131の話~白い花は箱の中~
暑い、と照りつける太陽の下、睨むような眼差しで空を仰いでいるロッカに「監督!ちょっと!!」と荒々しい声が飛んでくる。
若すぎる責任者を軽視し、当初はロッカを「兄ちゃん」と呼んでいた人工達も、その有能ぶりを目の当たりにするにつれ、今では敬意を払って「親方」だの「監督」だのと呼ぶようになっていた。
「お客さんだよ」
汗を拭いながら中年の男が指差す方向には、今日の太陽の光をかき集めたような色の髪をしたモニカが怪訝そうにこちらを見ていた。
小さい女の子だ、あれは誰だ、と騒いでいる野太い声を背に、無表情ではあったものの、ロッカが荒くれ者達の視界を塞ぐかのごとく、大きな歩幅でモニカに歩み寄った。
「御用でしたらこちらからうかがいましたが」
「いえ、私の方から出向くのが、筋かと」
手にした図面をくるくると丸め、ロッカはモニカを連れて木陰に移動する。
「今日も暑いですね。毎日こちらに?」
「おかげですっかり日焼けしてしまいました。でも、汗をかくのが気持ちいいんです。部屋に篭って文字を追っているより、性に合っているようです」
「最初、どなたかわからなかったんです。雰囲気が変わられたというか…」
探るような顔をして自分を見ていたのはそのせいなのか、とロッカは思わず苦笑した。
「よく言われます。雑な感じになったと」
「そんなことありません。ええと、野生的と例えた方が」
「それは褒め言葉ですか」
「はい」
顔を赤らめているモニカの豊かな金色の髪が、ぬるい風を受けて何度かふわふわと舞った。
わずかに隣の天幕が揺れ、そしてすぐさま何事もなかったかのように静まり返る。
「あまりお訪ねできず、すみませんでした」
「いえ、ロッカ様こそお忙しいのに葬儀においでいただいて、ありがとうございました」
先月老衰でこの世を去った、宮廷庭師であるファビオ・デオダードの葬儀にはロッカも顔を出していたが、それ以来仕事に忙殺され、互いに顔を合わせる機会もなかった。
「もう大丈夫なんですか。その、いろいろ」
その日は珍しく肌寒い日で、ロッカの心により心細さを感じさせていた。
異国から運ばれてきた砂を含んだ濁った雨が、しとしとと王都に降りしきる中、モニカが泣きはらした目で自分を見上げていたことを思い出す。
自分の腕の中で震えているモニカの体温が、猫を抱いて眠るような心地よさを感じさせたことも。
「私達も仕事が詰まっておりますから、悲しんでいる暇もないくらいです」
ロッカはそこでモニカの固い声に、突如現実に引き戻された。
デオダード造園の協力を仰ぎ、王都の建設計画は滞りなく進められていた。
二人がいる現場は、破壊された王宮騎士団の詰所跡である。
結局、騎士団詰所は王宮内に戻されることとなり、跡地には民間人用の居住区を建設中であった。
王の狩場であった地形を活かした、緑と調和した美的景観溢れる地となることを、ロッカは心待ちにしている。
エドアルドとフィオナは郊外の離宮へと住まいを移し、後宮の建物は移転先を探していたアカデミアへ譲渡された。
「皆のように、私も通勤してみたかったんだ。仕事場と居住区が別というのは、実に素晴らしい。もっと早くに引っ越せばよかった」
とエドアルドは上機嫌で毎朝楽しく「登庁」している。
帰り道には露店で足を止め、かいがいしくフィオナに手土産を持ち帰る姿は、どこにでもいる世の夫と変わりはなかった。
「私は正直おじいちゃんが亡くなって、どこかほっとしているんです。…軽蔑しますか」
モニカの声が、いつもより深い響きを感じさせた。
ロッカは軽く首を振り、うつむくモニカの金色の髪に視線を注いでいた。
丁度この人が私達の前に現れた頃からだろうか。
祖父は何も知らない自分に秘密をうち明け、「お前しかいない」と足枷をはめ、小さな体では受け止めきれないほどの遺産を残していった。
この先何十年も自分は祖父の代わりに、触れてはならないものを見張って生きていかねばならないのかと思うと、逃げ出したくなる気持ちが祖父を偲ぶ気持ちを凌駕するようになっていた。
「マエストロの隠し事は慣れています。ですが今となっては、あなたがおじい様の言いつけを守る必要もありません。今日はあなたの意思で、私に会いに来てくださったのでしょう」
