54の話~仮初めの始動~
数日かけて、モニカ達が北の庭園の手入れをしてくれた。春になり、寂しげだった庭には、草木が生い茂り、様々な種類の枝葉で覆われており、まさに子どもの秘密基地の様相を呈していた。ほどよく枝葉を取り払い、雑草を抜いて掃除すると、幾分見た目はすっきりとした。
「こんなことなら、寒いうちに手を入れるべきでしたね」
ロッカが、申し訳なさそうにモニカに言った。
「いえ、返ってどんな種類の草木が生えているか分かり易いですよ。それにしても、ここだけずいぶんと変わったお庭だったんですね。プレイシアにはあまり自生していないはずの薬草があるんです。うちの庭にしかないと思っていたものがあるので驚きました」
払った枝をまとめながら、モニカが言った。
あれから暇を見て、ロッカはクライシュから借りてきた日記を読み進め、この庭はやはり、オルドの巫女によって手を加えられていたと知る。
そうなると、手伝ったのはファビオだったのだろうか。
「おじい様は、その薬草について何かおっしゃっていた事はありますか」
そうですね、とモニカは少し考えた。
「自然に根ざしたオルド地方の文化も素晴らしいとは言っていました。…もともと、お医者様にいただくお薬があまり好きではないので、自分で庭の薬草を煎じる事が多いですけど」
アカデミアでは、医薬の研究もさかんであった。むろん昔ながらの民間療法的に薬草を使用する事もあるのだが、化学的に合成する医薬品の研究が進められており、薬草の効能については、昨今では研究対象外な部分が多い。
「見違えたな。…わくわく感が減ってしまったのは残念だが。ところで、こちらの井戸はどうなっている」
ヴィンチェンツォがいつの間にか側に来ていた事に、二人は気付かなかった。モニカの父のサンドロが、軽く頭を下げた。
「ええ、だいたいわかりました。これから石を取り除く作業に入ります。と言っても、一箇所だけではないので、どれくらい時間がかかるかはわかりませんが」
そう告げるロッカに対して、そうか、よろしく頼む、とだけ言い、ヴィンチェンツォは「少し探検してくる」と庭園の中に入っていった。
自分が子どもだった頃に比べ、体が大きくなってしまったせいか、思っていたよりこじんまりとした庭園だと気付かされる。記憶を頼りに、なんとなく歩みを進めていくヴィンチェンツォであった。目指しているところに、やはり古ぼけた東屋が残っていた。板葺きであった屋根はかなり傷んで剥がれ落ち、もはや屋根の役目を果たしていない。懐かしい景色に、ヴィンチェンツォの仏頂面から笑みがこぼれた。
苔に覆われた石造りの椅子に座り、屋根の下から庭園の様子を眺める。一通り眺めると、仰向けに寝転がり、屋根の間から覗いている青い空を見た。
「やはりこちらだったんですね」
ランベルトの声がした。寝転がったまま、ヴィンチェンツォはご苦労、とだけ言った。
「女官達が興味津々で聞いてくるんですよ。こちらで何をやっているのかって」
彼が妻の仕事場に顔を出すのは、女官達にとって日常となっていた。人のよさそうなランベルトなら不審に思われないだろう、とヴィンチェンツォは彼に時々、仕入れた後宮の話を報告させていた。
「そうだな、あまり興味を持たれても困るから、思い出したように幽霊話でもしておいてくれ」
わかりました、とランベルトはいたずらっ子のように、にやりと笑った。
***
その後、ヴィンチェンツォとロッカは王宮騎士団の詰所へと赴く。こちらはこちらで、忙しい。
以前から老朽化が指摘され、増築か建て直しして欲しいと、ステラから思い切った要望が出されていた。様々な協議の結果、城下町の手前に、出張所のような分所を建てる事になった。場所は王領の、狩猟小屋のあった所である。
先月、狩猟小屋の管理人であった男が、小屋の中で死体となって発見された。長らく行方がわからず、探していた矢先の出来事である。表向きは何かの中毒死であろうとされたが、ヴィンチェンツォ達の間では他殺と見なされている。
そんな所に分所なんか嫌だ、とランベルトはごねていたが、本来の目的である、すぐ側にある隠し通路を全部埋め立てるのも不可能であった。
とって置けば、役に立つ事もある、とランベルト以外満場一致で、通路の管理を兼ねた城下の警備を強化する目的で、そこに騎士団詰所が建設される事に決まった。
ついでに、騎士団の団員も増やす予定になっていたが、その辺りは目ぼしい人材確保が課題であった。
「男女年齢問わない。使えそうな人間を探せ」
とヴィンチェンツォはバスカーレとステラに言った。
新しい詰所の設計図を眺めているヴィンチェンツォの横顔を、ステラはちらりと見た。
仕事に忙殺されていれば、喪失感を埋める事ができるとでもお思いなのだろうか、と推測するが、本人と踏み込んだ話をしたわけでもないので、どこまでも推測であった。
