29の話~急降下~
次の日、ヴィンチェンツォは丸一日、自室で死んだように眠っていた。自分もバスカーレ達に混ざり、心置きなく酒を飲んでいたので、結局帰宅したのは明け方になってからであった。
目を開けると、日は反対側に沈みかけていた。飲み過ぎたのか、体が珍しく重かった。夕食の時間なのだろうが、胃が受け付けない。エミーリオを呼んで、水を貰うことにした。
「どうだ、勉強は進んでいるか。今まで慌しくて申し訳なかったな。今日から試験まで、休暇を取ってよい。俺は一人で出仕するから」
と、ヴィンチェンツォはエミーリオに向かって言った。
「大丈夫でしょうか。…明日の出仕を最後に致します。お気遣いありがとうございます」
今日からと言ったのに、律儀な子だと思った。軽くエミーリオの頭をぐしゃぐしゃと撫で、「もう少し寝る」とヴィンチェンツォは言った。
ロッカは、まだスロから戻っていなかったが、明日には戻るだろう、と天井を眺めながらヴィンチェンツォは考えていた。聖誕祭の後でもよい、とヴィンチェンツォは言ったのだが、「自分はあまり賑やかな場は得意ではありませんので、結構です」と、早々にスロへ旅立っていった。
途中船に乗り換えるから、それほど時間はかからないと思います、とロッカは言っていたが、ロッカは船酔いする体質ではなかっただろうか。十代の頃、海辺で小舟に乗り、みなで釣りをしたことがあったが、普段隙のないロッカが、珍しくうつろな目で横になっていたのを思い出した。
スロには何があるのだろう。ロッカが、どんな報告を携えて戻ってくるのか、ヴィンチェンツォにもわからなかった。
昨日の、ビアンカの険しい顔が思い出され、何とも苦々しい気分になった。まるで、自分が小動物を虐めているかのような気もしたが、あくまでイザベラである以上、冷徹に接さねばならない。大方、昨日もビアンカなのであろうが、確信は持てずにいる。ただ、一緒にいても、不快感を感じる事はなかったのは事実であった。
***
明くる日、ヴィンチェンツォはエドアルドに呼び出され、エドアルドの執務室を訪れていた。まだ重苦しい頭と体を引きずり、執務室に入ると、エドアルドに椅子を勧められた。断る事もなく、ヴィンチェンツォは重い体を椅子に沈めた。
「調子悪そうだな。飲みすぎか、過労か」
エドアルドは、ヴィンチェンツォとは対照的に、実にすっきりとした顔をしている。のんびり、フィオナと一日過ごしたのだろうか。
「両方ではないでしょうか。私が死んだら、マウロに復帰してもらってください」
ヴィンチェンツォは痛む頭に手をかけ、投げやりに言った。
「体調の悪いところ、申し訳ないのだが、少し聞いて欲しい事があってだな」
「なんですか」
「イザベラが、里に下がりたいと申し出た。彼女も、依然として病気がちのようであるし、返したらよいのではないかと私は思っている。お前の意見はどうだろうか」
ヴィンチェンツォはゆっくりと顔を上げると、エドアルドをじっと見つめた。
「そのような話は、いつ」
「昨日、女官長から申し入れがあり、ウルバーノに確認すると同じことを言っていた。書面もある」
エドアルドは、ウルバーノからの自筆の手紙を宰相に手渡した。手紙には、「なるべく早く静かに王宮を辞したい、と妹は申している」と書かれていた。
「なんでしょう…イザベラ様らしくないというか、殺しても死なないような方が、今更王宮を出たいなどと。後宮に見切りを付けられたのか。マレット伯も同じ意見なのでしょうか」
静かに、エドアルドは頷いた。
「妹には後宮の水は合わないようだ、と言っていた。妹が出戻りでも構わないとまで言われた。ウルバーノなりに、自分の欲しい地位も手に入れつつあるようだし、そこまで妹の立場に固執していないように思える。逆に、潔いではないか」
エドアルドにとっては、即答しないヴィンチェンツォがむしろ意外であった。
「お前も同意見なのだと思っていた。重臣と妃の揉め事は私も好かない」
ヴィンチェンツォは返答に窮し、無言になった。黙り込んでしまったヴィンチェンツォから視線をそらし、エドアルドは穏やかな口調のまま言った。
「それに、私だけ最近蚊帳の外のような気がするが。お前達が、イザベラの事でいろいろ動いているのも知っている。ありがたい事ではあるが、秘密主義は大概にな」
