128の話~傷~
「宰相閣下はどちらにおられます」
ロッカは寝不足の顔を図面から上げ、ビアンカの紅潮した顔をぼんやりと眺めていた。
「お話があるんです。閣下はどこ」
ビアンカのただならぬ勢いに圧され、ロッカは北の庭園です、ともごもごと呟いた。
ビアンカはすかさず踵を返し、足の向くままに再び走り出す。
ご案内します、というロッカのうろたえた声が、ビアンカに届いていたかはわからない。
自分が、何故その場所を知っているのか、ビアンカは自分自身に説明できなかった。
でも知っている、私の中に、ここで過ごした日々がある。
どこか懐かしいような風景にふと時間を忘れ、ビアンカは庭園の入り口を見上げていた。
まるで何かの儀式のように、ビアンカは頭上で弧を描いている蔦の葉にそっと手を伸ばしてみる。
私の好きな草花ばかりだわ、とビアンカは浮かれそうになるものの、本来の目的を思い出すと力いっぱい両手で自分の頬を叩く。
所々に咲く小さな花を踏まないよう、足元に注意を払い、伸びた枝を手で払いのけ、ビアンカは小道をひたすら突き進む。
東屋の下で無防備に大きな体を投げ出している人物を見つけ、ビアンカは不意を突かれたのか立ち止まる。
聞こえるように大きく深呼吸をひとつすると、そのまま数歩足を進めた。
小さな靴音に眠りを妨げられ、ヴィンチェンツォが渋々薄目を開くと、自分を覗き込んでいる誰かの影が見えた。
眩しくて見えない、と顔をしかめるヴィンチェンツォに向かって咳払いが発せられる。
自分を睨み付けている小さな顔は、ビアンカだった。
ヴィンチェンツォは不快そうに身を起こしたが、ビアンカの眼光の鋭さにたじろぎ、ねぼけ半分のかすれ声で「よくここがわかったな」と言った。
「あの方達を、どうするつもりです」
「何の話だ」
汗ばむ首の後ろに手をやり、無関心を装いながらも、ヴィンチェンツォにはビアンカが自分を訪ねてきた理由がおぼろげながらわかっていた。
「森に住む方々です。行き場を失い、やっとのことで王都まで逃げてきたのに、彼らを追い出すなんて。あの方達は何処へ行けばよいのです。勝手にのたれ死ねとでも」
彼女の故意に押し殺したような低い声が、懐かしい。
「非合法に住み着いた人々だ。これでも充分譲歩してきた。だがこれ以上は見過ごせない」
怒りをあらわにしているビアンカとは対照的に、ヴィンチェンツォの態度は冷ややかであった。
「彼らが何をしたというのです」
「あのまま放置していたら、いずれあの辺りは盗賊などの犯罪者が我が物顔でのさばるようになる。今より状況が悪化するなど、あってはならない」
「勝手に決め付けないでください」
椅子の上で両手を組み、ヴィンチェンツォはおもむろに立ったままのビアンカを見上げた。
「むしろ、あなた方の行いに問題があるのだ。奉仕活動も結構。だが、どれだけ危険な行為を冒しているのか、自覚はお有りか。以前お話したと思うが、好き勝手に出歩くのは危険極まりない」
「私達は大丈夫です。むしろ、見捨てられた人々の気持ちを考えたら、そのようなことは瑣末なことではありませんか」
王都での住居不足は思うように解消せず、あちこちで建設計画が進められてはいるものの、一昼夜で家が建つはずもなく、行き場のない人々が郊外で野営生活を行なっていた。
毎日のようにそれらの場所を訪れ、病人を中心に幼い子どもや女性達を見て回り、物資を供給するビアンカ達の話は、もちろんヴィンチェンツォの耳にも届いている。
「世界中の野良猫に餌をやり続けて、はたしてあなたは、全てを受け止めることができるとでも」
「あなたのその傲慢な物言いは、軽蔑に値します。あなた方が何もしないから、私達が出来ることをしているだけです」
ビアンカの怒りを込めた視線が、ヴィンチェンツォの鋭利な刃物を思わせる瞳と交錯する。
「何もしていないわけではない」
「私の目から見たら、何もしていないようにしか見えません」
「頼むから、おとなしくして欲しいんだ」
諭すように静かな声になるヴィンチェンツォに、ビアンカも負けじと凍えるような声色に変える。
「貴族らしく、怠惰に生きろとおっしゃるのですか」
「そうではなくて」
「薄汚い移民達がいなければ、どれほど改革が進むかとあなたはお考えかもしれませんけれど、これが現実です。貧しい人々が住む所も食べるものにも事欠き、精一杯生きています。あなたはそれを切り捨てるおつもりなの。いっそのこと、無抵抗の人々にいっせいに矢でもおかけになれば、きれいになるでしょうね、あなたの思い通りに」
わずかにヴィンチェンツォの眉が跳ね上がり、上目遣いでビアンカをじいっと見る。
