132の話~白い花は箱の中2~
「そろそろお迎えの時間だよ。あとはいいから、支度をしなさい」
デメトリが奥の部屋から顔を出し、書き物をしていたビアンカに声をかけた。
「はい。今日もお帰りは遅いのですか」
「なるべく早く帰るから、お母様をよろしくな」
ビアンカは頭に白いベールを被り、部屋の外へ出る。
入り口で待っていたロメオが片手を振り、ビアンカはほっとしたように駆け寄った。
すれ違いざまに挨拶する人々に、ビアンカは無言で頭を下げる。
「少し買い物して帰る?」
「いえ、真っ直ぐ帰ります」
妙に最近ビアンカの口数が減り、あからさまに考えごとをしているような難しい表情が多くなっていた。
こんな状況じゃ無理ないか、とロメオは何も話さないビアンカの横顔をちらりと見る。
ビアンカ様だ、と駆け寄る顔見知りの子ども達に、そこでビアンカはようやく笑顔を見せた。
「こんにちは。新しいおうちはどう?」
とっても楽しい、綺麗、と口々に言う子ども達の頭を撫で、ビアンカは争そうように報告する子ども達の話をうんうんと聞いていた。
「明日遊びに行くわね」
再び馬に乗り、微笑むビアンカに向かって、子ども達はちぎれんばかりに大きく手を振っていた。
「人気者だ」
「子どもだから、子どもと気が合うんです」
言い終えたビアンカの瞳に、派手な身なりをした一団がこちらに向かってくるのが映っていた。
「ごきげんよう、ビアンカ様」
「ごきげんよう」
「先日はビアンカ様がいらっしゃらなくて、皆残念がっていました。次回は是非、おいでください」
「ありがとうございます」
気品溢れる笑みを浮かべ、ビアンカは見る者がため息を漏らすような優雅な仕草で身をひるがえした。
「人気者だね」
「私が珍しいだけよ。私なんかと仲良くしても、何もないのに」
先ほどとはうって変わり、刺々しい口調になるビアンカである。
いつの間にか、ビアンカから再び笑顔が消え去っていた。
半分ほど赤く染まった木々に目を向け、ビアンカは黙って馬に揺られていた。
「そりゃあビアンカは、王都で一番有名な女の子なんだから仕方ないんじゃないの。いいとこのお嬢さんだし、皆に崇拝される巫女様だし、君と仲良くなりたいと思って当然じゃないかな」
そうそう、とロメオは懐からいくつかの封書を取り出し、並走するビアンカに差し出した。
「一応渡しておくよ。読むか読まないかは君の自由で。誰からか、知りたい?」
「…そうですね」
「僕の昔の同僚とか、知り合いのお金持ちの人とか。まあ、読んでみるとわかると思うけど」
「もちろん、読みます。ありがとうございます」
ビアンカは礼を述べて受け取ったものの、その顔に喜びはなかった。
「馬鹿丁寧にいちいち返事書かなくてもいいんだよ。勘違いする奴もいるだろうから」
「あくまでお礼のお返事ですから」
やっぱり渡さないで処分した方がよかったのかな、とロメオは少々の後悔が入り混じったまま、無言になるビアンカの横顔を見ていた。
「元気ないから、みんな心配してる」
「すみません。母の容態も思わしくないので…病気じゃないって言うんですけど、起き上がれないくらい辛いようで」
鈍すぎる、とロメオは呆れたようにビアンカの後姿を見つめていた。
どうして誰も教えないんだろう、とロメオは首をひねるが、思えば皆忙しくてあまりビアンカを構っていなかったような気がした。
アデルがクライシュのお供で東の帝国へ旅立ち、エミーリオもモルヴァでヴィンチェンツォと共に、王都と変わらぬ生活を送っているようだった。
一度だけ、モルヴァに着いて日も浅い頃に、ヴィンチェンツォから「帰りたい」とたった一文の、短いながらも悲壮感溢れる私信がロッカ宛に届いた。
