31の話~甘い罠~
もはや、ビアンカの頭の中は、真っ白だった。どうしてこうなった、と自問するが、全ての事の始まりは、どうやらイザベラの誘惑からのようである。まさか宰相様にまでそのような、と目の前が真っ暗になる気がした。
ヴィンチェンツォが、甘い声で囁く。
「今までは、あなたがお妃という立場にあるゆえ、私も遠慮せざるを得ませんでしたが、ようやくわかりました。私はあなたに去って欲しくない。お互い、楽しめばよろしいのではありませんか。私も、頂点に立つ身とはいえ、まだまだ手中に収めたいものがあるのです。貴方と、貴方の兄上のお力があれば、それも難しい事ではないでしょう」
何も答えられず、ビアンカは目をそらすだけで精一杯だった。その隙をついて、ヴィンチェンツォの唇が、ビアンカの首筋にそっと触れる。
ビアンカは悲鳴を上げ、必死で抵抗した。ビアンカを捕らえる腕に、力が込められた。
「やめてください…どうしてこんなことを。そんなつもりは毛頭ありません。私はここから出たいのです。あなたが何をどう思おうと、私にはもう関係ありません。これ以上巻き込まれるのはまっぴらです。ここから出して!私は…私は…」
懸命に叫び続けるビアンカの首筋から、ヴィンチェンツォの唇は離れない。体の自由を奪われ、今まで感じた事のない感覚に怯え、ビアンカはいつのまにか泣きじゃくっていた。
「もう限界か、ビアンカ・フロース」
ビアンカの耳たぶを甘噛みすると、ヴィンチェンツォが低い声で囁いた。
ビアンカはびくりと体を震わせ、ヴィンチェンツォの腕の中でいっそう小さくなった。
「随分張り合いがないな。もう少し、楽しめるかと思っていたが」
ようやく体を離し、ヴィンチェンツォが自分の乱れた髪をかきあげた。
何も言わず、ヴィンチェンツォは立ち上がり、いつもの冷ややかな顔でビアンカを見下ろしていた。
ビアンカは自分の心臓が、今までに無いほど早く打っているのがわかった。今、自分の名前を呼ばれた。知らないはずの、この男に。
もう、しらを切り通す気力も残っていなかった。
「イザベラの衣装担当だとかいう、ビアンカ・フロースだな。反論はあるか」
無言で、ビアンカは首を横に振る。
「なかなかの化けっぷりで、当初は気付かなかった。こちらもまんまと騙された。お前はイザベラの何だ。血縁者であろう」
ビアンカはそっと目を閉じた。今度こそここまでだ、と思った。
「私の父は、デメトリ・マレットです。イザベラ様とは従姉妹にあたります。今まで申し訳ありませんでした」
下を向いたまま、ビアンカは声を震わせた。
ロッカが、遠慮がちに入室してきた。もう少し早く来てくれたらよかったのに、とビアンカはロッカを呪った。泣きはらした目のビアンカを見て、ロッカは露骨に非難がましい視線を、ヴィンチェンツォに向けた。
「遅くなりまして、申し訳ありません。ランベルトもヴィンスを待っています」
「そういうわけだ。一緒においでいただけるだろうか」
差し伸べられた手を、ビアンカは怒りを込めて力いっぱい払いのけた。
「一人で歩けます。逃げもしません。ですから、私に近寄らないで」
いったい、何があったのだろう、とロッカは眉をひそめた。ビアンカが、怒りをあらわにしてヴィンチェンツォを睨み付けている。どうやら元来の性格らしく、この方もそれなりに気が強そうだ、とロッカは思った。
ヴィンチェンツォ達に連れられ、宰相府の一室へとビアンカは案内された。そこには、ランベルトとメイフェア、そして女官長の姿もあった。
メイフェアは、ビアンカの姿をみると涙を流した。大丈夫よ、とビアンカは泣きはらした目のまま微笑んだ。
胃の中が空になり、少しだけロッカは体が楽になったが、顔色の悪さは隠しきれない。
各々の顔をそれぞれ見ると、ヴィンチェンツォは椅子に座り、口を開いた。
「では調査報告を。遠路はるばる、ご苦労であった」
***
六年前、オルド人の母親の手により、十三歳だったビアンカは、スロの修道院に預けられた。その後の母の行方は定かではない。ほどなくして、血縁者だというマレット伯爵が現れ、寄付を行った。マレット伯爵の死後、ウルバーノとイザベラが面会し、お妃として城に上がるイザベラの為に、ビアンカの出仕を要請した、という簡単なものであった。
ロッカはあまり長くない調査書を、淡々と読み上げた。
「それ以前のことは、修道院でも把握していないとのことでしたので、ビアンカ殿からご説明いただけますか」
「私は、オルド戦役の後に生まれ、両親と各地を転々として暮らしていました。父が亡くなったのはスロの修道院に入る少し前です」
オルドの前線でも、ビアンカの父デメトリは、かなり重要な位置にいたとされる。最終的に連隊を指揮し、敵の篭城する砦に攻め込み、その時の傷が元で亡くなった、と軍務省の記録には残っている。それが違うということは、脱走兵だったという事になる。公に、マレット家の血を引く者だと名乗れなかった理由は、そこにあったのだろうか。
ヴィンチェンツォは、そのまま続けさせた。




