59の話~少女は夢を見る~
庭で花を囲みながら、優雅にお茶会をするフィオナ達に付き添い、メイフェアは客人の前にお茶の入ったカップを置く。フィオナを訪ねてきた客人は、ピア・イオランダという名のご婦人で、ヴィンチェンツォの姉であった。
粗相があってはいけない、とメイフェアは珍しく緊張しながら給仕をする。一度だけ、ヴィンチェンツォによく似た切れ味鋭そうな瞳を自分に向けられ、メイフェアはやはり血は争えないようだ、と思った。
幸い、メイフェアに注意をはらう様子もなく、ピアは目下の話題に夢中であった。
「フィオナ様からも、弟に言ってやってくださいまし。父も不在で、相変わらずというか、前より勝手が過ぎるようになりまして、私も困り果てておりますの。結婚はいや、跡を継ぐのもいや、と一体弟は何をしたいのかしら」
「そうはおっしゃいますけど、宰相様はそれはお忙しいようですよ。お父上にお戻りになるように進言した方がよろしいのではありませんか」
やんわりと、フィオナがバーリ公爵の帰途を促すような発言をした。
「やはりそのようですわね。父を抜きにして、縁談を進めるのもおかしな話ですし」
なんとしても、カタリナの嫁入りにこじつけたいピアであるらしかった。王族の姫が妻になるのであれば、我が公爵家も一層揺ぎ無い地位を確立する事ができるはず、とピアなりの計算だった。これ以上の良縁がどこにあるのか、と結婚を嫌がるヴィンチェンツォが理解できない。
突然、ピアが椅子から立ち上がり、遠くを歩いていく一団を凝視している。久しぶりに見る弟の姿を確認すると、ピアは「ちょっと失礼」と言い残し、勇ましい足取りで彼等を追いかけていった。
フィオナは我関せずとばかりに、そのままお茶を口に運んだ。
「よろしいのですか。エミーリオの話では、お姉様は激高すると手当たり次第に物を投げつけられたりするそうですが」
メイフェアはピアの迫力に気圧されていた。よく似た姉弟だ、と改めて思う。あれでは、確かに実家に帰されるのも無理はない、と納得してしまった。
「私などに、あの方達を止めるられるはずもないでしょう。なるようになります」
付き合いの長いフィオナは、ピア達のあしらい方は心得ており、結論としては放っておくのが一番だと思っている。
はあ、と不安げにメイフェアは言い、おいしいわね、とのん気に呟くフィオナを眺めていた。
「フィオナ様は、カタリナ様が宰相様なんかと結婚してもいいんですか。こう申してはなんですが、大事にしてくださるかどうかもわかりませんよ。身勝手な方ですからねえ」
おそるおそる、フィオナの真意を聞き出そうと、メイフェアは不躾ながらも質問してみる事にした。
「カタリナがそう言っているのなら、親としても特別反対する理由もないし。あの子ったら、初恋の人と結婚するって決めているそうなのよ。…初めての宴で、緊張して泣きそうな自分に優しくしてくれたのが、ぐっと来たらしいわ」
カタリナ様の初恋のお相手が宰相様か…と、メイフェアは暗い気持ちになる。年が離れすぎているからだろうか、盲目的に理想の男性像と重ね合わせているのかもしれない、とメイフェアは分析した。
「冷静になれば、いろいろ見えてくるものなのですけどね。全部素敵、で片付けておしまいのような気がします」
「よくわかるわね。実際そうなのよ。思考がずれているというか、単なる社交辞令でさえも、自分に都合よくしか解釈できないみたいで、私も甘やかし過ぎたのかしら」
夢見がちな少女は、数多くの恋愛小説を読み漁り、自分が主人公になりきったかのように思い込んでいる。
カタリナ様の目の前には、いったい幾重のフィルターがヴィンチェンツォ限定でかかっているのか、とメイフェアは思った。
困ったようにテーブルに片肘を付く、お妃らしくないフィオナであった。
