20の話~メイフェアの決意~
ヴィンチェンツォは、剣を突きつけたまま、無言でビアンカを見下ろしていた。その表情は、いつもにも増して冷え切っていた。
部屋には、メイフェアの嗚咽する声だけが響いていた。
漸く、ヴィンチェンツォが低い声を放った。
「あなたがそこまでおっしゃるからには、私も信用しないわけにはいかないようだな。陛下も、無駄な流血は望んではおられぬ。あくまでもあなたに非が無ければ、の話だが」
ヴィンチェンツォは続けた。
「あなたに、機会を与えよう。だが、次は無い」
震えて硬直する両手を、それ以上傷つけないように、少しずつ開かせる。ビアンカの目は定まらず、呼吸は乱れきり、ようやく手を離した後も、体を震わせていた。
ヴィンチェンツォはゆっくりと刃に付着した血を拭い、鞘に収めた。その間も、ビアンカから視線を外す事はなかった。
「止血を。医師を呼んで下さい」
ロッカはメイフェアに言い、ビアンカの手のひらを、手持ちのスカーフで抑える。メイフェアは涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、転げるように部屋を飛び出していった。
ヴィンチェンツォは軽く顔をしかめると、ひざまずき、ビアンカのもう一方の手に、自分のスカーフを握らせた。
マルタは、口を挟むことなく、一部始終を見守っていたが、ビアンカの隣に座ると、そっと、ビアンカのがたがたと震える肩を抱いて目を閉じ、一言だけ、二人に言った。
「お引取り下さい」
二人は立ち上がり、ビアンカから数歩下がった。今度こそ、部屋は沈黙によって支配される。それ以上二人を咎める事もなく、マルタは黙ってビアンカの肩を抱いて、呼吸を整えさせるように、彼女に向かって何事か囁いた。
ややあって、老人や中年の女官を「早くして!」と叱咤しながら連れて来たメイフェアが、部屋へ駆け込んできた。
その姿を確認すると、ヴィンチェンツォとロッカは頭を下げ、扉へと向かっていった。
「ご不便ではありましょうが、表に警備兵を立たせます。あなたは依然、監視対象から外れてはおらぬ」
その言葉に、メイフェアは激高していた。
「帰れ!二度と来るな!」
宰相に対しての暴言に、その場にいた侍医や女官が凍りついた。
ヴィンチェンツォは軽く苦笑するが、その言葉を気に留める様子も無く、無言で退室していった。
ビアンカの手の傷を見るなり、老医師は「なんてことだ…」と絶句した。幸い、傷はそれほど深くはなかったが、これはしばらく、相当痛みが続くでしょう、と悲しげに医師は言った。沈静用の液体を、海綿に含ませ、ビアンカの鼻先に持ってくると、ゆっくり呼吸をするように言った。
「少しお休みになられた方がよろしいようです。もうすぐ、眠気がやってくるでしょうから、ご安心下さい」
***
「ヴィンス、少しやりすぎではないですか」
ロッカは、ヴィンチェンツォを非難するつもりはなかったが、女性が刃によって血を流す事には不快感を感じていた。
「やりすぎなのはあの女だ。…あれでは、こちらも剣を収めるしかない。随分と思い切った事をするものだな」
イザベラの行動は、ヴィンチェンツォにとっても予想外だった。愚かな女の浅知恵だ、と吐き捨てるようにヴィンチェンツォは言った。
ロッカはふいに立ち止まり、少し何かを考えているようであった。そんなロッカの様子に気付き、ヴィンチェンツォも足を止めて振り返る。
「何かまだあるのか」
「いえ…少しまとまりましたら、改めてご報告させていただきます。ですが今はまだ何とも」
控えめに言い、ロッカは再び歩き始めた。
***
ビアンカが落ち着いて眠りに着くのを見届けると、マルタはメイフェアに向かって「貴方も少し休みなさい。私が側におりますから」
と言った。渋るメイフェアを部屋から退室させ、マルタはビアンカの寝顔を眺めていた。
「似てるけど、似てらっしゃらないわね、やはり」
いつまで隠し通せるのか、マルタにも正直、分からなかった。極秘に、イザベラの行方を探らせてはいるが、まだ確実な報告を受けるまでには至っていない。
最初からこの方がお妃であったなら、と想像してしまった自分に、マルタは苦笑せざるを得なかった。
メイフェアは、珍しくぼんやりとしたまま所在無く歩き、いつの間にか幽霊庭園の辺りまで出てしまっていた。一人の散歩なんて、つまらない。ビアンカが一緒だから、いつだって楽しかったのだ。
今朝の行動は、ビアンカらしくなかった、とメイフェアは思った。あそこまで激しい彼女を見たのは初めてだったし、ビアンカを失ってしまうのではないか、と初めて恐怖したのも今しがただったのである。
先程の恐ろしい出来事を思い出すと、自然にまた涙が出てきた。
よくよく考えてみれば、ああまでなってしまったのは、ビアンカが衝動的な行動を起こしたからであって、ヴィンチェンツォに非はないのだが、今だ彼に対して激しい怒りを覚えた。そして彼に対する暴言を思い出し、やっとそこで、自分が何をしたか実感した。
そのうち、お咎めがあるかもしれない…。
メイフェアはその場にへたり込んで一人、ぐずぐずとすすり泣いた。
「…もしかしてメイフェア?どうしたんで…」
ゆっくりと、メイフェアが顔を上げる。
「よくお会いするわね。お菓子ならないわよ」
ランベルトが、すっかり化粧の剥げ落ちたメイフェアの顔をみるなり、「おおおお…」と低い声で呟くと、驚いて後ずさった。
「酷い…そんなに驚かなくても…傷つくわ…。でも、もうどうでもいいわ…」
鼻をすすり、ハンカチーフで鼻をかむ。ランベルトもメイフェアの横に膝を抱えて座った。
「何かあったみたいだね…バタバタしていたし。イザベラ様と何かあったんでしょう」
静かに頭を横に振り、メイフェアは黙り込んだ。
「今日はお友達は一緒じゃないんだね」
「ええ…ちょっと」
泣きやんだらしいメイフェアに、ランベルトは優しく声をかけた。
「本当に、何か困った事があったら、いつでも相談に乗るから…と言っても、聞くだけしかできないけどね」
「ありがとう」
「騎士だからね、一応。困ったご婦人は放っておけない」
メイフェアはくすりと笑った。
「本当に、困った時は、助けて下さる?…無理よね、貴方の立場じゃ」
ぼそりと、メイフェアは呟いた。
「そんなに深刻な事態なのか?まあ、時と場合によるけど」
若干焦ったように、ランベルトが言う。
そうよね、と再びメイフェアは呟き、ゆっくりと枯れ草を払いながら立ち上がった。
「ありがとう、少し落ち着いたみたい」
ランベルトも、ゆっくりと立ち上がり、メイフェアの泣き笑い顔を見つめていた。
「あなたが笑っていないと、寂しいな」
ランベルトは、いつもエミーリオにするように、メイフェアの頭をぽんぽんと軽く撫でた。
「大丈夫。ごめんなさいね、こんな所を見られてしまって、ちょっと恥ずかしい」
ランベルトはにやりと笑った。
「なんか、もういろいろ慣れたみたいです。今更恥ずかしいだなんて」
ランベルトは軽く深呼吸すると、メイフェアの手を引き、その柔らかい体をそっと抱きしめた。メイフェアは驚いて思わずランベルトにしがみついたが、そのまま、意外と逞しい腕の中に収まっていた。
「…お願い、助けて」
メイフェアは腕の中で、呟いた。頬を一筋、涙が伝った。




