67の話~追って、追われて~
アデル・ヴァイオレットはほんの数分前まで、数ヶ月ぶりの開放感に浸り、仮初めの休暇を満喫していた。
王都から馬で約半日ほどの場所に有名な湯治場があり、アデルはスロを去った後に、そこに立ち寄った。
元来肌があまり強くないアデルには、慣れない港町の生活が自分の体に顕著にあらわれていたようで、数ヶ月の間に肌や髪が荒れてしまった。
それも、数日の鉱泉治療のおかげか、今ではすっかり艶やかさを取り戻している。
体のすみずみまで、何もかもが入れ替わったような清々しさを全身に感じ、心機一転、アデルは新たな任務に取りかかるべく、王都に向かう途中であった。
そんな気持ちを一瞬にして萎えさせる人物が、目の前にいる。
「こんな所に何日も滞在するなんて、実は僕が追いつくのを待っててくれたのかな」
ロメオ・ミネルヴィーノの相変わらずの調子の良さに、アデルは明らかに苛立っているようだった。
「どうしてそんな解釈ができるのかしら。あんたなんか待ってないわよ。そこをどいてくれる」
アデルはひと睨みすると、思い切りロメオを無視して、さっさと馬を進める。
せっかくの骨休めが台無しになった、とアデルは思った。
アデルの取り付く島も無い態度にめげることなく、ロメオは急いでアデルの隣に並ぶ。
この男には、現実から目を背けたくなるような大打撃を与えたつもりだったが、まだまだだったようだ、とアデルは悔やむ。それとも自分が思う以上に、この男がずうずうしいだけなのか。
「いつまでついて来る気よ。何か用でもあるの」
アデルのとげとげしい言葉を軽く受け流し、ロメオは世の大抵の女性であれば思わず見惚れてしまうような、華やかな笑顔を向けた。
「たまたま方向が一緒だからね。偶然じゃないかな。それに、一人より二人の方が楽しいだろ」
「あたしは一人がいいの。だから、構わず放っておいてくださるかしら」
ゆっくりとではあるが、確実に馬の速度を上げていくアデルに、ロメオも馬を併せていた。
「最後まで、話をしてないだろ。あのままじゃ後味が悪すぎるよ」
ふいにロメオは真面目な口調になり、アデルの横顔をじっと見つめる。
「どうでもいいわ。あたしは話す事なんかないし」
前を向いたまま、突き放すように、アデルは答えた。
「君に、謝りたかった。確かに僕は君を深く傷つけてしまったんだろう。君の人生を変えてしまうほどに」
「あんたに言われたからじゃないわよ。せいぜい自分に酔ってるがいいわ。あんたごときがあたしの人生変えられるはずないでしょ」
ロメオの謝罪は、アデルには届いていない。もとより、受け取るつもりもなかった。
「今すぐじゃなくていいんだ。だけど、許して欲しいと思ってる。アデル、僕はあれからずっと考えていた。どうしたら僕の気持ちが伝わるんだろうって。信じてもらえないかもしれないけど、もしあの頃に戻れたならどんなにいいだろうって、思ってる。そうしたら、君にこんな思いをさせずに済んだ」
アデルは無言だった。
「お願いだ。許して欲しい」
たとえ芝居だったとしても、ロメオの真摯な態度は、おそらく一生に一度見れるかどうか、とアデルは思った。
しばらくの沈黙の後、アデルはきっぱりと言った。
「いやよ。というか、どうでもいいわ。あんたが何を思おうと勝手でしょうし」
「本気でそんなふうに言ってるの。僕はスロで君と一緒で、とても楽しかった。君はそうじゃないの。ほんの少しでも、思わなかった?」
ロメオの質問に、アデルは答えるつもりはなかった。
「いい加減にして。そんな事言っても無駄よ」
悲しくなる気持ちと、珍しく必死に戦うロメオだった。
「人がこんなに謝ってるのに、それは酷いよ」
「自分は謝ってるから、許してもらって当然だと言いたいのかしら。甘いわ。あんたのそういう所が嫌いなのよ。世の中の女が全て、自分の味方になるとでも思ってるの」
