43の話~失意の人々~
ウルバーノは北の果て、モルヴァへ配属される事となった。モルヴァは寒冷な山岳地帯で、広大な森が広がる辺境の地である。
急な人事に、商務省の役人達は慌てふためき、次は自分の番か、と身に覚えのある者達は軽く恐慌状態に陥っていた。
エドアルドの執務室から出てきたウルバーノは、入れ違うように廊下でヴィンチェンツォと鉢合わせた。
しばし無言の二人であったが、先に口を開いたのはウルバーノだった。
「彼女はどうなる」
「お前の知った事ではない。さっさと戻れと妹に伝えれば済む話だ」
宰相の、いつもどおりの高圧的な物言いに気分を害することも無く、ウルバーノは軽く苦笑をもらした。
「何度言ってもわからぬようだ。私は知らない。監督不行届きではあったが、イザベラが己で決めた事。妹の処遇は、貴公の気の済むようにするがよい。だが、妹と交換することが従姉妹を解放する条件になりうるのだろうか。あまり彼女に無体な真似をすると、陛下が黙っていない」
「相変わらず陛下のお心を捕らえるのが天才的にお上手なせいか、随分と強気な発言をされるな。俺は、俺のしたいようにする。相手が誰であってもだ」
ウルバーノの口から、エドアルドの話を持ち出され、一瞬でヴィンチェンツォは腹立たしさに支配される。
「あれはいい女だ。だがお前とは決して相容れない。珍しすぎて興味がお有りのようだが、お前の手に負える女ではないぞ」
知ったような口を利く、とヴィンチェンツォは更に怒りがこみ上げてくる。
「俺に取られるのが、そんなに恐いか。ならばそれなりの誠意と熱意を示すべきだったな、今となっては遅すぎるが」
「もう少しだった。それをお前が、邪魔した」
ウルバーノの灰色がかった瞳が熱を帯び、同時に二人の鋭い視線が絡み合う。会話の内容とは裏腹に、二人の声はどこまでも静かだった。
「こんなことになるのなら、最初から王都に連れて来るべきではなかった」
「妹に責任をなすりつけるのも大概にしろ。お前も同罪だ」
視線を外し扉に手をかけるヴィンチェンツォに向かい、ウルバーノは低い声で呟いた。
「愚かなものだな。何よりお前は、あの女の本当の価値をわかっていない」
それはどういう意味だ、とのヴィンチェンツォの問いかけに答えることなく、ウルバーノは不敵な笑みを浮かべ、静かに遠ざかっていった。
***
「よく聞こえなかったが、また一戦交えていたのか。飽きないな」
エドアルドは署名していた手を止め、顔を上げた。
「寛大すぎるご処置に、言葉もありませんよ。よろしいのですか、今度はモルヴァを一手に掌握するかもしれません」
ヴィンチェンツォは、恨みがましい目でエドアルドを見つめた。
「人間より熊やら狐の方が多いと言われている場所であれば、それもあっという間かもしれんな」
冗談に聞こえない、とヴィンチェンツォはぼやいた。イザベラの件も汚職疑惑の件も、証拠不十分ゆえに、何一つ表立っていなかった。ウルバーノを中央から追い出すことには成功したようだったが、ヴィンチェンツォには、エドアルドの決定は不満すぎた。
「ついでに捕らえたコーラーの役人共は、引き続き取り調べております。何か本国から横槍が入るやもしれませんが、強気でお願いしますよ」
「それは私の仕事じゃないだろう。よろしく頼む。楽しみに待っているから」
不思議な答えを返し、エドアルドは再び未署名の書類の山に手を伸ばした。
***
その日も、朝から黙々と針仕事を進めるビアンカの姿に、メイフェアはいい加減うんざりしていたが、何も言わずに放置していた。お客様です、と女官長に告げられ、メイフェアは正直ほっとしていた。
自分の視界に入り込んできた人影に、ビアンカは息を飲んで凝視していた。
「しばらくぶりだ。モルヴァに赴任することになり、挨拶に参った」
久しぶりに会うウルバーノは、少しやつれたように見えた。
