63の話~アデル・バイオレット2~
のどかなスロの町で、修道院の放火は大事件であった。
ロメオが司法局の役人を連れ、ビアンカを連れ去ろうとした男二人を拘束する。
隣の孤児院に飛び火することがなかったのは幸いだった。修道院自体は、礼拝堂の一部分だけ焼け残った。
夏の早すぎる夜明けが、煤に汚れたビアンカ達を包み込む。
妹分らしき少女達が、ビアンカの無事な姿に号泣する。
「これで、決心していただけるとありがたいのだが。もとより、選択肢は無い」
修道院の再建で、院長達に苦労をかけることになるのが心苦しかった。ビアンカはうなだれ、はい、と言うが、後ろ髪を引かれる思いであった。
「恐ろしい目に合われて、心から残念に思います。ですが、陛下が再建のために力をお貸ししてくれましょう。何も心配はいりません」
初めて見る宰相閣下とやらに、院長は目を白黒させていた。ただでさえ、修道院が燃えてしまって、とてつもないショックを受けていた。しかも放火犯は、ウルバーノの使いで幾度か修道院を訪れている男であった。
おまけに、宰相自らビアンカを迎えに来るとは、いったい何が起きているのだろう、と心労で倒れる寸前だった。
すみませんでした、と謝るビアンカに、院長はわずかに微笑んだ。
「あなたも元気で。嫌な事があれば、いつでも帰っていらっしゃい」
そうします、と答えるビアンカの瞳に涙が浮かぶ。
こんな大変な時に王都に戻るなど薄情ではないか、と自分を責める。
だが、ここに自分がいれば、また迷惑がかかるのは分かっていた。
何も事情を聞かない院長に心から感謝し、ビアンカは今日中にも王都に向けて出発する事に決めた。
修道女達の個室にも火が回り、何も残らなかった。ほんの少しの自分の持ち物ではあったが、全て燃えてしまい、ビアンカは悲しかった。
自分には、もう自分以外何も残っていない。
***
ヴィンチェンツォはビアンカを連れて、石畳の坂道を下っていく。夕食抜きで空腹だったヴィンチェンツォは、どこかで朝食を取りたかった。
ヴィオレッタのいる娼館のそばに来ると、ビアンカは思い出したように言った。
「ヴィオレッタ様にお礼を言いたいのです。今なら、いらっしゃると思うのですが、少し立ち寄ってもよろしいですか」
「彼女はどこにいるんだ」
あそこです、とビアンカが指差す先に、ヴィンチェンツォはいぶかしげな顔をした。
「すごいな。もう言葉が出ない」
ヴィオレッタの部屋に通され、ヴィンチェンツォは居心地悪そうにしていた。
誰の命令で密偵のような真似をしているのかわからなかったが、まさか娼婦に成りすましているとは予想外だった。本当にアデルなのか、とさえ思う。
「私は王都に戻らねばなりません。まだジュリアの治療も終わっていないのに、本当にすみません。代わりに、王都からお薬を送らせていただきます」
「気をつけて帰るのよ。ヴィンス様が一緒なら、きっと大丈夫ね」
パン屋に買い物に出かけていた他の娼婦がやってきて、ヴィオレッタに包みを渡すと、何事か囁いていた。
ありがとう、とヴィオレッタは礼を言うと、扉を閉め、反対側の鎧戸を半分ほど開けると外を見た。
朝食用のスープと先程買ってきてくれたパンを振舞われ、ヴィンチェンツォはほっと一息ついた。
「まだ、あなた方を探してる怪しい者がいるそうです。いったい何人いるのやら。私が行って、倒してきましょうか」
外の様子を伺いながら、ヴィオレッタが言う。
「いや、あまり派手に動くと、あなたもここにいられなくなるな。と言っても、ビアンカが王都に行くなら、あなたも移動するのか」
「主に聞いてみないとわかりません。とりあえずひと段落したら、私もほどよい所で、ここを去ります」
スロの町では、主に漁師達が中心となって自警団を組んでおり、司法局の役割もさほど重要視されていなかった。