***
誰かこの闘犬のような女性をどこかへやってくれ、と心の中で祈りながら、ヴィンチェンツォは久しぶりに会うピアの小言を、右から左へと流していた。
火の粉が飛ぶのを恐れた部下達は、自分を見捨てて、さっさと逃げてしまった。
「忙しいので、用件がおありでしたらお手紙でお願いします」
極めて事務的に言い残すと、ヴィンチェンツォは逃げ出そうとするが、「まだ話は終わってなくってよ」とピアに後ろから襟首を掴まれ、逃げたくても逃げられなかった。
いい加減にしてくれ、とヴィンチェンツォの口調はだんだん荒っぽくなる。
「だいたい、フィオナ様まで巻き込んで何をしてらっしゃるんです。陛下達と結託して思い通りになると思っているのでしょうが、私の気持ちはそれくらいでは動きませんから。もちろん、家にも帰りませんよ」
「あなたは自分さえよければそれでいいの。カタリナ様のお気持ちはどうなるのです」
今度は、いかにも自分に非があるような攻め方をしてきた。
「気持ちも何も、姉上ばかりが先走っておられるようで、私は何も知りません」
「私は肩身が狭いわ。あなたのしでかした事で、どんなに情けない思いをしているか、わからないでしょう。夫ばかりか、弟まであの女狐に食い物にされたと嘲笑されているのよ」
また始まった、とヴィンチェンツォはうんざりした。
ピアの離婚の直接の原因は、やはりイザベラであった。小娘に夫をたぶらかされ、我慢のならなかったピアは、夫の言葉に耳を傾けることなく、勢いのまま嫁ぎ先を飛び出した。その後、夫はオルド地方へ転属し、二人は三年近く顔すら合わせていない。
宰相府の二階の窓から顔を覗かせ、言い合う二人を見物している人々がいた。ヴィンチェンツォよりも早く、ピアが二階の人々を無言で睨みつけ、彼等はそそくさと消えていった。
「みっともない真似はやめてください。私は仕事がありますので、これにて失礼します。姉上もそんなに肩身の狭い思いをしていらっしゃるなら、これ以上王宮で恥をかかぬうちに、お帰りになられた方がよろしいのでは」
ヴィンチェンツォはピアの手を振り払い、一目散に走り出す。
お待ちなさい、と王宮中に聞こえるような大声で叫ぶピアの姿をどこかに隠してしまいたかったが、この際どうでもよかった。
一心不乱に走り続け、姉が追ってこないのを確かめた後に、北の庭園に向かう。ランベルトが必要以上に幽霊の話を強調したせいか、すっかり綺麗になった庭園には、相変わらず人が寄り付かなかった。
好都合だ、とヴィンチェンツォは屋根を直したばかりのあずま屋で昼寝をする事にした。
姉が直接王宮まで乗り込んでくるのは想定内だったが、具体的な対策はほぼ皆無である。ヴィンチェンツォは乱暴に上着を投げ捨てた。
足音が自分の方に向かってくるのを聞き、しつこいな、と不機嫌な顔をそちらに向けた。
その人物はカタリナだった。蛇に睨まれた蛙とは俺のことか、と蛇にしては愛らしい少女の姿を見つけ、視線を逸らすこともできず、静かに喉の音を立てるヴィンチェンツォだった。
***
「こちらにいらっしゃる事が多いと聞いていたので、勇気を出して参りました」
はあ、とヴィンチェンツォは呟くと、その先は言葉が続かず、カタリナの奇襲に目を点にしていた。
「でも、思ったよりは普通ですね。もっと化け物の棲家のようになっているのかと思っていましたが、安心いたしました。侍女達は怖がってついてきてくれませんでしたが。思えば、亡くなられた方も、お可哀相な話ですよね」
庭園の話だという事に気付き、ヴィンチェンツォは少しほっとするが、一人でうろうろされても迷惑なので、外までお送りした方がよいだろう、と椅子から立ち上がった。
「化け物はいなくても、生きている人間ほど危険なものはありませんよ。お一人はいけません。外までお送りしましょう」
「ヴィンチェンツォ様がいらっしゃるなら大丈夫です」
