔を見せる。
「ヴィンス様はそういうのいらないでしょ、興味ないでしょ、大人なんだし」
不恰好な花輪を頭に乗せ、ランベルトが言う。
「そういう問題ではない。俺だけ仲間はずれはやめろ。酷いじゃないか」
すねるヴィンチェンツォに、お前ってほんと子どもだよね、と呆れたようにロメオが言う。
慌ててビアンカが「これをどうぞ」と出来立ての花輪を差し出した。
ありがとう、と真正面からビアンカを見つめるヴィンチェンツォに一同は目を背けて、誰ともなく世間話を始めた。
***
「これだけ賑やかなら、幽霊も安心して天に召されそうだね。良い事だ」
新たな人影に、ヴィンチェンツォ達はそちらの方を振り返る。
マフェイが胸元のスカーフを緩めながら、やあ、と言った。
「息抜きですよ。今日はまた、一段とやっかいな話でしたし。何か御用ですか」
ヴィンチェンツォがぶっきらぼうに父親に答えた。
「女の子がいっぱいいるから、気になって見に来たんだ。私も息抜きだよ」
やっぱり素敵、とメイフェアはうっとりしながら、胸元に手をやるマフェイの洗練された仕草に魅入っている。
もう少し自分が早く生まれていたら、と不謹慎な想像に耽ってしまうほど、壮年とはいえど、マフェイは充分魅力的であった。
「で、どうするの。もう決定なのかな。言いだしっぺは、責任取るんだろ」
穏やかな口調ではあったが、マフェイの目は笑っていなかった。
「また何かあるんですか」
メイフェアが思わず口をはさみ、余計な事を言った、と慌てて下を向く。
「いいんだよ、うちの息子が、楽しそうな提案をしてくれてね。でも本人が言い出したんだから、率先して動いてもらわないと困るよなあ」
にやりと笑うマフェイは、ヴィンチェンツォにそっくりだ、とビアンカは思った。
花畑の上であぐらをかいているヴィンチェンツォは、恨めしそうにマフェイを見上げた。
「コーラーにちょっと偵察に行く事になりそうだ。しかも、俺自ら」