司法局の役人も、この小さな町では数えるほどしかおらず、特に今日のような日は、警護に割いてもらえそうな人員は望めなかった。
自力でどうにかする、とヴィンチェンツォは言い切る。
ビアンカをじっと見つめて、何事か考えているヴィオレッタだった。
すみれ色の瞳を煌かせ、ヴィオレッタは楽しそうに言う。
「ビアンカ、その服脱いで。目立って仕方が無いわ。私が代わりにそれを着て、あなた方が船に乗るまで、奴等を引き付けます。どこに敵が待ち構えているかわかりません。明るいうちになるべく遠くまでお逃げ下さい」
ビアンカの白い修道服に手をかけ、さっそく脱がそうとするヴィオレッタだった。
「いいんですか」
「いいのよ。一度着てみたかったし。今度は修道院に潜り込むのも楽しそうね」
ヴィンチェンツォは何か言いたげであったが、着替え始める二人から目を逸らし、やりにくそうにしていた。
「聞いても教えてもらえないんだろうな。あなたは誰に命令されたのか。どこまで話を知っている」
もう一度尋ねるヴィンチェンツォに向かって、ヴィオレッタは軽く肩をすくめてみせた。
「そのうちわかりますって。陛下ではありませんよ。もっと他の、自由な方です。ビアンカ殿の身を案じておられる方は、他にもおります」
白いベールを被れば、完璧な修道女だった。
ヴィオレッタの私服に着替えたビアンカを見て、ヴィンチェンツォは、初めて見る薄い栗色の髪に驚いていた。
「確かに、そちらの方がしっくりくるな。あなたによく似合っている」
ありがとうございます、と恥ずかしそうにしているビアンカを、ヴィオレッタは不思議そうに観察している。
王都でのいきさつは、ヴィオレッタも知ってはいたが、どことなくぎこちない二人の様子に、なんとも言えない歯がゆさを感じた。
「船頭には話をつけてあります。あなた方お二人だけで船を出してくれるそうです。もう少ししたら、私は先に出ますから、折を見て桟橋まで行ってください」
ヴィオレッタは、ポケットに入っていたナイフを取り出し、ビアンカに忘れ物、と言って手渡した。
感謝してもしたりないくらい、ヴィオレッタには世話になった。
ビアンカはどうかご無事で、とヴィオレッタの手を取る。
***
男の声がする、と扉の前でロメオが立ち尽くす。別におかしい事ではない。
けれど、ヴィオレッタの所に朝まで居座ることを許された男は、自分以外にいないと思っていたロメオは、軽い衝撃を受けていた。
このまま帰った方がいいのかもしれない、と思いつつ、何故か吸い寄せられるように扉に耳を当てるロメオだった。
「本当に大丈夫なのか」
「あなたの方こそ、たまに暴走すると聞いていますから、そちらの方が心配です」
聞いたこともないような、柔らかな声を出すヴィオレッタがいる。
どういうことだ、とロメオは寝ていないせいもあってか、頭の中がぐるぐる回る気がした。
「王都に来たら、会いに来てくれ。改めて礼をするから」
「そうですね、お約束はできませんけど、そのうち」
ヴィンスの声だ、とロメオは気付き、ごくりと喉を鳴らした。
どうして奴がここにいるんだ、とロメオは数秒の間に、すっかり絶望的な妄想をしていた。
「では行きますね。ごきげんよう」
ヴィオレッタの涼やかな声が扉越しに響く。
「アディ、無理はするなよ」
名残惜しそうなヴィンチェンツォの声もその後に続いた。
ビアンカほったらかしで、お前は何をしてるんだ、とロメオは扉の前で、ぶるぶると震えた。
だが、何故か頭の中で、ヴィンチェンツォの声が引っかかった。
ヴィンスは今、ヴィオレッタではなく、アディと呼んだ…
勢いよく扉が開き、修道服姿の女性があらわれた。その後ろに、ヴィンチェンツォとビアンカの姿があった。
ロメオの突然の訪問に、ヴィオレッタは一瞬驚いた顔を見せたが、何も言わずにロメオの横をすり抜け、階下に向かっていった。
「そんな格好で、何をしてるんだ」
