130の話~翼、再び~
「そろそろ休憩にしよう」
「これが終わったら行くわ。砂糖は無しよ」
若い女性の声が工房の中を響き渡り、声をかけた男はSi、と呟きながら小型のビデオカメラを片手に、隣の部屋へと姿を消す。
「待っててね、王子様。もうすぐ魔法を解いてあげる」
黒いうろこのようなものでべったりと覆われ、ところどころに白い羽のようなものが入り混じった奇怪な風貌ながらも、美しい顔をした男性の絵をうっとりと眺め、女はいつものように「愛してる」と言った。
絵の中の金髪の男性に向かって愛おしそうに語りかける女性を、大きなカップを両手に戻ってきた男がガラス越しに呆れ顔で眺めていた。
薄いゴム手袋とマスクを順番に外し、女はそれをゴミ袋に投げ入れた。
先ほどまで彼女が作業していた絵の一部は、濡れた薄い紙が幾重にも重ねられていた。
空調を確かめた後に厳かな表情で扉を閉めると、男からカップを受け取った。
「もうすぐだわ。わくわくして待ちきれないの。やっと、私の夢が叶うのよ」
「王子様の呪いを解いたら、姫はどうするのかな。いくらなんでも、絵の男と結婚は出来ないからね」
「修復の仕事はしばらくお休みにして、巫女様の話に本腰入れるわ。ロッカ・アクイラの作品集に何ページか寄稿枠も貰ってるし」
このところ肌寒くなってきたせいか、熱い物が苦手な彼女にも、今日のカフェラテはじんわりと心地よい温かさであった。
「そういうわけで、あなたのおうちの秘蔵の家系図を見せてもらえると次の本に役立つんだけど」
「君が僕の家族の一員になれば、チャンスはあるかもね。そうそう、母に君の話をしたら、会いたがっていた。出来立てのワインを飲みに来いってさ」
「新酒の季節だものね。週末にでもお邪魔するって、お伝えして」
大事な部分は流されている、と不満そうに男は「はいはい」と答えた。
「あの二人がどうなったのか、あなたも本当は知ってるんじゃないの。何度も聞いてるけど、あなたはヴィンスとビアンカの血を引いているの」
「残念だけど本当に、僕は何も知らないんだ。ただ、ヴィンチェンツォに子どもがいたんだから、その可能性はあると思うけど」
ヴィンチェンツォ・バーリの妻の名前は公式な記録には残っていない。
ヴィンチェンツォ・バーリは三十代の大半を、左遷先のモルヴァで過ごしたようであったが、おそらくその頃に子どもをもうけたのだろう、とされている。
ルカにとっては、その子どもの母親が誰かなど、どうでもよいことであったし、意識したことなど一度たりともなかった。
だが目の前の女性は目下のところ、二人の関係を掘り下げることに夢中で、正直ルカは「そんな大昔のゴシップなんか知るわけない」のが本音である。
「君は、二人が結ばれて幸せに暮らしました、っていう結末を望んでいるのかもしれないけど。そうじゃなかったらどうするの」
「…純粋に知りたいだけ。うちの一族は、誰も知ろうとしないし、はたまた何かを隠し続けているのか。誰も彼もが嫌になるくらい、薬のことしか考えてないわ。そのくせ、会社名は幻の巫女様の名前でしょう、気になるに決まってるじゃない」
彼女の琥珀色の瞳が鋭さを帯び、強い意志をあらわしていた。
「僕達が結婚すれば、中世のロマンスを再現できるよ。それで手を打とう」
「しつこいわね」
製薬会社令嬢であるシルヴィア・マレットはルカ・バーリを軽く睨みつけるが、その眼差しに怒りは含まれていなかった。
「ソフィアが光なら、ビアンカは影なのよ。ビアンカの記録は、ソフィアのそれに比べて圧倒的に少ないし。本当に存在したのかどうかって、最近は考えちゃう時もある」
「偉大な巫女様の血を引いているっていうだけでも、君の家系も凄いと思うけどね」
歴史あるフィオレビアンキ社の家系に生を受けたシルヴィアの関心は、先祖代々の秘伝の薬やオーガニック化粧品よりも、一族の一人であったとされるビアンカ・フロースにあった。
ソフィア・フロースはプレイシアの年代記によると、夫と再会した後に王都で双子を産み、七十五歳まで生きたとされている。