かの地で何が起きているのだろう、とランベルトは青ざめ、慌ててエミーリオに手紙を送ったが、エミーリオもヴィンチェンツォ同様に「たくましく生きていこうと思います」と、いつになく力強い筆跡で短い手紙を送ってきた。
それ以来、僻地からの便りは途絶えたままである。
メイフェアは離宮に勤務となり、王都の借家に戻るのは数日おきであった。
フィオナの出産に備え、近頃はますます市街から遠ざかっているようだった。
一方ステラも、これ以上はありえないというほどに育ったお腹を抱えているものの、一向に休暇に入る様子もなく黙々と事務仕事をこなしている。
膨らみきったお腹を見るたび、ロメオは明日にでも何かが飛び出してくるのではないかと気が気ではなかった。
瑠璃は大作に取り掛かっているとのことで、家から一歩も出ずにひたすらペンを走らせている。
時折思い出したように伯爵邸を訪れるものの、以前のように皆で過ごす日は無くなりつつあった。
「みんな忙しそうで、ビアンカも寂しいよね。街に行くにも、最近は全部ビアンカが仕切らないといけないし。せめて瑠璃ちゃんが一緒に来てくれればいいんだけど、一度書き出したらてこでも動かないから」
「大丈夫です。街の人達も落ち着いたようですし、お手伝いの子達も慣れてきたようです。私もお父様の手伝いをする日が増えました」
数十年ぶりに医局へ戻ったデメトリは、若かりし頃に放置したままになっていた研究の続きにようやく専念できるようになっていた。
ビアンカは父と共に医局に出入りしては助手を務めたり、アカデミアで医学の講義に熱心に耳を傾けていた。
医療の道へ進むかどうかはわからなかったが、今の自分に出来ることがビアンカにはおぼろげながら見えてきたような気がしていた。
打ち込むことで、漠然とした不安を打ち消すことができるとビアンカは思い込んでいた。
しかしながら自分の思惑とはうらはらに、ビアンカを崇拝する人々は日を追うごとに増えるばかりであった。
何処へ行っても居心地の悪い過ぎた歓迎を受けることに、ビアンカは辟易する毎日を送っていた。
「皆さんがさっさと私に興味を失って、他に目を向けてくださればいいのだけど」
「残念だけど、当分先の話だろうね」
ビアンカを含めた少女達の「白き巫女の奉仕団」が着用している絹のベールを、何故か一般の女性達もこぞって真似するようになった。
やがてベールの色や柄は多様になり、王都の流行の最先端となりつつある。
布の高騰に悲鳴をあげつつも、やり手の商人であるアルマンドは珍しい異国の布を大量に仕入れ、「巫女様の経済効果は絶大だわ」と笑いが止まらない様子であった。
そして何故か貴族の娘達がこぞってビアンカの奉仕団への参加を熱望し、伯爵邸に自ら娘を売り込んでくる裕福な親達が後をたたなかった。
「花嫁修業か何かと勘違いしてるのかな」
とロメオは、高価な手土産を持参する貴族達を皮肉っぽく眺めていた。
けれどもソフィアは、「皆様の温かいお気持ちだけで充分でございます」とやんわり礼を述べるのみであった。
採用する女性は貴族以外の、とりわけ遠方から移住してきた貧しい少女と決めていたからである。
あまり認めたくはないが、巫女を中心に王都が廻っているとしたら、なんと恐ろしいことであるか。
ビアンカは、私は私、気のせいだから、と自己暗示をかける毎日であった。
食欲もあまりなく、ビアンカは早々に自室に引き上げると、帰りがけにロメオから受け取った手紙を机に置く。
まだ返事の書き終わっていない手紙の山に目をくれると、ビアンカは寝台に寝転がった。
純粋にビアンカを賛美する内容のものもあれば、求愛まがいの美辞麗句を並べるものもあった。
自分のことをよく知りもしないのに、どうしてそんなふうに思えるのかしら、とビアンカは不思議であると同時に、一方的な思いに戸惑うばかりである。
