1の話~白~
控えめに、自室の扉を叩く音がした。
ビアンカは一瞬だけ、針の手を止めて顔を上げると「どうぞ」と答える。入ってきた相手を振り返ることもなく、再び淡々とレースを縫いつける作業を続ける。
「イザベラ様がお呼びなの。…いいかしら」
燃えるような赤い髪を持つ若い女官は、中の人物に気遣うような、控えめな言葉を発した。ようやく手を止めて、針を手早く始末すると、ビアンカは無言でドレスを作業台に置いたまま立ち上がった。
「いいも何も…今すぐ行くわ」
ほっとした様子で、女官が扉に向かって歩いていく。足音も立てずに、ビアンカは女官の後に続いた。二人は無言で扉の外に出る。
「詳細は…あちらで」
「わかりました」
二人は、必要以上の会話をかわすこともなく、イザベラの部屋まで静かに歩いていた。途中、他の老女官とすれ違ったが、さりげなくビアンカは深々とスカーフを被った頭を下げて、顔を伏せた。
「ごきげんよう、メイフェア」
「いつもご苦労様でございます。女官長様」
特にビアンカに反応する様子もなく、にこやかに笑いかけて女官長が通り過ぎていった。彼女が遠く離れていくのを背中で感じながら、かすかにメイフェアはため息を漏らした。
***
「頼んだわよ」
彼女、エドアルド二世のお妃の一人であるイザベラが、そっけない物言いをするのには慣れている。だがメイフェアの腹の中は、今日も煮えくりかえっていた。
どうにかして愛想笑いを浮かべてみせたが、自分の女主人に対する嫌悪感は日に日に増していた。
そんなメイフェアの心中を察してかビアンカは、さりげなく隣にいるメイフェアの背中をなだめかすように、イザベラから見えないようそっと撫でると、抑揚の無い声で一言だけ言った。
「わかりました」
ビアンカは先ほどの簡素なお針子の服装から、今は豪奢なドレスに身を包んでいる。彼女を知らない人物であれば、「姫君のようだ」と思わせるような、贅をつくした身なりである。
そしてビアンカと、彼女の前でむっつりとしたまま腕組みをするイザベラの顔の造りは、とてもよく似ていた。イザベラに似せたビアンカの濃い化粧は、いっそう二人の見分けを付きにくくしているようだった。
美しく装ったビアンカを、蔑むような目で眺め回すと、イザベラはふっと鼻を鳴らした。
「わかってるでしょうけど、余計な事はしないでちょうだい。私が戻るまで、ここで大人しく過ごしていればよいのよ」
はしたない。と心の中で、メイフェアは毒づいた。ビアンカならそんな鼻をならすような下品な振る舞いはしないのに。
「そろそろ出発なされたほうがよろしいかと」
イザベラの後ろに控えていた腹心の侍女がせかすような声を上げた。
「もちろんよ。では明日ね」
大きめの黒いショールをふわりと被ると、イザベラと侍女は衣裳部屋に消えた。衣裳部屋には、王宮の外に出る隠し通路がある。数え切れないほどの衣装に隠れるように、目立たぬような簡素な木戸がある。イザベラは、お忍びで外出する際には、いつもそこから出入りしていた。
ビアンカとメイフェアは、頭を下げて二人を見送った。
イザベラと侍女の、石段を降りてゆく足音がだんだんと遠ざかっていく。この扉がどこに通じているのか、ビアンカ達には知る由もなかった。
重苦しい空気から解放されて、ようやくメイフェアは元来の明るい笑顔を取り戻した。
「やっと解放されたわ。衣装の続きは、私が手伝ってもよいし。私も今日の仕事はほとんど終わりよ。あとはイザベラ様の食事を出すくらいね」
「じゃあ、あなたも一緒にいただきましょう。お付き合いいただけるかしら?」
ビアンカはにっこりと友人にほほえみかけた。