その双子の片割れの血を受け継ぎ、現在に至るのが他ならぬシルヴィアである。
一方、長女であるビアンカは二度目のフィリユス・サグリの戦いの後に王都にいたとされるが、その後の記録はほとんど残っていない。
そのせいかビアンカの存在は謎めいたものとして認識されており、母親とされるソフィアの名の方が遥かに浸透していた。
「ヴィンスとビアンカが恋仲だったなんて、本気にしてるの。エクシオールの小説も何処まで真実か。彼女の話はあまりにもファンタジックだ、聖オルドゥの話だって随分脚色されてるだろう」
ヴィンチェンツォとビアンカのロマンスは、いかにも女性が好きそうな話ではあったが、男の自分にはよくわからなかった。
「私は信じるわ。身近にいた人の話ですもの、信憑性あると思わない?それに、ルゥの小説がなかったら、私は龍王の絵に巡り合えなかった。だから、信じてる」
中世の女流作家が書いた小説を少女の頃に読み、シルヴィアはそれ以来、その時代を生きた人々の魅力から逃れられなくなった。
エクシオールの小説はヴィンチェンツォとビアンカの恋を軸に進められていたが、残念ながら未完に終わっている。
歴史好きが高じて、後に絵画の修復士になったものの、シルヴィアは謎多き女性の一生を追い続けるのが運命のように感じていた。
「王子様を元の姿に戻してあげて、ビアンカとヴィンスの恋を成就させるのが私の使命よ。例え現実はそうじゃなかったとしても、私の話の中では、二人はハッピーに終わらせてあげるって決めたの」
「じゃあ、うちの家系図なんてどうでもいいんじゃない。この際だから好きに書きなよ。今まで散々ネタに使われてるし、僕らは今更クレームする気にもならないからさ。一番酷かったのは、去年出たヴィンチェンツォとロッカの恋愛ものだけど。母だけが何故か喜んでいた」
私も読んだわ、とうんざりしたようにシルヴィアが呟く。
「でも、私はそういうわけにはいかないわ。正しい資料を見て、それから判断する」
「…今日中に、実家に電話しておくよ」
少し考えてから、シルヴィアは再び琥珀色の瞳をきらめかせ、満面の笑みを浮かべた。
「ということは、見せてもらえるのね。ついでに、数々の秘蔵の品も披露していただけるって期待してもいい?」
ルカの思い描く甘い週末は、期待できそうになかった。
今、たった二人で行なっているプロジェクトは、ロッカ・アクイラが所有していたとされる「龍王の絵」の修復作業であった。
ロッカの死後、その絵は何度も所有者を代えて数世紀を彷徨っていたが、シルヴィアの執念によって再びプレイシアへ帰還することとなった。
ロッカの人物伝にたびたび登場することとなるこの「龍王の絵」であったが、所有者を不幸にする絵と長年噂されている。
シルヴィアが修復作業の協力を呼びかけてみたものの、絵の魔力を恐れてなのか、敢えて参加したいと挙手する者は皆無であった。
「一人でやるわ。見てなさい。あの絵の下に、美しい白い翼が隠されているんだから。呪いは無効になるのよ、ルゥの話のとおりならね」
汚名を雪がんと奮い立つシルヴィアに唯一賛同したのは、ルカだけであった。
ルカはそれ以来、シルヴィアの傍らで作業風景やインタビューをカメラに収めていた。
今のところ二人のどちらかが大怪我をしたり、死にかけたということもなく、きっと聖オルドゥのご加護よ、と恍惚と呟くシルヴィアであった。
ある夜、渋々出席した慈善パーティーで壁の花となっていたシルヴィアに、フルートグラスを持って近づいてきたのはルカだった。
「うちのプロセッコだよ。これが嫌いな女性はいない。それくらい、何処にでもある普通の酒っていうことだけど」
「あなた、ヴィンスの家の人なの」
「彼のこと、随分親しげに呼ぶんだね。歴史に詳しい?」
途端に目を輝かせ、シルヴィアは初めて笑顔を見せた。
二人でパーティーを抜け出し、小さなバールで古くからの知り合いのように何時間も話し込んだ。