思いあぐねてエドアルドに相談してみたものの、国王は「御両親がご結婚されてるわけだし、あなたがそうなっても何も問題はない。と世の中の男共は都合よく解釈してるんじゃないかな」と言うのみである。
デメトリ自身も、遠まわしに娘の将来について尋ねられることが度々あったが、「あれは見た目より幼いですし、今は勉学に励んでおりまして」と一貫して返答していた。
面倒ごとは早めに片付けてしまおう、とビアンカは疲れた体を起こして机に向かう。
丁寧な筆跡ではあるものの、ほぼ同じ内容の手紙をいくつも書き続けた。
ビアンカはそのつど、重いため息をもらしている。
いつの間にか自分は寝入ってしまったようだった。
自分のくしゃみで目を覚まし、ビアンカは開けたままになっていた鎧戸に目をこらす。
夜になると一段と冷え込みを感じるようで、季節は変わりつつあった。
ビアンカはすっかり暗くなった部屋でむくりと頭を起こし、小さくなった蝋燭をぼんやりと見つめていた。
かすかな衣擦れの音がしたような気がしたのは、自分の気のせいか。
くたびれた腰を上げ、片付けを始めたビアンカは背後に人の気配を感じて立ち止まる。
かすかに照らす蝋燭の明かりが、ビアンカ以外の影を作り上げていた。
妖しげに影が揺れ、ビアンカはその影を確かめるべく、ざわめく心を感じながらゆっくり振り返った。
***
「起こるべくして起こったというか、僕は何も不思議じゃないけど」
ロメオはそろそろ眠い、と朝日から目をそむけるように椅子に座り込んだ。
「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか。ビアンカを責めないで」
ビアンカに寄り添い、噛み付くように言い返すメイフェアである。
「ご丁寧にどうでもいい奴にまでいい顔してるから、こんな結果になるんだよ。男なんて馬鹿ばっかりなんだから、曖昧な返事ばかりじゃ期待するに決まってる」
「だからといって、誘拐まがいはいけません。ついでに、馬鹿な男性の擁護も認められませんから」
瑠璃ちゃんがこんなに怒るのも珍しいな、とロメオは次第に鈍る頭を必死で働かせ、「ですよね」と同意しなおす。
見知らぬ侵入者を無意識に投げ飛ばしたものの、ビアンカは恐怖のあまり半狂乱で叫び続けていた。
泊まりに来ていた瑠璃がいち早く異変に気付き、客間の壁にかけてあった年代物の槍を手に、ビアンカの寝室に飛び込んできた。
深夜の捕物騒動に伯爵邸は揺れ、明け方になる頃にロメオやメイフェアが駆けつけてきた。
侵入者は、とある貴族の子弟であった。
ビアンカを熱烈に信奉し、ほぼ毎日手紙を送りつけていた。
それだけでは歯止めがきかなくなったのか、とうとう強硬手段に出たようである。
「どうしてみんな、そうっとしておいてくれないの」
隣のメイフェアの肩に頭を預け、ビアンカは放心したように呟いた。
「今の王都で最も影響力のある人間が自分だって、君もわかってるだろ」
むっとした表情で頭を起こすと、ビアンカはロメオに向かい、激しい口調で反論する。
「私は、正しいと思うことをしているだけなのに、みんなが過剰に反応しているのよ」
だがロメオは厳しい顔つきを崩さず、ゆっくりと首を横に振った。
「君がそれを望んだんだよ。人々の憧憬の対象であるビアンカ・フロースでいるっていうのは、そういうことなんだ」
やめて、とビアンカが耳を塞いで大声を上げる。
「もうこんな生活は嫌!こんなの、私じゃないわ。修道院で暮らした方が、よっぽどましよ!」
「またお得意の逃避行か」
ビアンカの動きが止まり、冷ややかな表情のロメオに視線が注がれる。
「…って、ヴィンスならそう言っただろうねえ。僕ももう、君の行動は知り尽くしてるから正直うんざりだけど」
「どうして宰相閣下が出てくるの」
「どうしてだろうね」
笑わないロメオの瞳が、突き放すような冷え冷えとした光を放っていた。
