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漂う白花  作者: 渡部ひのり
第三部
68/136

65の話~楽しい我が家~

 後になって振り返ってみると、その時の自分は、自分でなかった、とビアンカは思う。あまりにも緊迫しすぎた状況のせいで、思考能力が落ちていただけ、と自分に言い訳をした。

 美しすぎる月が自分をおかしくしてしまったのだ、とビアンカは思った。


 長いこと、二人は唇を重ね合わせていた。少しだけずらして息を吸うと、ヴィンチェンツォは確かめるように付かず離れずの感触を残して、繰り返しビアンカに口付けし続けていた。

 目を閉じたビアンカの顔を見ると、ヴィンチェンツォも釣られるように目を閉じ、愛しい人の頬に両手を添えた。


 二人に、言葉は無かった。いつの間にか無意識にこぼれるビアンカの吐息に、ヴィンチェンツォは気が狂いそうだ、と思った。


 二人の息遣い以外の音だけが、木々に吸い込まれるようにかすかに聞こえていた。

 ヴィンチェンツォは、そっとビアンカの唇から離れると、体を抱き寄せ、彼女の額や瞼に優しく自分の唇を移し、何度も触れる。

 迷いなくヴィンチェンツォを見つめるビアンカの瞳は、ほのかに熱を帯びていた。

 再び意を決したかのように、その細い体を抱きしめたまま、ヴィンチェンツォはビアンカの顎に手をかけ、前より一層激しい口付けをする。

 

 時折、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 落ちてゆく自分の姿に驚きつつも、官能的な渦に溺れていくのには逆らえなかった。

 ビアンカは一度だけ月を見上げ、ゆっくりと自分の手をヴィンチェンツォの大きな背中に回した。

 


***



 それから、どのようにして王都まで戻ったのか、ビアンカは覚えていない。

 上の空で返事をし、何事かヴィンチェンツォが耳元でささやいていた。

 極限の状態で王都の人並みを抜け、疲れ切ったビアンカが馬から落ちそうになるのを、ヴィンチェンツォが何度も支える。

 昼過ぎの夏の王都は、人の熱気が溢れかえっているようだった。

 

