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漂う白花  作者: 渡部ひのり
第二部
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48の話~破壊~

「驚かせないで下さい。そのような所で、何をしてらっしゃるのです」

 王宮に戻ってきたロッカは、ヴィンチェンツォの執務室へ直行するが、そこには薄暗い部屋の中で、明かりも灯さず窓枠に座り、幽鬼のようにぼんやりしているヴィンチェンツォがいた。ヴィンチェンツォは何も答えず、窓の外を眺めている。


「ひと段落したのであれば、お帰りになられてはいかがです」

「帰りたくない」

 ヴィンチェンツォの帰宅拒否が、一層酷くなってしまったようであった。

「では、一緒に食事でも。ご報告したい件もありますので」

 うん、と返事はしたものの、ヴィンチェンツォは一向に立ち上がろうとしなかった。ようやくヴィンチェンツォが調子を取り戻してきたはずなのに、自分の知らぬ間に一体いつ悪化したのか、とロッカは内心穏やかではなかった。


「大丈夫ですか」

 意味のない問いかけだとはわかっていたが、一応ロッカは尋ねてみた。うん、ともう一度ヴィンチェンツォは頷き、ごつんと窓に頭を預けた。

 誰かに何かされたのだろうか。だが、ヴィンチェンツォが誰かに一方的にやられっ放しというのも、おかしい話である。

 一人だけいた。エドアルドだ。確かエドアルドと手合わせすると稽古場に残っていたが、何か思い切り気持ちを砕かれるような事を言われてしまったに違いなかった。

 だがここ最近、妙に打たれ弱さを露呈しているヴィンチェンツォだけに、ロッカも気を遣って少しは甘やかしているつもりだった。


「なあ、お前どう思う」

「何がです」

「俺が結婚したらどう思う」

「どうと言われても、いつかはするおつもりでしょう。違うのですか」

 今までに感じたことの無い重圧が、ヴィンチェンツォの言葉から滲み出ているような気がした。

「エドアルド様から、縁談のお話でもありましたか」

 ヴィンチェンツォは答えなかった。否定の言葉がないということは、おそらくそうだったのだろう、とロッカは純粋に古い友人に同情した。

 窓にもたれかかるヴィンチェンツォに目をやると、ロッカは今までに無い衝撃を受けた。


 あのヴィンスが泣いている。子どもの頃、いつも泣いてばかりだったランベルトとは違い、ヴィンチェンツォが泣いている姿は見た事がなかった。それが、二十六歳になる若き宰相が、声も立てずに涙を流すままにしている。

「ヴィンス…大丈夫ですか」

「駄目だ。全然大丈夫じゃない。もう何もかもが嫌になった。俺は所詮、他人の手のひらの上で踊っているにすぎない」

 ヴィンスが壊れた、と衝撃を受けたロッカの思考も、しばし停止状態にあった。


「そんなに嫌なら、お断りすればいいのでは」

 どうにか気を取り直して、ロッカは月並みな意見を述べた。五つも年上の人に、自分は何を偉そうに言っているのだろう、とロッカは混乱しながら思った。

「できたらとっくにそうしている」


 ヴィンチェンツォは、頼まれたら断れない性格であった。だからこそ、頼まれるより先に頼め、と自分に言い聞かせ続け、それが気が付けば王宮一のやり手と言われるようになっていたのは計算外であった。だがそれでも、エドアルドの頼みだけは断れなかった。赤ん坊の頃からの付き合いであるエドアルドとは、自然とそういう関係性が刷り込まれてしまっているようだった。


「もう笑うしかないな。こんなことなら、適当にランベルトみたくギリギリの人生を送っていれば、それなりの幸せがあったのかもしれない」

 そう言いつつも、涙は流れるままであった。

「ですから、泣くほどお嫌ならやめて下さい。相手の方も不幸になります」

 過呼吸ぎみかもしれない、とロッカは思った。椅子に座り、ゆっくりと深呼吸をする。大事な話があったはずなのに、自分は何をやっているのか、と自問自答するが、彼の混乱は頂点を極めていた。


「その方が嫌なのではない。俺が自分自身に、嫌気が差しているだけだ」

 いつも自信満々なだけに、落込む反動もその分すごい事になっているようだ、とロッカはまたもや同情する。

 目の前にいるヴィンチェンツォは、自分の知っているヴィンチェンツォなのかどうか、もはやロッカには分からなくなっていた。



***



 朝目覚めると、枕を抱きかかえ、珍しくうつ伏せで寝ている自分がいた。重い頭を上げ、ヴィンチェンツォは薄い光の差し込む窓辺に目をやる。自分がどこにいるのかわからなかった。床に散らばる自分の服が目に入った。ため息をつくと、もう一度枕に顔をうずめる。いい匂いがする、とぼんやりしながらヴィンチェンツォは、ここはどこだ、と心の中で問いかける。

 窓辺の、鉢植えのオレンジの花が目に入った。その隣に置いてある、白い小箱も、どことなく見覚えがあった。

 がばりと上半身を起こし、ヴィンチェンツォは呆然とした。その時、かすかな音をたて、扉が開いて人が入ってくる気配を感じ、思わずその方を振り向く。


 ビアンカが、水差しを手にして佇んでいた。ヴィンチェンツォと目が合うと、ビアンカは一言、「おはようございます」と小さな声で言った。床に落ちている服を拾い集め、そっと長椅子の上に乗せた。


