42の話~一人~
「先程の宴はお楽しみいただけたのだろうか。反吐の出るような腐った連中ばかりで、毒気に当てられたのではないのかと心中お察し致す」
ウルバーノの口から、その話題が出たのは予想外だった。自ら首を絞めるような発言をして、どういうつもりなのか、ヴィンチェンツォは注意深くウルバーノの表情を観察しながら、一言言った。
「お前が言うか」
「私はただ、きっかけを与えただけに過ぎない。彼らがどのように行動するか、そこまで私が操れるものでもない」
ヴィンチェンツォに語りかけるウルバーノは、先程の挑発的な態度とは違い、どこまでも静やかであった。
この男は、いつもそうだ。落ち着き払った物腰とは裏腹に意志の強い瞳は、向けられた者の居心地を悪くするような、不思議な力がある。
熱くなりすぎては、この男の真意をとらえることはできない、とヴィンチェンツォは必要以上に高ぶっていた自分に、はやる気持ちを抑えるべく自制心を働かせていた。
「自分の置かれた状況をよく理解していらっしゃるようで何より。後ほど、じっくり話は聞かせてもらう」
そう言い終えると、ヴィンチェンツォはバスカーレに合図する。
バスカーレが一歩馬の足を進めたのを見ると、突如ウルバーノの従者達が向きを変え、主人を置いて、元来た道を走り出した。
「追え!」
バスカーレの怒号が鳴り響き、数騎の馬が従者達を捕らえようと一斉に駆けて行った。
「主を置いて逃げるなど、それほどまでに貴公は人望が無いのか」
ヴィンチェンツォの皮肉に応じる事もなく、自嘲的にウルバーノは呟いた。
「そうかもしれぬな。あやつらはコーラーから来た者で、私に忠誠を誓っていたわけではない」
逃げ出すそぶりも無く、ウルバーノは、事の成り行きを見守っているようだった。
暗闇を走る従者達の耳元を、風を切るような音が駆け抜けていった。そしてそれは次の瞬間、物理的な衝撃となり、彼らに襲い掛かった。
叫び声を上げながら、従者達が落馬する鈍い音が聞こえる。
「やめろ、やめてくれ」
地面を這いつくばりながら、男達は恐怖に満ちた声を上げ続けた。
明かりを掲げたバスカーレ達が追いつくと、光の奥には、馬上のロッカの姿があった。
「申し訳ありません。遅くなりました。皆様ご無事でしょうか」
ロッカが首から下げた銀色の笛を吹くと、二羽の鷹がうずくまる男達から離れ、悠然とロッカの元へと戻っていく。
男達が縄で拘束されるのを横目で見ながら、バスカーレは今日初めて、にやりと笑った。
「おいしい所を持っていくな、相変わらず」
「間に合わなかったらエミーリオに顔向けできません。深刻な事態だと何度も手紙をよこしてきたので、気が気ではありませんでした」
「今回は、エミーリオの杞憂だったかもしれんな。むしろ伯爵のおかげで、思いの他普通に収まった」
知らず知らずのうちに、自分のペースにヴィンチェンツォを巻き込んでいたウルバーノを垣間見て、自分はウルバーノを過小評価していたかもしれない、とすらバスカーレは思わされていた。
***
メイフェアは、宴の日以来笑わなくなったビアンカの心を、どうやって慰めるべきか考え続けてはいたが、具体的に良い考えも思い浮かぶ事無く、数日が経とうとしていた。
ビアンカは毎日、針仕事に没頭して一日を終えている。その日も、以前ヴィンチェンツォに地味だと言われた靴に、過剰なまでの装飾を施していた。
「毎日針ばかりでは、疲れも溜まると思うし、たまには散歩などどうかしら」
恐る恐るメイフェアが提案するが、ビアンカは「いいえ、これでいいのです。もともと、これくらいしか私に出来ることなどないのだから」と素っ気無く言い返し、針から手を休めることはなかった。
