70の話~王の書簡~
明くる日、ヴィンチェンツォとビアンカが二人揃って登城すると、エドアルドに呼ばれ、ヴィンチェンツォが一人執務室へと足を運ぶ。
二日目の会議まで、まだ少し時間があるようだった。
ビアンカは別室に通され、手持ち無沙汰に窓から中庭を眺めていた。
時折、窓から吹き込む風からは清涼感を得ることは無く、夏の終わりはまだまだ先のように感じられた。
暑さのせいで、花びらの先端を縮込ませ、諦めたかのように開ききっているバラも、どことなくだらしなく見えてしまう。
やはり、蕾の時期が一番美しいようだ、とめいっぱい花びらを散らしているバラを見て、ビアンカは思った。
扉が音も無く開き、ステラが一人で部屋に入ってきた。いつも通りの、落ち着き払った様子に変わりは無い。
ビアンカは昨日の話を思い出し、ステラに改めて礼を述べる。
「ステラ様にも、お世話になりました。あの短剣の話は、マウロ様からお聞きになってご存知だったのですか」
「いや、私は頼まれただけなので、礼を言われるような事は何も。逆に、お気遣いいただいて申し訳ありません」
照れたような笑いを見せて、ステラは返答した。
それよりも、と言いかけて、ステラは懐にしまってあった書簡のようなものを取り出し、ビアンカに差し出す。
「陛下から預かったものです。あなたにお渡しするようにと言いつかって参りました。この件は、他言無用でお願い致すと申されておりました。…たとえ、宰相閣下であってもです」
困惑したような表情を一瞬浮かべたステラの様子を見て取り、受け取らないわけにもいかないようだった。
ビアンカは短く了承しました、と答え、持参した小さな手提げに、折りたたんでしまいこんだ。
「後ほど、目を通させていただきます。ステラ様は、内容をご存知なのですか」
「いえ、残念ながら、知っていたら事前にお伝えできたのでしょうね。申し訳ありません」
これ以上ステラを困らせてはいけない、とビアンカは「気になさらないで下さい」と言った。
「ですが、疑問に思った事があれば、躊躇わずに質問した方がよいと思いますよ。受身でいては、ご自身を守る事はできませんから」
それ以上の事は、ステラ自身も答えようがなかったが、少しでもビアンカの不安を払拭させるべく、ステラは真面目に忠告する。
「自分の身の安全を第一に憂慮するほど、切迫した状況という事でよろしいのでしょうか」
ビアンカの物言いに、ステラは驚いていた。
王宮にいた頃のビアンカは、何かあれば怯えたような表情を見せ、イザベラではあるものの、できるだけ目立たないように過ごすにはどうしたらよいのか、という事を念頭に置いていたように感じる。
それが今では、自分に関わる事に関しては、目を背けずに対峙しようとする姿勢が、ありありと見てとれるようだった。
「宰相様の癖が移ってしまったかのような言い方でございますね。私も、回りくどい言い方は好きではありません。率直に申し上げて、そのような心構えでいられるのは、決して無駄ではない、とだけ」
そうであってもステラはビアンカを気遣い、雲を掴むような返事しかできず、もっと腹を割って話す事ができたら良いのに、ともどかしさを覚える。
自分の問題だろうか。
この方は、逃げずに全てを受け止める準備ができているのだろうか。
儚げなビアンカの姿に、ステラは決断を下せずにいた。
気分を変えるべく、ステラは関係のない世間話を始める。
「アンジェラが、あなたに会いたがっていました。折を見て、お伺いさせていただいてもよろしいでしょうか。今は時間差で、護衛の為の人の出入りが激しいような話を、宰相閣下がされていましたが」
アンジェラの名を聞き、ビアンカは聖母のような眼差しを向けた。
「ええ、いつでも歓迎です。少し、大きくなられたのかしら」
「背も多少伸びたように思いますが、何と言っても、抱き上げると日に日に重くなっているのです。子どもの成長は早いものですね」
バスカーレのアンジェラに対する愛情は少しも変わりがなかったが、ステラは以前より、上司が王宮に娘を連れて出仕する日も増えたように感じていた。
稀にバスカーレが「随分早い反抗期なのかな。泣き喚くかと思えば、急に甘えてきたり、感情に波があるようだ」と困ったように呟くのを何度か聞いていた。
「バスカーレ様もお忙しいのでしょう。私でよければお預かりしますので、遠慮なくお申し付けくださいね」
ビアンカは早速、アンジェラの喜びそうなお菓子のレシピなどを頭に思い描いている。