ルカにとって残念だったのは、シルヴィアが興味を示したのは自分ではなく、四百年以上も前の男であったことである。
シルヴィアがやけに自分の顔を熱っぽく見つめていた理由が、ロッカ・アクイラのスケッチに残された顔の一つと比べていたからだと気付いたのは、数日経ってからである。
名門酒造バーリ社の取締役である父を筆頭に、兄妹はそれぞれ家業を手伝っていたが、ルカだけは酒造りに興味がなく、現在は主に美術関連の書籍を扱う出版社と契約するフリーのカメラマンであった。
何故跡を継がないのか、と真面目に尋ねるシルヴィアが他の女性達と違うのは、自分が将来受け取るべき資産を気にしてではなく、古くから続く家の一員としての生き方を問うているからなのだろうか。
ルカは、シルヴィアがますます好きになった。
「たぶん君と似たような感じだよ。ご先祖様をとても誇らしく思っていた。だから自然と古いものに興味が湧いて、子どもの頃は家の古い蔵や庭の彫刻を眺めてばかりだった。君にすごく重要な話をするけど、僕の名前は本当はロッカだったんだよ」
「親友にして腹心の、ロッカ・アクイラでしょう」
目を輝かせ、シルヴィアは思わず身を乗り出した。
プレイシアの誇る天才、ロッカ・アクイラの「二羽の鳥」は今でも大切に、王宮地下に保存されている。
修復士であるシルヴィアも一度、その保存状況の調査に立ち会ったことがあった。
「それが結局ルカになったのは、あまりにも恐れ多いからだってさ」
「なんだ、越えられない二番目か」
ルカは少々傷つきながらも、そんなふうに言われるのも初めてで、シルヴィアの言葉は新鮮な響きを持っていた。
「…僕はいつも、四百年も前の影を引きずり、それを感じながら生きている。君と同じように」
空になったカップをシルヴィアから受け取り、ルカは唐突に言った。
「僕は今、またすごく重要なことに気付いたんだけど」
「何?」
「僕達はとても相性がいい。ここまで深く話せる人は今まで生きてきて、君しかいなかった」
今はもう生きていない人々にばかり心を奪われ、自分など興味の対象外と言わんばかりのシルヴィアの態度に、本気で腹が立つ日もある。
けれども、彼らの話をする時のシルヴィアはいつも輝いていて、ルカはそんな彼女を誇らしく思う気持ちが勝っていた。
「男と女が二人きりだったら、勘違いすることってよくあると思うの。それに共通の目的があるからこそ、運命的に感じるんじゃない?」
いつものように素っ気無く返し、再び作業場に戻っていくシルヴィアを、ルカは恨めしそうに眺めていた。
今は何を言っても、彼女はこの絵やビアンカ達に夢中なのだから。
気長にいこう、とルカは気持ちを切り替え、カメラを片手にシルヴィアの後に続いた。
「最初の一歩よ。これがうまくいったら、このまま作業を進めるわ。失敗したら…考えたくもない」
「きっとうまくいく。自信を持って。王子様を助けるんだろう」
カメラ越しに、ルカが励ましの声をかけた。
シルヴィアは慎重に溶剤の染み込んだ薄い紙をそっと持ち上げる。
この日の為に用意され、繰り返しテストを重ねた特殊な薬品であった。
全ては、白い翼を取り戻す為に。
失敗は許されない。
絶対に元の姿に戻すって、決めたんだから。
恐る恐る絵を覗き込み、そして自分を振り返るシルヴィアの瞳には、涙が溢れていた。
おめでとう、と弾んだ声で祝福するルカの胸に、シルヴィアが勢いよく飛び込んできた。
ルカは慌ててカメラを持ち直すと、「よかったー」と安堵の涙を流しているシルヴィアを、優しく両手で包み込む。
徐々に近づいてくるルカの唇を抵抗することなく、気が付けばシルヴィアは目を閉じて受け入れていた。
気持ちが高ぶっているせい、とシルヴィアは巧みな唇に翻弄されながらも、頭の片隅に冷静さを残していた。
「で、うちの両親にはどう紹介すればいいのかな」
浴びせられるキスの心地よさに、確かに相性は悪くないかもしれない、とシルヴィアは背中にまわした両手に力を込める。
「それは、週末になってから考えるわ」