アデルは、軽蔑したような口調でロメオにたたみかける。
「そんなわけないだろう。君があまりにも分かってくれなさすぎるんだ。少しは、譲歩してくれたっていいじゃないか」
結局、自分中心なのね、とアデルはため息をつく。
「だからあんたの、そういう考え方がいやなのよ!」
アデルが声を荒げて、ようやくロメオの顔を見る。
怒りをたたえたすみれ色の瞳が思いのほか美しく、アデルの怒った顔にぞくりと興奮を覚えるロメオだった。
自分の主張が通らない事に苛立ちを覚えていたが、これ以上彼女の機嫌を損ねては意味がない、とロメオは考え直す。
「どうしたらわかってもらえるんだろう。僕は何をしたらいい。何でもするから、言ってくれ」
「何もして欲しくない」
アデルの答えは、明確であった。
酷い、と思いつつ、ロメオはほんの少しでもアデルの凍った心を溶かすべく、必要以上に猫なで声を出す。
「何より君一人で、こんな事させたくないんだ。もちろん、僕だってある程度の義務に縛られている身分だけど、君のために何か手伝える事があればと思ってる」
「結構よ。一人で充分です」
何を言っても、突き放す言葉しか返さないアデルに、ロメオはここまでだろうか、と弱気になりつつあった。
「痴話喧嘩する余裕があって、うらやましい限りだ。もっとも、それも今日までだがな」
聞きなれない男の声に、二人ははっとして振り返る。
確か、スロでビアンカを追っていた別の男だ。私に騙されて、無駄に町中を走り回っていたわね、とアデルは思い出した。
その男の険しい顔を眺めた後、アデルは不機嫌そうに言った。
「しつこい男は好きじゃないのよ。全く今日は、とことんついてないわ」
「お前を野放しにしておくと、今後差し障りがあるからな。ここで狩らせてもらうとしよう」
アデルより先に、隣ですばやく剣を抜くロメオの姿があった。
アデルの前に進み出て、男の視界から彼女を隠すように、ロメオは剣を構える。
「この人に、指一本でも触れてみろ。ただじゃおかない」
「女の前で格好つけると、ろくな事にならんぞ。まあいい、色男、お前からだ」
ロメオ、とアデルが呼ぶ声に振り返らず、ロメオは目の前の男に鋭い視線を向け続ける。
同時に二人の剣が激突する。
アデルは驚いたように男達に釘付けになっていた。
まるきり使えないということでもなさそうだ、とアデルは少しだけ感心して、払っては切り込んでゆくロメオを眺める。
試そうとしている自分は嫌な女だ、と思いながら、アデルは気付かれぬようそろそろと馬を後退させた。
「じゃあ後は任せたわ。あたしは先を急ぐから」
力いっぱい馬の腹を蹴り、アデルは王都目指して勢いよく走り出した。
え、と思わず振り返るロメオに、男が剣を突き出し、慌ててロメオはその攻撃を避ける。
男の剣を受け止め、歯をくいしばりながらロメオは叫んだ。
「なんで置いて行くんだよ!酷くない?」
「あたしの為なら何でもしてくれるんでしょ」
みるみる遠ざかるアデルの声が、風に乗って届いてきた。
男は舌打ちし、アデルを追おうとするが、ロメオに阻まれ、再び二人は雄たけびを上げながら、ぶつかっていく。
「あんたの相手は、僕だよ。言っただろう、ただじゃおかないって」
「捨てられて虚勢を張るのも虚しいな。あの女の薄情さには、同情を禁じえない」
うるさいんだよ、とロメオは怒りを込めて、ありったけの力で剣を振り下ろすのであった。
***
「フィオナ様が白をご所望なのよ。何しろ部屋が暑苦しくて、少しでも涼しく演出したいとおっしゃって」
わかりました、とメイフェアに答え、モニカがバラに鋏を入れていく。
中央の庭園で、二人は暑い日差しと戦いながら、お妃のために見栄えのする花を選んでいた。