ステラは控えめに礼を言い、まだ固さの残る笑みを浮かべてみせた。
「バスカーレ様は、あなたのような方がそばにいてくださって、きっと喜んでいらっしゃると思います。以前、閣下からお聞きしました。最初は、バスカーレ様は女性の騎士に抵抗していらしたようですが、今ではあなた無くては騎士団も成り立たぬようですね」
わずかに頬を赤らめ、ステラは慌てて言い返す。
「団長が、優しすぎるのですよ。私のように、言いたい事を述べる者が一人いるのが丁度よいのです。そうですね、母親的な存在でしょうか。私はまだ、人が思うより随分若いつもりではいるのですけど」
「ずっと、お聞きしたいと思っていたのです。ステラ様の強さはどこから来るのでしょうか。私には、迷いを振り払う強さを、ステラ様ほど持ち合わせていないように感じてしまうのです。いまだに、私は隙があれば逃げようとしている自分がいるのです」
ビアンカの言葉にステラはぽかんとしつつも、その意図するところにたどり着き、とりあえず年上らしき態度に出るのが、自然のように感じていた。
「あなたと私とでは、背負うものが違いすぎますから、比較するのは難しいと思います。強いて言えば、私は最終的に責を負う事は少ないのですよ。逆にあなたは、全てを受け止めねばなりません。もし私がビアンカ様であれば、重圧に苦しんだのは間違いないと思います。ですから、ご自身が未熟などと思われないでいただきたい」
自分の気持ちが伝わったのかどうか、ステラは確信を持てずにいた。だが、真面目に自分の話を黙って聞いているビアンカの表情は、決して苦しそうではなかったのは救いであった。
「付け加えれば、全て受け止める必要もないのです。あなたの、御心のままに。時が経てば、解決する事も多々ございますれば」
時間が解決するような難問が、自分に降りかかった事などあっただろうか、とステラは思いつつも、精一杯、宰相が心より大切にしている女性に対して、敬意を払う。
「そろそろ、会議室に参りましょうか。陛下達も、おいでになるお時間のようです」
短い時間の中で、二人は答えの無い会話を繰り返していた。
それは、見えない不安と戦うビアンカのための、残された時間のほんの一部だったのかもしれない、とステラは後になって思い出すのである。
***
会議が終わった後も、エドアルドとヴィンチェンツォは話があるようだった。
ビアンカはエドアルドの手紙を読み終えてからも、再び手持ち無沙汰になっていたところに、フィオナからお茶に誘われ、例えようも無く緊張しながら王の妃を訪れていた。
「お久しぶりですこと。お元気そうで、私も安心いたしました。宰相様のご様子はどうです。閣下が、滅多に後宮に顔を出さなくなってしまって、寂しがっている者が大勢いるのですよ」
フィオナの言葉に、誇張は含まれていない。
実際メイフェアは、『イザベラ様がいなくなってから、宰相様やロッカ様のお姿をめっきり見かけなくなってしまって、潤いが足りないのよ。やはりあの噂は本当だったとしか思えませんわ』と言う女官達がいる事を知っている。
口さえ聞かなければ、それなりに夢の王子のようなのに、あの口さえ無ければ、とそのたびにメイフェアは思った。
その夢の王子様と、自分の親友はいったいどうなっているのか、とメイフェアはやきもきし続けていた。
直球で聞いたところで、ビアンカははぐらかすか答えないかに決まっているのは、長年の付き合いでわかっていた。
都合が悪くなると、いつもの倍掛けでだんまりになってしまうのは、ビアンカの常であった。
自分が聞かない分、フィオナが野次馬根性丸出しで、爛々と目を輝かせ、何事か聞き出そうとしているのが、メイフェアにもわかる。
「いつも通りとしか申しあげられませんが。今日もお忙しいようですね」
つまらないわ、とフィオナは残念そうに言いつつも、話題はヴィンチェンツォから離れようとしない。
「退屈な私が喜びそうな話はないのかしら。普段、おうちではどうされているのかしら。王宮でぱきぱき動いてるような感じで、あなたにも接しているのかしらー?」
「…そうですね。毎日、猫と戦っています。そういった意味では、あまり変わりはありませんけど」
そういい終えてから、ビアンカはいまだに猫に名前がないが、それでよいのだろうか、と思った。不便だし、早めに名前を与えないと本人の中で「猫」や「子猫」で定着してしまうかもしれない。
「あのような方が猫を手なづけようと奮闘しているさまは、面白いかもしれないわね。私も見てみたいわ」