はい、とうなずくモニカの肩が震え、その声は消え入るように小さかった。
「変わっていく王都を日々目の当たりにすると、私はどうしていいのかわからないんです。古いものを守るだけでいいのか、でも何か恐ろしいことが起きたらどうしようって。何の知識もないのに、私には、無理です」
ほがらかに、周りを和ませる笑みを浮かべるモニカしか、ロッカは知らなかった。
けれども今日のモニカはまるで死を覚悟した人間のように、疲れと哀しみが入り混じった表情しか見せてくれない。
黙り込んだまま流れる雲を見上げたロッカの耳に、モニカの「黙っていて、ごめんなさい」という消え入るような声が届いた。
「聖オルドゥの絵に、細工を。積年の恨みを込めて、巫女様は置き土産を残して王都を立ち去ったのです。おじいちゃんは、それを知っていながら長年放置していました。亡くなる間際も『頼む』と言って満足そうに逝ってしまいました」
「あれはただの絵ではありません。災いが降りかかります。ですから、ロッカ様も今すぐあれを破棄してください。どこにあるのですか」
「自宅です」
モニカは息を飲み、ロッカのガラス玉のような薄い瞳を見上げていた。
「お願いですから、あの絵を燃やしてください。何か起きてからでは遅いのです。国王が不運続きだったのは単なる偶然ではないんです。あの絵は、間違いなく人を不幸にします。巫女様が残した負の結界も、あの絵があってこそなのです」
モニカの決死の覚悟の告白も、今となっては杞憂でしかない。
ロッカはうなずきながら、「お詫びしなければならないのは、むしろ私の方でした。長い間、不安にさせてすみません」とふわふわ舞う金色の髪に無意識で手を当てていた。
「仕上げに、裏に護符を貼っておきましょうか。とりあえずこれで問題ないと思います。ですが絶対にこの場所から動かしたら駄目です」
数匹の猫達が訪問者の足元をうろつき、何かをねだるような甘い鳴き声をあげていた。
見慣れない異国の文字らしきものが書かれた紙切れを手に取り、ソフィアは興味深そうにいつまでも眺めていた。
「よくわからないけど、これで問題ないわ、確かに」
二人の巫女から太鼓判を押され、ロッカの緊張もようやくほぐれたかのようであった。
ロッカは足元にすり寄ってきた砂色の猫を抱き上げると、「動かす予定はないので、心配無用です」と言った。
「いきなりこんな絵がお出迎えじゃ、客も泥棒も驚いて逃げ出すんじゃないかな」
頭の上に子猫を乗せ、ランベルトは呆れたように首を振った。そして暴れた子猫に爪を立てられ、悲鳴をあげる。
その絵の価値は一生かかっても彼には理解できないのだろう、とロッカは無視して瑠璃達に「感謝いたします」とうやうやしく頭を下げた。
「聖人が守ってくれます。この家の者はもちろん、王都でさえも。『彼』は必死で、そうしようとしているように私は感じるんです」
凛とした瑠璃の声が、新しい時代を告げているかのようだった。
これで皆、自由になれる。
「それにしても可哀想ね。アーラ・オブリヴィアの絵は、本当に美しかったわ。それなのに片割れの聖者が、こんな醜い姿に変えられてしまうなんて。いつか元に戻れるといいのだけど」
漆黒の翼に塗り替えられた聖オルドゥにひざまずき、ソフィアが古オルド語で祈りを捧げていた。
「自分は結構好きです。素人仕事とはいえ、芸術的な狂気を感じるというか、それなりに味があってよいと思います」
そもそも精神を病んだ人間の絵がまともなわけがない、とランベルトはロッカに反論するが、ロッカは何処吹く風である。
子猫にほおずりしながら、ランベルトは終始「女って、怖い」と繰り返していた。
希代の巫女二人が王都の存亡の為とはいえ、わざわざ自宅を訪問してくれたのは、この上ない名誉な出来事であった。
「あれが家に来てから、むしろ自分は絶好調ですが。両刃の剣のようなものですから、使い方次第かと。あなたのご心配はもっともですが、それを踏まえての大工事です。この現場も、結界の一つなんですよ。ここだけではなく、今着工している現場にはそれぞれに意味があるんです。ですから安心してお仕事に打ち込んでください」
モニカは小さな声で「わかりました」と言ったものの、浮かない顔に変わりはなかった。