「君は何も進歩していない。いい意味でも悪い意味でも。昔の方がむしろましだったと思えるくらいだ」
ビアンカは手にしたクッションを、ロメオに向かって力任せに投げつけた。
「みんな嫌いよ!ロメオ様も宰相閣下も、みんな大嫌い!」
幼児化がちっとも直っていない、とロメオは鼻を押さえ、荒々しく長椅子に腰を降ろす。
ロメオは逃げるように走り去るビアンカの後姿から目をそらすと、「子守は疲れる」と不機嫌に呟いた。
「ビアンカ、落ち着いて。大丈夫よ、みんないるから。ちゃんと、守るから」
寝台に身を伏せて枕に顔をうずめるビアンカに、メイフェアが困惑しながら声をかける。
「やっぱり私には、こんな生活は似合ってないのよ。スロに行くわ。修道院で、一生静かに暮らすわ」
勢いよく体を起こし、ビアンカは開いている衣装箱ににじり寄る。
手当たり次第に物を詰め込むビアンカの背中を見つめ、メイフェアは子どもを諭すように優しく語りかけた。
「何言ってるのよ。今回はたまたま運が悪かっただけで、いい巡り合わせもきっとあると思うの。本当にビアンカを心から思って大事にしてくれる人が…だからやけにならないで」
「そんな人いないわ。私が巫女だから、貴族のお嬢様だから近寄ってくるんでしょう!誰も本当の私のことなんか、見ようとしないわ」
「いるわよ!あなたが気付こうとしないだけじゃないの!本当は気付いているのに、気付かないふりをしてるんじゃない!」
長い付き合いの中で自分の知る限り、自分に対して怒りを見せるメイフェアは、おそらく今日が初めてのような気がした。
驚きのあまりビアンカは瞳を潤ませ、そして反射的に噛み付くように言い返す。
「そんな人、知らないわ!」
ビアンカの手が触れ、何かが床に転がり落ちる音が響いた。
「なあに?」
涙を拭い、ひざまずいたビアンカの足元には、一つの小さな花があった。
時折七色に光る白い花の髪飾りを手に取り、ビアンカは何度もまばたきを繰り返していた。
メイフェアは転がった箱を拾い上げ、中に入っていたと思われる小さな封筒も一緒に手渡した。
「魔法の箱だって、アデル様が」
メイフェアは封筒を裏返して首をかしげているビアンカの手元に目を落とし、刻印された紅い封蝋を見て息を飲む。
「まさか」
「これは、私のものね…?」
ビアンカの震える声に、メイフェアはごくりと息を飲む。
「どうせなら、もっと高価なものを贈ればよかったのに。駄目ねえ」
アデルが聖誕祭の後に、メイフェアにこっそり教えてくれたことがあった。
もしかしたら、今目の前にあるこの花が、それなのかもしれない。
ビアンカは無言で、その短い手紙をいつまでも見つめていた。
何と声をかけてよいのか、メイフェアにはわからなかった。
今ビアンカの胸中にあるのは、怒りなのか、驚きなのか、喜びなのか、はたしてどれだろう。
「つけてみる?」
こくりとビアンカがうなずき、メイフェアは白い花を受け取ると、ビアンカの栗色の髪にそっと挿してやった。
「可愛いわ。あなたの為にあるような、素敵な花ね」
はっとしたように顔をあげ、ビアンカは濡れた瞳でメイフェアを見た。
「私、頭がおかしいのかしら。これじゃいけないって思うのに、止まらないのよ。毎日、苦しいわ。メイフェア、笑わないで聞いてくれる?」
ビアンカの小さな小さな声を聞き漏らすまいと、メイフェアは黙って耳を傾けていた。
二人は抱き合い、メイフェアもいつしか涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
そして思い出したように、事後処理に追われる夫の姿を探して、寝室の鎧戸を開け放つ。
自分の髪の色と同じような眼下の赤い景色の中、メイフェアは大声で夫の名を呼ぶ。
「ランベルト!どこ!早く!」