震える声で、ロメオが言った。
「ビアンカの代わりよ。私が奴等を巻いている間に、二人を船に乗せてあげて。何を仕掛けてくるかわからないし、頼んだわよ」
足を止めたヴィオレッタは静かに言い残すと、風のような身のこなしで消えていった。
「彼女はヴィオレッタだろう。なんでお前がアディなんて呼ぶんだよ」
混乱するロメオの様子に、ビアンカは驚いて絶句していた。
「聞いていたのか」
冷ややかな顔をするヴィンチェンツォに向かって、ロメオは思い切り睨みつけた。
「すみれ色の瞳だ。思い出せないか」
アデル・バイオレット…
「嘘だ。全然違う。アデルなわけがない」
「確かに卒業する前と、見た目は全然変わっているから分からないだろうが、ビアンカを助けてくれたのはアディなんだ。お得意のショートボウで奴等を倒してくれたのはアディだよ」
絶句するロメオの様子が、ビアンカを不安にさせた。彼女が、アデルではいけない何かがあるのだろうか。
「俺達はもう行く。悪いが、俺も事情はよく知らないんだ。後で本人に直接聞くんだな」
黙りこんだままのロメオに、ヴィンチェンツォは静かに言った。一応、気を遣っているつもりではある。
このまま内緒で王都に帰るつもりだったのに、最悪のタイミングで、ロメオがあらわれてしまい、ヴィンチェンツォにもどうにもならなかった。
行こう、とビアンカを促し、ヴィンチェンツォは部屋を後にする。
裏口から通りに顔を覗かせ、一見不審そうな者の姿は見当たらない。アデルが引き付けてくれたのが、どうやらうまくいったらしかった。
ビアンカの手を引き、ヴィンチェンツォは桟橋まで走る。
浅黒い顔をした壮年の男が、二人に気付き、小さな漁船に乗せてくれた。
その男の顔付きや身のこなしも、単なる漁師ではないように見えた。
俺の知らないところで、いろんな人間が動いている。ヴィンチェンツォは複雑な気持ちであったが、敢えて男には何も聞かなかった。
しばらくしてから、金色の髪を振り乱して追いかけてくるロメオの姿が見えた。
ゆっくりと桟橋から離れていく二人の姿に、ロメオが無言で手を振る。
「そうだ、宿代を払っておいてくれ。司法局宛に明細を出してもらっていいぞ」
思い出したように、ヴィンチェンツォが言った。
「当たり前だろ!」
怒ったように怒鳴り返すロメオに、ヴィンチェンツォは笑っていた。
深々と頭を下げたビアンカに向かって、ロメオはキスを投げる。
「あいつも、案外打たれ弱いところがあるんだな」
小さくなっていくロメオの姿を見つめたまま、ヴィンチェンツォは笑いが止まらない。
「笑い事じゃないと思いますけど。ものすごくショックを受けていたような…」
非難めいた口調のビアンカに向かって、ヴィンチェンツォは人の悪い笑顔を向けた。
「自業自得だ。女性は恐ろしい。あの様子では、何も知らずにさんざん貢いだんだろう」
過去に、二人の間に何があったのだろう、とビアンカは思うが、ロメオの反応を見る限りでは、あまりよい出来事ではなさそうだった。
***
ロメオは、去ってゆく漁船に背を向け、岸壁からヴィオレッタの部屋を見上げた。
スロに来たばかりにもかかわらず、暇を持て余し、桟橋をふらふらしていたロメオは、宝石のような瞳で、開け放たれた窓から、気だるそうに海を見つめる女性の姿に気付いた。
いつもの癖で思わず、窓辺の美女に愛想よく手を振るロメオを、ヴィオレッタはあっさり無視して、部屋の奥に消えてしまった。
お高いのは嫌いじゃない、とロメオはがぜんやる気になった。
初めはあまり歓迎的ではなかったヴィオレッタも、長い時間がかからずに、ロメオを受け入れてくれた。
それが客としてなのか、それとも彼女にとって特別な存在としてなのか、ロメオも深く考えた事はなかった。
全てが、計算されていた事だったのだろうか。
アデルは僕に、復讐したかったのだろうか。