ビアンカは立ち上がり、無言で頭を下げた。ウルバーノに席を勧めるものの、何を話していいかわからず、長い沈黙が部屋中を包んだ。
「力になれず、申し訳なかった。そればかりか、何も知らないあなたをまたもや巻き込んだ。理由はどうあれ、あなたに軽蔑されて然るべきかもしれぬ」
謝るのは自分の方ではなかったか。この場で責められた方がどんなに楽か、とビアンカは自分を恥じてうつむいていた。
ビアンカとは対象的に、ウルバーノは泰然と佇み、椅子の上で足を組み直す。
「あなたをここに残していくことになる」
ビアンカははい、とだけ小さな声で答えた。
「また一人にしてしまうが、大丈夫だろうか」
はい、とビアンカは震える声で言った。
「あなたのことは、陛下にお願いしておいたから、困った事があれば陛下にご相談なさるといい」
はい、とビアンカは膝の上のスカートを握り締めた。
「もっと、あなたにたくさん会いに来ればよかった」
はい、とビアンカは鼻をすすりながら答えた。
「先程から、それしか言わぬが、恨み言があれば今のうちに言っておいた方がよい。しばらく会えぬのだから」
ビアンカは無言で頭を横に振り、鼻をすする音しか発さない。ウルバーノとは、今まで距離を置いていたが、どうしてもっと、理解しようとしなかったのか、理解してもらう努力をしなかったのか、とひたすらビアンカは後悔していた。
「いつ戻るかわからないが、それまで元気で」
ウルバーノは洗練された物腰でゆっくりと立ち上がると、椅子に座ったまま肩を震わせるビアンカに近づき、その額にそっと唇を触れた。
扉の外で、神妙な顔をしているメイフェアと、仮面のように無表情なロッカの姿があった。無言で深く頭を下げる二人に見送られ、ウルバーノは悠然と姿を消した。
***
メイフェアに、毎日のようにどうにかしろと八つ当たりされ続け、ランベルトも辟易していた。重い腰を上げ渋々と、帰宅時間を狙い、意図的に避けていたヴィンチェンツォの執務室を訪れる。
険しい顔で黙々と仕事に没頭するヴィンチェンツォを目の当たりにし、正直ビアンカどころではない、とランベルトは思った。
「お疲れなんですよ。たまには何も考えずに息抜きした方がいいんじゃないでしょうか」
「いつ死んでもおかしくないような分刻みの生活で、どうやって遊べというんだ。寝てる時が一番幸せを感じる」
薄々感じてはいたが、ヴィンチェンツォは明らかに去年より、若さが一気に削がれている、とランベルトは悲しくなりながらも実感していた。
「何ですか、その枯れた発言は。団長だってそんなこと言いませんよ。ご一緒しますから、出かけませんか」
「いやだ。最近妙な病気が流行っていると聞くし、全部コーラーの人間が悪いんだ。行きたいなら、お前一人で行って来い」
ランベルトは机に向かい続けるヴィンチェンツォの姿に、もどかしさで一杯になる。重症だな、と思った。
「だいたい、恋人がいる分際でいいご身分ではないか。どんな馬鹿でも、若さと体力があればいくらでも遊べるからな。所詮動物だし。いいなお前は気楽で。一日俺と代われ。一日宰相とか、やってみるか。俺は代わりに隅々まで、詰所の掃除をして終わるから」
まずい、とランベルトは直感的に思った。厳しく罵られて、発破をかけられているうちはまだいいが、こうやって愚痴愚痴と言い出すヴィンチェンツォはもっとやっかいだと、長年の付き合いで身にしみている。
「もういやだ。こんなに働いてるのに、誰も評価してくれない。家に帰れば出戻りの姉はうるさいし、ちっとも心安らぐ場所が無い」
ぶつぶつと呟きながら、ヴィンチェンツォは書類の確認をしている。その目には、もはや生気は宿っていない。
これ以上は無理だ、と心の中でメイフェアに謝りながら、ランベルトは火の粉が降りかからないうちに逃げるが賢明だ、と哀れな幼馴染を見捨て、詰所に撤退する事にした。