一人の身なりの良い壮年の男が、汗を拭う二人に近づいてきた。
その男の気配に気付いたメイフェアが顔をあげ、どなたかしら、と不思議そうにお辞儀をした。
「お忙しいところ失礼致す。お嬢さん方はお妃様の女官なのかな。先程から、陛下を探しているのだが、後宮にいらっしゃるのだろうか」
悪い人ではなさそうだ、とメイフェアは爽やかな紳士に微笑みかける。
「陛下でしたら、先程北の庭園に向かわれましたよ。まだいらっしゃると思いますけど」
ありがとう、と微笑み返す笑顔に、見覚えがあるような気がした。
しばらくメイフェアの顔をにこにこと眺め、男は口を開く。
「お嬢さんのお名前を伺ってもよろしいかな。珍しい、とても綺麗な髪ですね」
あら、とメイフェアは思わず頬を赤く染める。ただでさえ暑いのに、この人は全くもう、と思いつつも、悪い気はしなかった。
「メイフェア・ランカスターと申します。フィオナ様にお仕えさせていただいております。あ、今はメイフェア・ランカスター・サンティと申しますの」
ほう、と男は楽しそうにメイフェアを眺め続けていた。
「また機会がありましたらお話しましょう、お嬢さん」
男は終始ご機嫌な様子で、ひとつ会釈すると、北の庭園に向かっていった。
「ああいう大人の男性も素敵よね。社交辞令なんでしょうけど、ついどきどきしちゃうわ」
人妻になってから、メイフェアは随分大胆になっているようだった。
生きていれば、自分の父親と同じくらいだろうか、とメイフェアは思った。
モニカは不思議そうに、その男の後姿を眺めていた。
どこかで見たような気がする、誰だったかしら、とモニカは首を傾げていた。
エドアルドは北の庭園で涼んでいるヴィンチェンツォを見つけ、その穏やかに目を瞑る顔に、一瞬だけ眉を動かす。
「調子はどうだ。聞かずとも、良さそうだな」
むくりと上半身を起こし、ヴィンチェンツォはエドアルドを薄目で見上げた。
「上々ですよ」
どさりとヴィンチェンツォの隣に座り、エドアルドは暑い、と一言もらした。
「最近話す暇もなかったからな、わざわざ暑い中出向いてやったぞ」
それはお手数をおかけしまして、とヴィンチェンツォは若干の動揺を隠しながら言う。
そろそろエドアルドが来る頃だろう、とヴィンチェンツォも思っていた。
おもむろにエドアルドは、ため息混じりに口を開く。
「ビアンカをスロから連れ出したのはお前か」
いつか聞かれるであろうとはわかっていたが、やはり直接言われると心に重く響いてくる。
はい、と答え、ヴィンチェンツォはエドアルドの顔を見た。
「あのままにしてはおけないと思いまして。今のところ、問題なく王都で暮らしております」
「実に計画的だな。あのでかい家を借りたのも、そのためだったのか」
いや、そこまでは、と口ごもるヴィンチェンツォを、笑わない顔でエドアルドは直視していた。
いっそここで、何もかもはっきりさせた方がよい、と心に決めて、ヴィンチェンツォは口を開きかけた。
石畳の上をゆっくり歩んでくる靴音が響く。
二人は思いがけない人物の姿に、思わず無言になる。
「正確には、彼女の保護者は私です。報告が遅くなりまして、申し訳ありませんでした」
「バーリ卿。珍しいではないか。オルドで遊んで暮らしているとお聞きしていたが」
驚く息子の顔をちらりと眺め、マフェイ・バーリ公爵はひざまずき、エドアルドに向かって深く頭を垂れた。
「遊んでいるように見えたなら、大いに結構です。陛下には、ご無沙汰しております」
「今おっしゃった、ビアンカの保護者という話は」
「申し上げたとおりです。私には、その義務がありますゆえ。その件で、陛下にお話したいことがございます」
何もかも見透かしたように、にやりと笑う父の姿に、ヴィンチェンツォは言葉を紡ぎだすことが出来なかった。




