11の話~暗転~
明くる日、ヴィンチェンツォは、オルド・レンギア王国の宰相、マウロ・クロトーネの執務室を訪れていた。マウロは自分の孫ほど年の離れた青年の来訪を、心から喜んだ。
夏の暑い盛りに、マウロが倒れてから、臨時でヴィンチェンツォが宰相代行を務めていた。幸い、マウロの命に別状はなかったが、大事をとって自邸で療養生活を続けていた。
久しぶりのマウロの登城に、城内はいつもより賑やかであった。
「生きておったか」
一目ヴィンチェンツォを見るなり、意地の悪い笑顔でマウロは言った。
「閣下こそ…私に正式にその椅子をお譲りになるつもりで、今日はいらしたんでしょう。死ぬ前に、奥方孝行しながら、のんびり余生を送る気になりましたか」
ヴィンチェンツォは悪びれる様子も無く、軽口を叩いた。憎らしい事を言いながらも、珍しく心からの笑顔を見せるヴィンチェンツォを、にこにこと老宰相は眺めていた。
「もう準備はできとるのかね?ならばさっさと正式に辞令を…」
「ちょっと待って下さい」
ヴィンチェンツォは焦りを隠せなかった。確かに冗談では言ったが、まさか今日宰相を譲るから、と言われても簡単には受けられない。
「私は、陛下の補佐官に戻りたいんです。だいたい、俺のような若輩者に務まる訳がないと他の方々がおっしゃっているのもご存知でしょう」
意外そうな顔をして、マウロはヴィンチェンツォを見た。
「今じゃなければよいのか。…お前、いくつになった」
「…陛下と同じでございます。もうすぐ二十六になりますが」
ふむ、と顎をひと撫ですると、マウロはしばらく考え込んでいたが、長い時間がかかることもなく、あっさりと答えを出した。
「陛下が、陛下をやっておられるんだから、お前も宰相でいいんじゃないのか」
「なんですか、その変な理屈は。私は承知しかねます」
本気で焦っているヴィンチェンツォを、マウロは面白そうに眺めている。
「そう、その陛下なんだが、もうワシはとっくに陛下のお墨付きをいただいておるし」
ヴィンチェンツォは、その事実を告げられ、衝撃を受けていた。自分の知らない所で、勝手に陛下が話を進めていたなど、寝耳に水、であった。
「そうですか…私には一言も、そんな話はされなかったのに」
ヴィンチェンツォは、マウロに恨みがましい視線を送った。
「それにのう…ワシも今年の聖誕祭は、孫とのんびり遊びたいんじゃよ。最近はすっかり、じいじじいじと懐いてくれてのう…」
可愛い盛りの孫の姿を思い出し、目尻を下げる老宰相の顔は、単なる好々爺の顔になっていた。
駄目だ…現場を離れたのが、少々長すぎたのかもしれない。と、ヴィンチェンツォは絶望的になって、マウロをじっと眺めていた。
***
「昨日は面白かったぞ。ランベルトが、陛下の返り討ちにあってなあ…」
「珍しいこともあるものですね」
ひと勝負終えて、ヴィンチェンツォが頬を伝う汗をぬぐった。相手は、王宮騎士団の団長、バスカーレ・ブルーノである。
ヴィンチェンツォは壁によりかかり、他の騎士や近衛兵達が剣を合わせているのを眺めていた。久しぶりの手合わせは、結構体に堪えた。ましてや、豪腕のバスカーレ相手に一本取るのは、ありったけの体力を消耗した。今日はこれで何もかも終了、とヴィンチェンツォは勝手に決めた。
「で、ロッカはいつ戻ってくるんだ」
どいつもこいつも好き勝手な事ばかり言ってくれる…と、ヴィンチェンツォはため息をついた。
「無理ですよ。…辞令が降りるそうです。俺の。クロトーネ公爵は引退なさるそうですよ。お孫さんと遊びたいとかなんとか…」
恨みがましく、ヴィンチェンツォは虚空を見つめた。その視線も、いつもより力がない。
「そいつは痛いな…正直、人手不足なんだが。ロッカが戻ってくれれば、俺もだいぶ楽になるんだがなぁ」
顎ひげを撫でつけ、バスカーレは手にした水をがぶ飲みして、ふう、とため息をついた
。
「とりあえず、ランベルトで我慢してください。ロッカは駄目です。宰相府の仕事が回らなくなります。こちらも人手不足です」
「だから、事務処理もできる副団長が欲しいんだよ。ランベルトは、どうにもそそっかしくてなあ…天才なんて、そんなものかもしれないが」
情けない顔をして、バスカーレは熊のような巨体を揺らした。威圧的な風貌とは裏腹に、バスカーレは強引さに欠けた。バスカーレとランベルトの二人がトップでは、どうにも不安が拭えないのは、ヴィンチェンツォも同じである。
「まあ、使えそうな人材がいたら、そちらに回しますよ…」
数人、候補に挙がりそうな人物の顔を思い浮かべながら、ヴィンチェンツォはかつての上司に向かって答えた。
今日はもう一度、マウロに会う必要がありそうだった。