「この話は二人だけの秘密ということで終わりにしましょうか。でも、折角ですからもう少しお話したいです。今晩はお暇でしょうか」
はあ、と曖昧な返答をするモニカに向かって、ロッカはにこりと微笑んだ。
「川沿いの地区を視察に行く予定でした、新しい店が開店続きですし、ご一緒していただけますか」
「笑ってるわ」
「そりゃ、あいつでも笑うことくらいあるだろ。僕は見たことないけど」
再び天幕が揺れ、代わる代わるいつもの面々が顔を出して二人の様子をうかがっている。
フィオナに託された差し入れの麦酒や菓子を現場の人工達に出すタイミングを逃してしまい、メイフェアは天幕の中で息を殺して、二人の会話を盗み聞きするしかなかった。
「でもね、あの誘い方はまるで駄目だ。モニカがおまけにしか聞こえないよ」
勝手に包みを開き、ロメオはまだまだだな、と呟きながら干した棗を口に放り込む。
「でもすごい進歩じゃない。ちょっとどきどきしちゃった。『二人だけの秘密』なんて、私も言われてみたい。やだ、どうしよう」
妻の妄想癖には、今ではすっかり慣れた。
それでもランベルトは、何がどうしようなんだろうと悲しげにまばたきを繰り返し、「確かに最近、何かにふっ切れたようにいきいきしてるよ」と小声で言った。
「無茶ばかり言う上司から解放されて、身も心も軽くなったようだな」
とステラがやはり小声ながらも、重々しくうなずいている。
大きくなったお腹を抱えたステラは更に貫禄を増し、威圧感だけなら今のヴィンスに勝てるんじゃないの、とロメオは評していた。
「だけど案外、薄情な奴なんだな。邪魔者も消えてこれからって時にあっさり乗り換えるなんて、今時の若い子は…」
見習い騎士の世話を一任されているせいか、ロメオの最近の口癖は「今の若い子は」である。
「じゃじゃ馬ばかりに囲まれていては、心安らぐ女性に目がいくのは当然だろう」
真っ先に自分のことを棚に上げ、ステラが飄々とした口調で言う。
「人を育てるのも環境次第って、最近よくわかったよ。なんでああなっちゃんたんだろう。楚々っとした感じがよかったんだけどな」
ロメオは今は幻となった、かつての儚げな乙女の姿を思い浮かべ、重いため息をついた。
どうやら巫女様を取り巻く教育係の女性達が、揃いも揃って不適切な気がする、とロメオが感じ始めた頃には、もはや手遅れであった。
アデルの護身術はよいとしても、しまいには瑠璃から槍術の手ほどきを受け、「どなたかお相手してください!」と騎士団の詰所を訪れては皆を困惑せていた。
「私達のせいみたいな言い方しないで。ビアンカにその素質があっただけじゃない」
ロメオの横でうんうんとうなずいてるランベルトに詰め寄り、メイフェアがじろりと睨み付けた。
「俺は何も言ってないけど」
「アンジェラだけはいつまでも可愛いお姫様でいるんだよ。騎士なんてそのうちいらなくなるんだし、他の道を探した方がいいよ」
ロメオは少女の柔らかな髪を撫で、最後の希望だとばかりにアンジェラに向かって真剣な口調で諭していた。
「いつまでも独りでふらふらしているお前に口出しされとうないわ」
ステラの冷たい視線が、いつもより攻撃力を増しているように感じた。
酷い、とロメオが瞳を見開き、大げさに頭を振った。
「僕だって好きで独り身なわけじゃないんだけど…」
甘えを含んだ陰りのあるロメオの表情が、その美貌を一層引き立てているようにも感じられる。
計算ずくの仕草ではないとわかっているものの、持って生まれた無駄な才能だな、とステラは感心しながらその伏せた瞳に視線を注いでいた。
ロメオに思わず見とれている自分に思わず舌打ちし、こういうずるい男はやっぱり嫌いだ、とステラは改めて思う。
自分は嫌いだが、なんだかんだとこのような男と向き合える女性も確かに存在するのだし、世の中はうまく廻っている。
王都で一二を争そう色男を、無自覚でぶんぶんと振り回している女傑の顔を思い浮かべながら、ステラは言った。
「ただで男の愚痴を聞くほど、私はお人好しではない」
にやりと笑うステラに対し、ロメオは顔を引きつらせながら「奢りますよ」と言った。
最近ロッカと遊んでない、と不満そうなアンジェラが、隣のステラを見上げて言った。