あの日からビアンカは、泣いて取り乱す事も無かったが、同時に笑顔すら消し去ってしまった。自分が思っていたより、ビアンカは脆いのかもしれない、とメイフェアはもどかしさも感じていたが、仮に自分が逆の立場であれば、とっくに逃げ出しているはずだ、とも思う。
閉塞感に押しつぶされそうになりながら、メイフェアは誰か助けて、と心の中で呟いた。
「で、俺にどうしろと」
息苦しさに耐えられなくなったメイフェアは、ビアンカを女官長に託し、騎士団の詰所に逃げ込んでしまっていた。
帳簿を睨み続けるステラの後ろの壁には、「整理整頓」と書かれた大きな木の札がぶら下がっている。
ランベルトは机に足を乗せたまま、メイフェアの愚痴を黙って聞くしかなかった。
「そもそも、宰相様がいけないのよ。肝心な事はお話にならずに、一方的にビアンカを巻き込んだりするから、こんな事になるのよ。そうでしょう」
そうだな、と曖昧に返しながら、ランベルトは天井を仰ぐ。どちらの肩を持っても、面倒な事になるのは目に見えていた。
「そうは言っても伯爵の件は、極秘事項ゆえ、そうそう誰でも知っているわけではない。かと言って、ビアンカ殿に事前説明が無いのは確かにまずかったかもしれぬな」
ステラが帳簿の頁を戻しながら、反応の薄いランベルトに代わり、事務的に答えた。
「ヴィンス様だって、相当機嫌が悪いんだよな。もう一週間以上あのままだろ。俺、宰相府に行くの当分やめる」
今までは、何かとこまめにビアンカの元を訪れていたヴィンチェンツォであったが、あれから一週間程度といえども、互いに顔を合わせていないのが異常にすら見える。ヴィンチェンツォ様のイライラの原因は、それもあるんだろうな、とランベルトは思っていた。
「結構な事だ。こちらでも、仕事は山のごとくあるからな」
ステラの威嚇するような声に、ランベルトは身の引き締まる思いがする。
「なんか随分冷たいじゃないの。ステラはいいの?ヴィンス様があんな調子じゃ、周りだって迷惑千万だと思うけど。エミーリオとか、毎日涙目なんだろうなー」
ランベルトの非難めいた発言を流すように、ステラがその話はお仕舞い、とばかりにきっぱりと言い切った。
「何があったか詳しくは知らぬが、所詮痴話喧嘩であろう。首を突っ込むのは野暮というものだ。閣下の未熟さを責めても、どうにもならぬ」
「ちょっと待ってよ。そんなんじゃないから。実は今までそういう目で二人を見てたの?」
違うよね、と念を押すように、メイフェアを振り返るランベルトであった。違うのか、と首を傾げるステラに、慌ててメイフェアが詰め寄った。
「ものすごい誤解をされてるようですけど、全然違います」
「閣下が、あのように他人に興味を持つ事も珍しいので、そうなのかと思っていた。そうか、違うのか…」
どこで間違えたのか、と返却された答案用紙を眺めるかのように、怪訝な顔をしているステラがいた。
もう片方の靴の刺繍も、ようやく終わりそうであった。日が落ちて、部屋の中が次第に薄暗くなってきた事を無視するかのように、ビアンカはいまだに、ひと針ずつ集中していた。
このように、たった一人で針仕事をするのも、しばらくぶりのような気がした。いや、一人で居る事が当たり前だったのに、気が付けば、自分の周りはあまりにも賑やかだった。賑やか過ぎた。
これからどうなるんだろう。何も考えず、ただ縫い物をして終わる日々の方が、幸せだったのだろうか。遠からず元のように、そんな生活に戻る気もする。その方が、自分も気楽でいい。
毎日、ヴィンチェンツォの罵声を浴びながら、足にまめを作り続けたダンスの練習や、脳が破裂するかと思うほど頭を使ってカードをしたり、そんな日常が夢だったかのように思えてくる。
やっと、自分が望む静けさが戻ってきた。
なのに、何故涙が止まらないのだろう。
ビアンカは、自分以外誰も居ない部屋で、扉を見つめたまま、涙がぽたぽたと真新しい靴に染み込んでいくのを感じていた。