俯いたまま、その場を動こうとしないカタリナだった。嫌な汗が、ヴィンチェンツォの胸元を伝う。気は進まないが、やはりきちんと説明した方がよいのだろうか。
「お聞きせねばならないと思いまして、今日は会いに来ました」
聞きたくない、と直感的にヴィンチェンツォは思うが、いつまでも逃げ回っているわけにもいかないようだった。なんでしょう、と笑顔で答える。
「陛下からお聞きになっていると思います。私が妻では、お嫌でしょうか」
言い終えると、カタリナは唇をかみ締めて、こちらを見ている。少し震えているようだったが、無理もない、とヴィンチェンツォは思った。
だが、真摯な目で問いかけるカタリナに、これ以上逃げる事は不可能な気がした。
「カタリナ様はまだお若い。この先、いろんな方々との出会いがありましょう」
ヴィンチェンツォは何か違うな、と思いながらも、とりあえず納得してもらえるような台詞を口にする。
「私がお嫌いなのではないのですか」
泣かれたらどうしよう、と焦りながらも、ヴィンチェンツォは優しく言った。
「そうではありません。私のような者にはもったいないと思っています。年も随分離れているし、何よりカタリナ様の人生は、まだ始まったばかりです。おこがましい言い方ではありますが、今結婚するより、大勢の人と交わり、もっと世の中の楽しさを味わった方が、あなたの為でもあると思います。最近はあなたの年でご結婚される方も少なくなってきています」
そうですか、と目を潤ませながらも、ヴィンチェンツォの言葉に素直に耳を傾けるカタリナであった。
「私の気持ちを汲み取っていただけるとありがたいのですが」
心苦しさを押し殺して、ヴィンチェンツォは言った。
「おっしゃる事はわかりました」
あっけないほどに納得するカタリナであったが、ヴィンチェンツォはようやく解放されそうだ、と心が軽くなるのを感じた。
「そうですよね、私などまだまだ世間知らずで、もっと学ぶべき事はたくさんありますよね。これからは、ヴィンチェンツォ様に一人前と認めていただけるように、焦らず精進いたします」
話が違う方向に進んでいる、と気付いたヴィンチェンツォに、カタリナは清らかな笑顔を向ける。
そうではなくて、と言いかけるヴィンチェンツォに美しい仕草でお辞儀をすると、カタリナは小鳥が羽ばたくように、小走りで去っていった。
あれ、と何度も首をかしげるヴィンチェンツォは、完全に話が通じていないと思い知らされたのであった。
***
またもや定位置の窓枠に腰掛け、ヴィンチェンツォが暗く沈み込んでいるのを、ロッカは無視する。自分は何も知らない、と心の中で言い聞かせ、ロッカは書き物をする手を休めようとしなかった。下手な同情は禁物であった。
これ以上振り回されるのは御免だとばかりに、最近のロッカはヴィンチェンツォに甘い顔をする事はなかった。
「なあ」
「今度は何がありましたか。話だけなら聞きます」
精一杯の妥協である。
「…いや、人を納得させるにはどうしたらいいのかと思って」
先程の庭園での話をするのも、またどっと疲れそうだったので、ヴィンチェンツォは疑問だった事を口にする。
「いつもの調子で、はっきりおっしゃれば済むのではないですか」
この方も大概煮え切らないな、とロッカは呆れていた。
そうだな、と魂の抜けたような顔をしているヴィンチェンツォをちらりと見ると、お仕事してください、と冷たく言い、ロッカはまた書面に視線を移した。
扉を叩く音がして、ロッカはすばやく席を立つ。この状況で、訪問者の存在はありがたかった。
バスカーレが、子どもも泣き出すような恐い顔をして立っていた。ロッカに促され、バスカーレは無言で部屋に入ってきた。
「監視のかいもなく、ウルバーノがいなくなった。残念ながら、逃げられたようだ」
ロッカは口を固く引き結び、後ろのヴィンチェンツォを振り返った。