「お魚食べたい。私も川のほう見に行きたい。素敵なお舟に乗れるって聞いたの」
いいねえ、皆で二人の邪魔しに行こうぜ、と浮き足立つ人々に対し、ステラがゆっくりと首を振った。
「よさぬか。ここはそうっとしておくのが一番。偶然出くわしたふりをして声をかけるなど、もってのほか」
そう言いながらもステラの黒曜石の瞳は、楽しい遊びを思いついたいたずらっ子のように、躍動的な煌めきを見せていた。
「そうね、そうっとして。あくまでも他人のふりで」
全く内緒話になっていない、とロッカはメイフェアのはしゃぐ声を聞きながら、「残念ですが、今日は川はやめて旧市街にしましょう。あちらにも美味い店はたくさんありますから」とささやくように言った。
***
「何かご不満でも」
「別に」
「その割には、機嫌悪そうよ」
ステラいわく、王都の女傑その一であるアデルが、長椅子にだらしなく体を放り投げているロメオに向かって、なだめるような口調で言う。
むくりと顔を上げ、ロメオは頬杖をつきながらアデルを見上げた。
「なんでアデルが一緒に行くの。瑠璃ちゃんが行けばいいのに。ていうか、先生が一人で帰ればいいのに」
「瑠璃様は人質だから。可愛い奥様を残して行ったら、死に物狂いで先生もお戻りになるでしょう。私は、カタリナ様の様子を見てくるわ」
アデルは広い居間をぐるりと眺め回し、忘れ物はないかときょろきょろしていた。
ヴィンチェンツォが去り、後を追ってエミーリオがほどなくしてモルヴァへ旅立ち、ロメオ一人残された家は、あまりにも広すぎた。
しばしの間アデルが間借りしていたが、それも明日の朝までであり、ロメオは再び一人になる。
「つくづく、人手不足が解消されてないんだなあ」
最後に大量の化粧品を詰め込んで無理やり蓋をしたものの、アデルは「箱が閉まらないわ」と舌打ちする。
肌荒れの心配ばかりを口にする、曲がり角をとうに過ぎたアデルに、ソフィアは「万能です」と自ら調合した何かの液体を持たせてくれた。
若々しい巫女様の愛用のお品なのだから間違いはない。
ソフィアがビアンカと二人並んでいる時など、親子というよりは仲のよい姉妹のようにも見える。
「あんたはいつ出発するの」
諦めて中のものを全て取り出し、最初から詰め直すアデルである。
「今はまだビアンカのそばを離れられないけど、時期を見て行くよ」
女の子はいらないものが多い、とその作業風景を眺めていたロメオは、再び仰向けになって長椅子に横たわった。
「君も来るなら、雪が降る前においでよ」
「どうかしらね。次から次へといろんな依頼が舞い込むから」
今度は入った、と満足げに蓋を閉め、アデルは箱の上に座り込む。
「そろそろ落ち着こうとか思わないの」
「落ち着くって、何」
箱の上で胡坐をかき、アデルがこちらをじっと見ていた。
「気付いたら自分だけ一人ぼっちで、寂しい老後を送ったりするはめになるよ」
なにげなく言った一言が、命取りになる場合もある。
充分わきまえていたつもりであったが、その日のロメオは疲れ気味だったせいか、つい本音が飛び出したようであった。
「だから?」
静かに問いかけるアデルの瞳が、不穏な空気をはらんで光っている。
「なんでもないです」
ごくりとつばを飲み込み、ロメオは慌てて椅子に座り直す。
蛇に睨まれた蛙さながら、ロメオは硬直しきった様子で微動だにしない。
アデルは不機嫌そうにちらりとロメオを眺め、おもむろに立ち上がると「寝るわ」と寝室に消えていった。
***
夜更けにビアンカは寝台の上に座り込み、手にした箱を穴の開くほど見つめては、開けようかどうしようかとためらい、そしてそっと枕元に置く。
「魔法の箱よ。どうしても困った時、開けてみるといいわ。でもその魔法は一度しか使えないから、うかつに開けては駄目よ」
別れ間際にアデルから手のひらの大きさをした小箱を手渡され、ビアンカはきょとんとしていた。
魔法なんて、あるわけがない。
魔法が使えたなら、自分が今悩んでいることなど、とうに解決しているはずである。
今すぐにでも開けたい。そうしたら、全てから自由になれるはずなのに。
けれど、アデルは今ではないと言う。
子どもじみた言葉を残し、アデルは柔らかな笑顔でビアンカを抱きしめた。
「お守りよ。しばらく会えないけど、元気で」