 三階立ての建物が並ぶ一角に案内され、ビアンカはぐるりと辺りを眺め回した。

 ヴィンチェンツォが扉に手をかけると、開いていた。エミーリオがいるのだろうか。

 二人は横の倉庫を通り過ぎ、階段を上る。二階の居住区になっている扉を開くと、ヴィンチェンツォは足を踏み入れた途端に立ち尽くした。

「なんだこれは」


 部屋の中が荒れている。エミーリオはきれい好きのはず、と思いながらも、床にこぼれているスープのようなものや、ぼろぼろになって綿が飛び出ている長椅子を呆然と眺める。

 人の気配に気付いたのか、エミーリオが雑巾を片手に奥からあらわれた。

 エミーリオはヴィンチェンツォの後ろにいるビアンカに驚き、目を丸くしていた。


「ヴィンス様、おかえりなさいませ。えーと、これはその、すみません、すぐに片付けますから」

 数日ぶりにヴィンチェンツォに会えて、エミーリオは嬉しかったが、荒れ果てた部屋の現状を目撃され、気まずそうな顔をする。

 ヴィンチェンツォは疲れ切っているせいもあり、うん、とうなずいて壊れた長椅子に座った。


 テーブルの上で、何かが動いた。ビアンカが、あ、と小さな声をあげ、振り向いたエミーリオが「ああっ」と悲しそうな声をあげた。

「僕のごはんが……」

 小さな腸詰を口にくわえた、黒と灰色の縞模様の子猫が人間達を一瞬眺め、すぐにテーブルの下に姿を消した。


「あれはなんだ」

 がつがつと腸詰を食べている子猫を眺めながら、ヴィンチェンツォは尋ねた。

 エミーリオは神妙な顔をしている。

「ロッカ様がですね、忙しくてお世話をする暇が無いとおっしゃっていて、僕が二、三日預かる事にしたんですけど、勝手な真似をしてすみません」

「また増えたのか」

 ロッカの自宅には、猫が数匹住んでいるのは知っていた。


「でも、この子は特別に調教しているとおっしゃってました。いずれは鷹と連携させるつもりだそうです」

 そこまで頭のよさそうな猫には見えないな、とヴィンチェンツォは思った。何より、調教以前にしつけはどうなっているのだろう、と思う。

「犬にすればよかったのに」

「ですよね。でも、敢えて誰も成功したことがない猫だからこそ、意味があるそうですよ」

 そうか、とヴィンチェンツォは答え、腸詰を食べ終えて満足そうに毛づくろいする子猫を眺め続ける。


 手伝いを申し出るビアンカを断り、エミーリオはすぐに済みますから、そちらでお待ちください、と言う。

 美しく刺繍が施されていたはずの長椅子は、爪とぎのせいか、かつての姿は見る影もない。

 アルマンドに借りているものだったが、弁償しないと怒られそうだ、とヴィンチェンツォは思った。


 猫が悠々とヴィンチェンツォの前を横切った。一瞬こちらを見たような気がするが、気のせいだろうか、とヴィンチェンツォはなぜか猫相手に緊張していた。

 猫は隣に座るビアンカの足元に何度もすり寄り、ビアンカをじっと見上げる。

 にっこりと微笑み返すビアンカの膝にふわりと飛び乗ると、猫は再び毛づくろいを始めた。

 手を伸ばすヴィンチェンツォに向かって、シャーという声がもれる。


「なんだこいつは。ふてぶてしいにも程がある」

 子猫相手に軽い怒りを覚えるヴィンチェンツォに、エミーリオが言った。

「警戒心が強いのでしょう。でも、やっぱり猫も女の人がいいんですね」

 ヴィンチェンツォは白いお腹を舐め上げる猫を見て、あ、オスだ、と呟く。

 ビアンカは猫の頭を何度も撫でていた。

 満足そうな猫の姿に、ヴィンチェンツォは単純に嫉妬する。

 ロッカ、覚えていろ、とヴィンチェンツォは心に固く誓った。


 それからエミーリオにお茶を淹れてもらい一息つくと、空いている寝室に通され、ビアンカは一眠りすることにした。猫も一緒だった。

 ビアンカの後ろについて悠然と歩く姿に、ヴィンチェンツォは面白くないといった顔をしていた。

「夕方になればランベルト達が戻ってくるだろうから、それまで体を休めておいた方がいい」

「閣下も。ありがとうございました」


 見上げるビアンカの顔に、そっと自分の顔を近づけるが、ビアンカの胸元に収まっている猫が、またもやシャーとヴィンチェンツォに向かって威嚇する。

 俺は泣きたい、と心の中で涙を流しながら、ビアンカの額に軽くキスをすると、おやすみ、とヴィンチェンツォは言った。



***



 夕刻になり、ランベルト達は王宮から戻ってきた。外で二人を待っていたエミーリオは、早速報告する。

 メイフェアは鼻息荒く、慌ててヴィンチェンツォの家の階段を上がり、扉を押した。

 懐かしい友人の姿があった。メイフェアは軽い叫び声を上げながら、長椅子に座るビアンカに駆け寄り、隣に座っていたヴィンチェンツォを無意識に弾き飛ばして抱きついた。


 もういい加減にしてくれ、と諦めたようにヴィンチェンツォは立ち上がり、軽快な足取りで上がってきたランベルトに向かって「ただいま」と言った。

「よかった。ごまかすのも結構骨が折れましたよ。まあ、ロッカが人殺しみたいな顔で宰相府をうろうろしていたおかげで、陛下もあまりお聞きにならなかったし。ということで、誰も説明してませんから、あとはよろしくお願いしますね」


 迷惑をかけたぶんは、自分で後始末せねばならぬようだ、とヴィンチェンツォは思った。

 猫のことも相殺にしておくか、とヴィンチェンツォはロッカの不機嫌そうな顔を思い浮かべた。

 積もる話もあるだろう、とヴィンチェンツォ達は食事を取りに外に出る。

 嬉しそうにビアンカの腕に自分の腕を絡めて歩くメイフェアだった。

「意外とあっという間に戻ってきたわね。もう少し後になるかと思っていたの」

 ビアンカは答えず、ただ微笑んでみせるだけだった。


 早馬がスロの修道院が火事にあったと伝えていたので、心配でたまらなかったが、こうして元気そうな姿を見ることができ、本当によかった、と何度もメイフェアは呟いた。

 時折吹く夜風が、心地よかった。

 薄い赤と青の入り混じる空の下でも、人々の流れは一向に途絶えそうになかった。

 あらためて、王都は人が多い、とビアンカは思った。


 この大勢の中の一人として、平凡に暮らしていけたらどんなにいいだろう、とぼんやりしているビアンカの姿を、ヴィンチェンツォは横目でちらりと見る。

「無理をさせたようだし、たくさん食べて体力を補うといい」

 はい、と素直にうなずいて下を向くビアンカが可愛らしかった。

 