「なんだ」
ステラの視線に気付き、ヴィンチェンツォがこちらに鋭い視線を向ける。
「いえ、よくお似合いだと思って。目がくりくりしていたら、エミーリオそっくりだったんですけど」
適当にステラは返事をした。
ヴィンチェンツォは怪訝そうな顔をして、涼しげな切れ長の瞳を再び設計図に戻した。
慌しい足音が近づいてきて、会議中であった詰所に、アルマンドがやってきた。旅の帰り道だったのか、髭は青くなったままである。
「ご苦労。帰りがけにこちらに寄るとは、感心な心がけだ」
「そりゃもう、必死で帰って来るわよ。大変よ。ヴィンチェンツォ様にお伝えしようと寄り道せずに帰ってきたのよ」
アルマンドがぜいぜいと息を切らして言った。
「あの方が、イザベラ様がコーラーの王宮にいるのよ。髪の色も変わっていたけど、間違いないわ。サビーネ様も一緒よ」
一同の視線が、アルマンドに集中した。
「その線は考えていた。離縁されて、堂々と姿をあらわしたか。で、どうだった」
「なんとかって言う貴族の遠縁の娘だとか言われていたけど、名前はイザベルだったわよ。国王のお気に入りで、そのうち何とか夫人の称号でもいただくんじゃないかって聞いたわ」
「ご本人とお話されたのですか」
ロッカが慎重に尋ねた。
「悔しいったらないわ。私の顔を見て、『荷物はいらないって言った意味がわかったかしら』って。『流行遅れのドレスなんかいらないわよ』って足まで踏まれたのよ。許せないわ、あの女狐!」
その時ロッカは、思いの丈をぶつけるかのように暴れるアルマンドを見て、初めて『地団駄を踏む』の意味を理解する。
ずいぶん大胆だな、とヴィンチェンツォは感心したように言った。
「宣戦布告されたようなものですね。コーラーに直接抗議を入れるんですか」
バスカーレがヴィンチェンツォに尋ねた。いや、とヴィンチェンツォは言い、設計図の横にメモ書きをする。
「知らぬ存ぜぬで通されるだろうな。離縁された後だから何も問題は無いと言われれば、それまでだ。念の為、どう出てくるか見ものでがあるが、コーラー大使には説明を求めた方がよい」
悔しい、悔しいと言い続けるアルマンドを無視して、ヴィンチェンツォは静かに言った。
相変わらず野心的な女だ、とヴィンチェンツォは思った。エドアルドに見切りをつけ、新たな新天地では順調にのし上がっているようだった。
「コーラーの動向に注意を払うべきではある。なかなかしたたかな奴等だからな」
ヴィンチェンツォは厳しい目つきをして、一同を見た。
***
その夜、ヴィンチェンツォが借家に戻ると、エミーリオはまだ勉強中であった。邪魔をしないように、自分は静かに長椅子に寝転がり、酒を飲みながら今日届いた手紙を読み返す。
スロの修道院には、町の警備隊から警護の兵を数人派遣していた。今日受け取る、初めての報告書である。送り主は、今度はスロの司法局に飛ばされたロメオである。
こちらは変わりなく、のんびりと過ごしている。ビアンカは毎日、慈善活動に精を出し、町の貧しい人を訪ねてまわり、時には治療などを施している。彼女が主に着用している純白の修道服姿が大層美しく、時には神々しくすら見える、と書かれて終わっていた。
短い、とヴィンチェンツォは舌打ちし、ぐいと杯の酒をあおる。難しい顔をしているヴィンチェンツォに気付き、エミーリオは「お茶でもどうですか」と尋ねた。
エミーリオの申し出を断り、ヴィンチェンツォはそのまま酒を口にしながら天井を見つめる。
ヴィンス様は、どこか変わられた、とエミーリオは最近思うようになった。ヴィンチェンツォだけではなく、もっとわかり難いロッカですら、どことなく以前とは違うように見える。
以前に比べると、ロッカ様は周囲に対して、意図するものがわかりやすい反応をするようになった、とエミーリオは思っていた。
そしてヴィンチェンツォは反対に、感情をあまり表に出さなくなったような気がする。
相変わらず率直な言動が多いが、肝心なヴィンチェンツォの内なる気持ちが、みんなには届きにくくなっているのではないか、とエミーリオは寂しく思っていた。
やはり、獄中で何か思うところでもあったのだろうか、ぐらいにしか、若干十三歳の少年には推測できない。何より、ビアンカ様が居なくなってしまったのが相当こたえているのかもしれない、とはわかっていた。
エミーリオにとっても、ビアンカはとても好感の持てる女性であった。とにかく、見返り無しでお優しい方であった、と別れてからそれほど経っていないにもかかわらず、懐かしく思う。
ビアンカ様をからかいながらも、いつも楽しそうだったヴィンス様を見る事は、もうかなわないのだろうか、といつの間にか長椅子の上で眠ってしまったヴィンチェンツォに毛布をかけると、エミーリオはしばらくその寝顔をじっと見つめていた。




