13の話~失われたもの~
「汝、ヴィンチェンツォ・バーリを王国宰相に任ずる」
「…つつしんで拝命いたします」
ヴィンチェンツォは、国王が何か言いたげな顔をしているのが分かった。心なしか、笑っているようにすら見える。意外と情報通なエドアルドのことだ、きっと事の顛末を知っているのだろう。
無表情のまま、ヴィンチェンツォは辞令をうやうやしく受け取った。
***
石鹸草の葉は、籠いっぱいになりつつあった。手に取った野草の香りを楽しみながら、メイフェアが世間話を続けた。
「新しい宰相様が、お妃様達の所に、ご挨拶にいらっしゃるのよね。…まだ大丈夫だと思うけど、ビアンカは一応部屋にいた方がいいかもしれないわね」
「そうね」
「そうだわ!」と、突然思い出してメイフェアは立ち上がった。
「料理長が、今日の晩餐会用にくるみと葡萄のパネトーネをたくさん焼くから、少し分けてくれるって言ってたのよ。焼きたて貰ってくる」
ビアンカは嬉しそうに微笑み、「早く帰ってきてね」と手を振った。
「すぐ戻るから」
手を振り返すメイフェアの声が遠ざかってゆく。
もうほとんど草は刈り終わっていた。ビアンカは後片付けを終わらせて、メイフェアを待つ事にした。
今日も晴天であった。風がほとんど吹かないせいか、あまり寒さは感じなかったが、ビアンカは、肩にかけたショールを胸元に引き寄せた。
確かに、今日はなにかと皆が忙しそうにしているが、この庭園では、穏やかな時間がながれていた。
苔むした石造りの椅子らしきものに腰掛けると、ビアンカは一休みすることにした。手持ち無沙汰になってしまい、ちょっと考えてから、ビアンカはそっと歌を口ずさみ始めた。昔、花を摘みながら母が口ずさんでいた歌だった。
最近はあまり歌う事もなくなったせいか、ところどころ、詩は曖昧になっていた。
その名は聖なるや天の神
清き翼をもって
我らに慈悲と栄光を…
清き翼をもって…
「忘れてしまったわ」
寂しそうに、ビアンカは呟いた。
カサリ、と枯れ草を踏む音がしたのに気づき、思わずびくりと肩を震わせ、ビアンカは振り返った。
ロッカ・アクイラが、黒髪の少年をつれていた。黒つるばみのような艶やかな髪と、大きな瞳が印象的な少年である。依然と変わらず、ロッカの眼差しには、居心地の悪さを感じた。ガラス玉のような目で、こちらを見ている。
「その歌は。とても珍しい、不思議な響きです」
「母に…」
「そうですか。とても綺麗な歌ですね」
と、少年の方を見やった。ええ、と少年は、はにかんだようにロッカに微笑み返す。
「もう手の怪我は治りましたか」
唐突に、ロッカが話題を変える。ぎくりとして、ビアンカは下を向き、「はい、おかげさまで」とだけ答えた。
「そうですか。それはよかった」
よかったと言っているようには聞こえない口調ではあるが、悪意はなさそうだった。自分が思っているよりも、この人は優しい人なのかもしれない。と、ビアンカは思った。
「今日のパネトーネも絶品よ。たくさん貰ったわ!」
もぐもぐとパネトーネの切れ端をかじりながら、上機嫌でメイフェアがやってきた。が、ロッカの姿を見るや否や、たちまち借りてきた猫のように縮こまった。なんでまたこの人がいるのだろう…。
「あの、よろしかったら、おひとついかがです?そちらの方も。すごくおいしいですよ」
と、ぎこちない笑顔を作りながら、メイフェアはナプキンに包まれたパネトーネを差し出す。
「ありがとうございます」
と抑揚のない声で礼を言うと、ロッカは二切れ受け取り、一つをエミーリオに渡す。エミーリオも、戸惑いながらではあったが「ありがとうございます」と少年らしいはきはきした声で礼を述べた。
「それでは、お邪魔して申し訳ありませんでした」
とパネトーネ片手に歩き出す。少年は、ビアンカに向かって、まだ幼さの残る仕草で頭を下げ、ロッカの長身を追う。でも少し変わった人だ、と思いながら、ビアンカはロッカの後姿を見送った。
「あの人とお知り合いなんですか?」
エミーリオは、不思議そうにロッカに話しかけた。ああ、と軽く呟き、その後は無言である。あまり余計な詮索はしない方がいいような気がした。ロッカ様のお考えになる事は、僕などにはとても計り知れないような事ばかりなのだから…。
なぜだろう。いつもであれば、何のためらいもなく、聞けた事なのに、またもや名を聞くのを忘れてしまった。というより、聞き出せなかった。野に咲く小さな花のような娘に、一瞬だけ圧倒されるような感覚を覚えたのだ。
きっと、歌のせいだな、とロッカは思った。
古オルド語の、今は失われた言葉の歌であったから。