 ビアンカは、無言で固まっているヴィンチェンツォから目を逸らすと、テーブルに水差しを置き、伏し目がちに言う。

「お着替えがお済みになりましたら、また参ります」

 混乱するヴィンチェンツォを残し、ビアンカはそそくさと立ち去る。

 よりにもよって、何故自分がビアンカの部屋にいるのかわからなかった。夕べ、ロッカと飲みながら食事をした後の記憶が無い。だが、自分の足でこちらにやって来た事には違いなかった。最悪だ、とヴィンチェンツォは裸のまま、しばし呆然としていた。



***



 いつもならどうということもないメイフェアの非難がましい視線も、今日は心に突き刺さるようだった。視線が痛い、とヴィンチェンツォは思った。お食事は、と問いかけるビアンカに、無言で首を振るヴィンチェンツォであった。

 しばらく誰も口を聞かず、時折ヴィンチェンツォが水を飲む音だけが聞こえる。メイフェアが女官長に呼ばれ、忌々しそうにヴィンチェンツォを軽蔑しきった目で見ながら、部屋をあとにする。


「大丈夫ですか」

 ビアンカの声は固かったが、ヴィンチェンツォを気遣っているかのようであった。なんとも気まずい雰囲気の中、ヴィンチェンツォは逃げ出したい気持ちでいっぱいであったが、昨晩の状況もわからず、なにより謝罪が必要なのは目に見えていた。かなり長い事顔を合わせていなかったが、何故いきなりこんな事になっているのか、とヴィンチェンツォは死にたくなるような気持ちにさえなっていた。


「すまなかった。ご迷惑をおかけしたようだ」

 もう一度、一口水を飲み、やっとのことでヴィンチェンツォはかすれ声を出す。

「昔みたいに、メイフェアと一つのベッドで寝ました。大きいベッドだったのでよく眠れましたし。閣下こそ、まだお酒が抜けていないようですが、今日はよくお休みになられた方がよろしいのでは」

 嘘だった。昨晩はヴィンチェンツォの壊れっぷりに心底驚き、ほとんど眠れなかったのが真相である。

 聞きづらい事を、ビアンカが自ら教えてくれたので、少しだけヴィンチェンツォは安堵した。

 

 ビアンカが椅子から立ち上がり、何かを手にしてヴィンチェンツォの座る長椅子へと歩み寄ってきた。

「これをお飲みになってください。母直伝の二日酔いに効く薬です」

 茶色く濁った液体を差し出され、その匂いにヴィンチェンツォは思わず顔をしかめた。ありがとう、と情けない声で受け取り、鼻を詰まんで一息に飲み干す。うつむいたまま、空になった器を差し出した。乱れた長い髪が、肩に落ちてくる。


「このあと、出仕されるのですか」

 ああ、とヴィンチェンツォは痛む額に手を当てつつ、これ以上ここにいるのは耐えられなかった。

「御髪を少し、直しましょう。それでは皆が驚きますよ」

 櫛を持つビアンカの小さな手が、ヴィンチェンツォのうなじに触れた。母親に叱られた子どものように、ヴィンチェンツォは大人しく髪を梳かれていた。

 できました、と後ろで呟くビアンカに、前を向いたままヴィンチェンツォは問いかけた。

 

「怒ってないのか」

「呆れています」

 そうか、とヴィンチェンツォは一言残し、ゆっくりと重たい体を上げる。

 扉が開き、顔面蒼白のロッカが入ってきた。いつもであれば、美しく隙ない着こなしをしているはずが、よほど慌ててきたのか、襟元も髪も、だらしなく乱れきっていた。

「昨晩は、お騒がせしたようで、謝罪の言葉も見つかりません」

 平身低頭するロッカに、ビアンカは優しく微笑みかける。昨晩は、ヴィンチェンツォはもちろんのこと、ロッカも充分酒に飲まれていたようであった。


「また改めてお伺いいたします。本当に申し訳ありませんでした」

 ロッカの言葉に続き、神妙な顔でヴィンチェンツォも頭を下げる。お大事に、とビアンカは言うと、よろよろと立ち去る二人を見送った。



 メイフェアが戻ってくると、既にヴィンチェンツォの姿は無かった。

「どこまでもお騒がせな方達だわ。ロッカ様まであのような醜態を見せるなんて、すごくがっかりよ」

 昨晩、二人の今までの隙の無いイメージが、メイフェアの中で音を立てて崩れていった。

 ビアンカは笑いをかみ殺しながら、メイフェアを振り返る。

「昨晩の事は、全く覚えてないみたいだったわ」

 おめでたい人達ね、とメイフェアは皮肉を込めて呟いた。



***



「全然記憶がないんだ。俺は何故あそこにいたのだ」

「ヴィンスが行くと言い張ったからです」

 ヴィンチェンツォは足を止め、壁に寄りかかる。まさか夜這い、と不安げに言うヴィンチェンツォに、ロッカは冷たく「違います」と言った。


「クライシュ先生のお話のことですよ。今日じゃないと駄目だ、と駄々をこねたのはあなたです」

 そうか、と言いつつも、ヴィンチェンツォの記憶が蘇ってくる気配は、一向に無かった。

「ですが、ほとんど会話になっていなかったように思います。もう一度、ビアンカ殿に説明しに行かねばならないではないですか」

「そして、あそこで力尽きた、と」

 そうですね、とロッカは気まずそうに答えた。


 もう駄目だ、とヴィンチェンツォはぼやいた。

「昨日からそればっかりです。しっかりなさってください。自分を悪い方向に追い込んでどうするんですか」

 ロッカがいつになく冷たかった。すまない、と素直に謝るヴィンチェンツォに「謝罪はいいですから、早く行きましょう」と急かすロッカであった。






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