もう少し、まともに頭が働きさえすれば、いくらでも返事のしようがあったのだが、今日のヴィンチェンツォは馬に乗るのでさえ、いっぱいいっぱいであった。
「申し訳ありませんでした。陛下を不快にさせるつもりはありませんでしたが、配慮が足りなかったようです。…ただ、この件でもう少しお時間をいただけましたら」
やっと、ヴィンチェンツォは返答した。
「揉め事は好かない、と先程言ったはずだが。静かに去りたいと申しているのだから、そうさせてやって欲しい」
エドアルドの不興を買うのは本意ではない。だが、確かめなければならない。
ウルバーノがいなくても、国は回る。無駄に臣下に対して、義理堅くある必要も無い。自分が王なら、誠実でない部下は切り捨てるが、実際のところ、エドアルドの計り知れない苦労を思いやると、そうも言えなかった。
「ご気分を害すると、敢えて承知して申し上げます。私なりに、宰相としての務めもありますゆえ、時と場合によります。ですから、時間をいただきたいのです」
エドアルドは、不機嫌さを隠さなかったが、「それほどあちらも待てないだろうから、早めにな」とだけ言い、ややあってから、もう下がってよい、と言った。
エドアルドの執務室を退室すると、ヴィンチェンツォは心に決めた。ロッカを待つ時間もない。早めに、と陛下がおっしゃっているのだから、早めに結果を出すしかない。
ヴィンチェンツォは執務室に戻り、しばらく考えていたが、「イザベラ様を訪ねる。使いを出せ。すぐに行くと伝えろ」と部下に言った。
***
すぐって何よ、相変わらず傲慢なんだから、とメイフェアは怒りながら部屋を整えていた。ビアンカも化粧台の前に座り、最近慣れてきたイザベラ仕様の化粧を、急いで施す。
扉が叩かれ、ビアンカは慌てて寝椅子に座る。化粧は大丈夫だろうか、とさりげなく扇を口元で広げた。
「ようこそおいでくださいました」と、メイフェアは歓迎していない声で言った。ヴィンチェンツォの顔は、固い。じろりとメイフェアを睨み付け、メイフェアはその迫力に泣きそうになる。
「イザベラ様と、話がある。出ていけ」
珍しく、ヴィンチェンツォの物言いも乱暴であった。メイフェアは、それでも臆せずに言い返した。
「あなたが何をするかわかりませんから、私はここを動きません。私はイザベラ様を守ります」
ヴィンチェンツォはあからさまに舌打ちし、剣を部下に預けると、無造作に目配せした。書記官達がメイフェアを担ぐようにして退室していく。
「ちょっと何すんのよ、失礼ね。変なところ触らないで!」
メイフェアの大声が、だんだん遠ざかっていく。
今までに無く、ヴィンチェンツォは苛立っているようだった。今までだって、ここまで殺伐とした態度を取ることもなかっただろうに、さては、里帰りの件なのだろうか。ヴィンチェンツォも天敵がいなくなって、せいせいするはずだが、そのわりには何故か恐い顔をしている。
ビアンカは、扇の下で、ごくりと喉を鳴らした。
「座ってもよろしいか。…飲みすぎのせいか、頭が重い」
ヴィンチェンツォは椅子を一つ引き寄せると、ビアンカの目の前に座る。
「無理にこちらにおいでになる必要もありませんでしたのに、どういったご用件でしょうか」
ビアンカの、迷惑そうな声が聞こえた。
「貴方が、里に下がりたいと申しているとお聞きした」
ヴィンチェンツォは、静かに言った。ビアンカは改めて寝椅子にゆったりと座りなおした。
「そのとおりです。あなたも、その方が嬉しいのではありませんか。ご心配せずとも、私も引き際というものをわきまえております」
けだるそうにビアンカが言う。
「意外な事をおっしゃる。もっと、力を欲していたではありませんか。私なら、あなたの望みをかなえて差し上げられるかもしれない、と言ったら」
ビアンカは、怪訝そうな顔をして、ヴィンチェンツォの方を向いた。何を言っているのかわからなかった。責められているようでもなかった。
ヴィンチェンツォは立ち上がると、ビアンカの寝椅子に歩み寄り、彼女の細い手首を掴む。とっさの出来事に、ビアンカは扇を床に取り落とした。
「あなたの、以前の申し出を受けてもよいと言っているのです。私とあなたが組めば、互いに更なる力が手に入る、とおっしゃってくれたのは貴方ではありませんか」
ヴィンチェンツォの台詞と、ゆっくりと耳元に顔を寄せてくる仕草に、ビアンカは完全に言葉を無くしていた。