 食事中に、ここ数日の出来事を互いに説明するヴィンチェンツォとランベルトの話を、女性達は黙って聞いていた。場所は、いつもの食堂の二階である。

「国境では、ウルバーノの姿を確認することができませんでした。まだ断言できませんが、一応確認の為、アルマンドをコーラーにやりましょう。オルドの兄にも、それらしき人物が見つかったら知らせるように伝えてあります」

 ご苦労、とヴィンチェンツォはランベルトに言うと、ぬるい麦酒を飲み干す。


「ところで、これからビアンカはどうするの。王宮に戻る?一緒にフィオナ様のところで働くのもいいかもよ」

 メイフェアが聞きたかったことを口にする。

「いや、王宮はちょっと。まだ陛下に話していないし」

 言葉を濁すヴィンチェンツォに、一同の視線が集まる。自分の目の届くところに、としか考えていなかったせいか、具体的にどうするのかは考えていなかった。

 実は無策、とは言えずヴィンチェンツォは少し考え込んでいた。

 護衛も付けねばならないし、どうしたものか、と思い悩む。ロメオを呼び戻すか、と安易な答えが出た。


「……とりあえず、うちで預かる」

 え、とメイフェアが眉をひそめて異を唱えた。

「駄目です。危険です」

「人聞きの悪いことを言うな。だいたいあなた方新婚夫婦のところに、ビアンカが行きたがると思うか。あの家は狭いだろう」

 ヴィンチェンツォを無視して、メイフェアはビアンカに言った。

「遠慮しないでいいのよ。お隣に行くより安全だわ」


「確かに、今はちょっと。気持ちは嬉しいけど、遠慮しておくわね。でもすぐ隣だし、毎日会えるし」

 メイフェアの目を見て言うビアンカに、嘘でしょ、とメイフェアは驚いていた。

「エミーリオ一人に家事をさせるのも大変だと思うんです。私でよかったら、使用人としておいてくだされば、私もエミーリオも助かります」

 ビアンカは同意を求めるように、向かいに座るエミーリオに視線を送る。

 いいのでしょうか、とエミーリオは困ったように、ヴィンチェンツォを見た。

 かすかに微笑むビアンカを見て、ランベルトは無言で麦酒を飲み続けていた。


「信じられない。何かあったのかしら。ねえ、どう思う」

 食事が済んで、ようやくそれぞれの一日も終わろうとしていた。

「だからそんなの俺がわかるわけないだろ。まあ、仲が悪いようには見えないけど」

 ヴィンチェンツォ達の後ろを歩く若夫婦は、こそこそと話をしていた。

「俺らが口を出すことじゃないんだから、放っておきなさい。大人なんだから」

 単純に、俺らがうらやましかったんじゃないの、とランベルトは思っていた。


 メイフェアはビアンカの決定に、大いに不満を抱いていた。

 だったら、とメイフェアは口を尖らせて小さな声で言った。

「カタリナ様のことはきちんとしてもらわないとね。当然でしょう。揉め事の原因になるわよ」

 うーん、と弱気な声を出すランベルトだった。自分だったら無理そうだけど、ヴィンス様ならできる、愛の力で、と応援の意味を込めて前を歩く二人を見た。


「自分の家だと思って、好きにするといい。必要以上に働く必要もないのだぞ」

 ビアンカがいてくれる、と聞いてこの上なく嬉しかったが、同時に若干困惑するヴィンチェンツォだった。

「大丈夫です。暇だと思いますし」

 壊れた長椅子を張り替えよう、とビアンカは早速仕事を見つけていた。

「ロメオに、早く帰ってきてもらうから、それまでは少し不便かもしれぬが、我慢してくれ。アルマンドも倉庫によく来るから、俺の不在時に来てもらうようにする」

 はい、と答えて、ビアンカは隣のヴィンチェンツォを見上げた。


 もやもやするわね、とメイフェアは呟き、その声を聞いたエミーリオは苦笑いをしていた。





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