ビアンカは苦笑し、お茶で喉を潤した。
ステラが宰相の退出を告げに、ビアンカのところへやってきた。
「またお会いしましょう。こちらにいらっしゃれば、人の目も行き届いてますから、おうちにいるより安全よ。宰相様が反対でなければ、遊びにいらっしゃいな」
ありがとうございます、とビアンカは頭を下げ、ステラと共にフィオナの部屋をあとにする。
「残念だわ。何か色っぽい話が聞けるかと思ったのに。まあ、あの子の性格ではぺらぺら喋りそうにないけれど」
テーブルに頬杖をつくフィオナに、メイフェアは探るように尋ねてみる。
「フィオナ様は、陛下から何かお聞きになっていないのですか。その、カタリナ様の事がございますから、当然二人の同居は面白くないのでは」
そうね、と言うとフィオナはお茶を一口飲む。
「確かに私、陛下にも言われていたのよ。何か聞きだせって。仕方ないから、猫の話だけしておくわ」
「こんな状況では、カタリナの結婚どころではないし、陛下の攻撃も下火になっているようね。宰相様にとっては渡りに船、といったところではないかしら。でも落ち着いたらわからないわよ」
フィオナは意地の悪い笑みを浮かべている。
メイフェアが知るビアンカの態度は、「あくまでも使用人です」の域を超えていない。
自分の知らないところではそうでもないのだろうか…と考え込むメイフェアは、今日帰ったら壁に耳を当ててみようと思い立った。
***
夕刻、散歩から戻ってきた子猫が、いつものように甘えた声を出し、ビアンカの足元に擦り寄ってきた。はいはいごはんね、とビアンカは慌しく台所へ姿を消す。
猫に、干し肉を混ぜたパン粥のようなものを与えながら、ビアンカはエドアルドの書簡の中身を思い出す。
ヴィンチェンツォは、書斎で何か書き物をしているようで、家の中は静かだった。
しばらく餌を食べる猫を眺めてから、ビアンカは再び台所に戻り、食事の支度を続ける。
私に選択肢など無いのはいつもの事、とビアンカは静かにため息をつき、玉ねぎの皮を剥いていた。
「子猫の名前が無いのは、不便ではありませんか。私は不便なのですけど」
夕食が終わると、膝の上の猫の毛を梳いていたビアンカが、ヴィンチェンツォに聞いてみる。
猫は気持ち良さそうに目を閉じて、手足を伸ばした。
そんな猫の様子を、相変わらず憮然とした表情で眺めながら、ヴィンチェンツォはぼそりと言った。
「自分はいまだに名前で呼んでもらえないのに、猫には名前が必要なんだ」
家の中でまで閣下などと呼ばれて、全然落ち着かない、とヴィンチェンツォは軽い抗議の声を上げる。
それは、と言葉に詰まるビアンカを、面白そうにヴィンチェンツォは眺めていた。
「ちゃんと名前で呼んでくれたら、猫の名前も考えておく」
「今までそうでしたから、急に変えろと言われても、難しいです」
「じゃあ今練習してみればいいじゃないか。そんなに難しい事でもないだろう」
「私には、難しいのです」
難しいのではなく、恥ずかしいの間違いではないのか、とヴィンチェンツォはのん気に思っていたが、こうも抵抗されると多少心が痛い。
同時刻、隣と背中合わせのようになっている居間で、メイフェアは固唾を飲んで壁に耳を当てている。
「何してるの」と問う夫に、「しっ」と犬を追い払うかのような声をあげるメイフェアであった。
「盗み聞きなんてやめなよ。いいじゃないか、別に二人が何を話していようと」
うるさい、聞こえない、と冷たく言い、メイフェアは隣の物音に集中している。
ランベルトは妻にじゃけんにされ、悲しくなりながらその様子を眺めていた。
「いい事を思いついた。今度から閣下と呼んだら、その度にキスするから。いつでもどこでも。王宮の中でもだ」
「それは駄目です。絶対に駄目です!」
ビアンカの大きな声に、メイフェアはぴくりと肩を動かした。
駄目って何?大丈夫かしら…。今から隣に行ってこようかしら…
それ以外、あまり会話の内容は聞こえてこない。
「私は、一日中猫を抱いていますから。それでもよければ」
挑むように、ヴィンチェンツォを正面から見据えるビアンカに、ヴィンチェンツォもにやりと笑って言い返した。
「やってみるといい。楽しそうなゲームだ」
意外と聞こえないわ、とメイフェアは不満そうに呟く。
「何がそんなに気になるのかなあ。俺には全然わからないよ」
もどかしそうに舌打ちする妻の姿に、ランベルトは諦めて「もう寝る」と言った。




