4の話~棘~
男はゆっくりとビアンカに歩み寄ると、まだ乾いていない石畳にうやうやしく片膝をついた。
束ねた美しい黒髪が、肩からさらりとこぼれ落ちる。
「今朝もご機嫌麗しいようで何よりでございます、イザベラ様」
美しい男ではあったが、美貌よりも隠しきれないほどに溢れ出す力強い生命力と意志がその男の存在感を際立たせていた。
その優美な仕草に圧倒され、ビアンカは思わず後ずさりそうになるが、自分が誰であったかを思い出した。
男のかもし出す威圧的な雰囲気をはねのけるかのごとく、とっさに顎をつんと上げた。
「ごきげんよう。ずいぶんとお早いのね」
当たり障りのない返事をしてみせる。こんな感じでよいのだろうか。
「イザベラ様こそ、いったいどういう風の吹き回しでしょうか。あなたが早朝に散歩などとは。連日深夜までカード三昧とうかがっておりましたが、さすがに連日ではお疲れでしょう」
まるで冬バラの棘を投げつけているかのような物言いに、ビアンカは呆気に取られる。
だがまたもや次の瞬間、ビアンカは嫌味を言われていることをとっさに忘れ、ふてぶてしい笑みを浮かべる男を無意識に見入っていた。
不思議な男だった。そして同時に恐れも感じていた。
「一度ご一緒していただけるかしら。最近は強い相手もいなくて退屈なの」
ビアンカはとっさに、以前イザベラが独り言のようにぶつぶつともらしていた言葉を拾い上げ、再び放出していた。
「懲りないお方だ。それとも学習能力をお持ちでない?」
男の含み笑いは侮蔑一色でしかなかった。
彼と面識のないビアンカにでさえありありとわかるほど、男からの非好意的な感情が真正面から降り注いでくる。
お妃に対する態度とは到底思えなかったが、同時にイザベラにとって敵の一人であるということは読み取れた。
この人から早く逃げなければ。
ビアンカはかろうじて表情を消していたが、今にも恐怖心で胸が押しつぶされてしまいそうだった。
「ほ、補佐官殿もこんな早くから登城されているとは、さすが陛下のご信任も厚くていらっしゃいますこと」
何も言い返せずに震えているビアンカの肩をなで、すばやくメイフェアが横から口を挟む。
男は笑いながら、かすかに目を細めるような仕草をした。
「昨晩は帰宅できなかったので、執務室にて夜明かしいたしました。変更が相次ぎまして」
それはご苦労でございました、とビアンカは高飛車に言うとふいと横を向いた。
なにやら相手にすかれていない事がいやおうなしにも伝わってきたので、こちらもそのようにお返しするのがイザベラとしての礼儀であろう、とビアンカは読んだつもりだった。
男はゆっくりと立ち上がると、では、と短い挨拶を残して立ち去ろうとした。
はらはらしながら男の背中を睨みつけているうら若き女性の視線に、男は気付かぬはずもなく、挑戦的な笑みをたたえてゆっくりと振り返った。
「お聞きでしょうが今宵の晩餐会、つつがなきようお願い申し上げます」
いいから早く帰れ、といつものように内心毒づきながらメイフェアは笑顔で男を見送ろうとした。
そして男の言葉を頭の中で一周させると、ぎょっとしたように目を見開いた。
「晩餐会…?と申しますと。あれは明後日では…」
嫌な汗が、胸元を伝っていくのを、二人は感じた。
「コーラーの大使の帰国が早まりまして、晩餐会が前倒しになりました。といっても、大げさなものを大使はお好みになりませんので、ささやかな宴をを準備させていただいております。ご出席いただけますよね?昨晩お妃様宛ての書簡を持たせたはずですが」
「あいにくイザベラ様は昨晩はお早くお休みでして……ええ、むろん、イザベラ様の体調次第でございますが。なにぶんまだ本調子ではないようでして」
無言で固まっているビアンカをかばうように、メイフェアが必要以上の笑顔で、ビアンカの体を労わるかのような仕草をする。
そんな二人の姿を見て薄い笑みを浮かべると男は軽く頭を下げ、執務室に向かって歩き出した。
***
「…あの方はどなた?」
ビアンカは自分の動悸が早まるのを感じながら、男の後姿を目で追った。どうみても、ついさっきまでの自分は、蛇に睨まれた蛙であった。庭に出なければよかった、と思ってみても、後の祭りである。
「陛下の筆頭補佐官でございますよ、ヴィンチェンツォ・バーリ様です。私もこうして言葉を交わしたのは初めてですが…日頃から情報集めをしておいて本当によかった…」
しみじみとメイフェアが満足気にうなずいている。メイフェアは成功したかもしれないが、自分は失敗してるのではないかしら…と、ビアンカは思った。
「なんだか、随分とげとげしい物言いをされるのね。仕方の無いことかもしれないけど」
ビアンカは初対面の人間が、嫌悪感丸出しのような態度で接してきた事に、多少傷ついていた。自分はイザベラ、と言い聞かせるほかなかったが、すがすがしい朝が台無しになったような気がした。
「それより!」
メイフェアは、気持ちを切り替えるのが恐ろしく早い。あまり物事を深く掘り下げたりしない性格は、こういった予期せぬ事態の連続には、大変役に立った。
「間に合いますでしょうか。間に合わなかったら仮病を使うしかありませんけど」
「体調不良を強調してくれたのはありがたいけど、今更欠席なんて…でもあの補佐官とやらにこれ以上目をつけられたくもないし…」
すっかり自信を無くして、肩を落とすビアンカの手を引き、兎にも角にも、メイフェアは早歩きで部屋に戻ることにした。