また睨んでいると思われるのかな、とヴィンチェンツォは視線を外し、優雅に足を組みなおした。
「私を侮辱するのも大概にしていただきたい」
「私が目障りですか」
面倒な女だ、と言わんばかりのヴィンチェンツォのすました態度が、ビアンカをますます熱くさせていた。
俺を怒らせることに関しては天才的だ、とヴィンチェンツォはぼんやり思っていた。
「二度は言わない。しばらく、お屋敷で御両親と共に静かに過ごしてはいただけないだろうか」
「嫌だと言ったら」
音も立てずに突然ヴィンチェンツォが立ち上がり、ビアンカはとっさに後ずさる。
その立ち姿に威圧感を感じ、ビアンカは息苦しさから逃げるようにそっぽを向いた。
だがヴィンチェンツォはビアンカの手首をあっという間に捕らえると、底冷えするような眼差しと共に、ビアンカの耳元でささやいた。
「何処にも出れぬよう、閉じ込めればいい」
ビアンカの腕から、わずかな震えが伝わってくる。
「あなたは、全てがご自分の思い通りになるとでも」
琥珀が燃えることがあるとしたら、こんな感じなのだろうか。
今、彼女の瞳に映る自分は、どんな人間なのだろう。
次第に例えようもない寂しさを感じ、ヴィンチェンツォは自分から視線を逸らしたいと焦燥感にかられていた。
「いい加減にしないと怒るぞ」
「最初から怒っていらっしゃるではありませんか。初めてお会いした時から、あなたは常に私に対してお怒りです」
必要以上に怯えさせてはいけない、とヴィンチェンツォは慎重に両手を放し、落ち着いた声を出す。
「あなたの言い分も、考慮しよう。ただし、あなたも自重していただけるなら」
「私も、母も聖職者にあります。私達が動かずに、誰が動くのです」
先ほどのヴィンチェンツォの凄みを含んだ眼差しに驚いたのか、ビアンカは知らず知らずのうちに涙声になる。
「その件に関して、私からあなたにご説明した覚えはない。非常に込み入った話だ、軽々しく口にするなと周囲に釘をさしておいたはずなのだが」
「全ての方々です。あなた以外の。…どうして隠すの」
ヴィンチェンツォは何も答えなかった。
「あなただけは、私が巫女であることに終始反対していたと聞いています。そのお気持ちは今でもお変わりないようで残念です」
「あなた方のお力添えには、感謝している。だが、それ以上の干渉は認められない。あなたには何の権限もない。ましてやあなたは今、巫女でも何でもない。母君も然り。勝手な行動をされては、またもや混乱を招くだけ。その説明は誰からも聞いていないのかな」
血が滲まんばかりに唇をかみ締め、ビアンカは噛み付くように言った。
「では陛下にお願いしてきます。私を巫女に戻してくださいと」
ヴィンチェンツォは大きく頭を振り、再び石造りの椅子に身を落とした。
「何故そこまで巫女にこだわる。今までのように、人に施して歩き回りたいのならそれは認めよう。けれど巫女は駄目だ。巫女は必要ない」
「私を否定しないでください」
ビアンカの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちていくさまが、まるで時間が止まっているかのように、とてもゆっくりと感じられた。
いつもそうだ。そうやってあなたは、自分に罪悪感を植え付ける。
無垢なあなたを傷つける自分が、悪党だと言わんばかりに。
「あなたはそうおっしゃいますけど、街へ行けば、人は私を『巫女』と呼ぶのです。会えば、喜んで迎えてくださいます」
だがビアンカの主張を振り払うように、ヴィンチェンツォは極めて冷静に言い放つ。
「そうしてまた、世に混乱を招くのか。あなたにそのつもりはなくとも、それを最大限に利用せんとするとする者が現われる可能性が、常に付きまとうんだ」
「私は巫女です。そうでないと、生きる意味がないのです。…私の居場所は、そこにあるのです。それなのに、あなたはそれを私から奪おうとしている」
「そしてまた、何か壁にぶつかった時には、『巫女なんか辞める』って言うんだろう」
「言いません、絶対」
しゃくり上げながら叫ぶように言うビアンカを、ヴィンチェンツォは敢えて見ないようにしていた。
「どうかな。あなたは弱い。その弱さゆえに、伝えられずにいたことがたくさんある」
傷つけるとわかっているのに、どうしてそんなことを口走ったのか、ヴィンチェンツォにもわからなかった。
耐えると決めたのに、どうして最後まで自分は耐えられないのだろう。
「私は、弱い人間でしたか」
「そうだ。現実を見ないのは、あなたの方だった。すぐ逃げた。いつも。俺はあなたに出来ることは何かと精一杯考えた。なのにあなたはいつも逃げていたよ」
琥珀の雫がヴィンチェンツォ達の足元でいくつも砕け散り、石畳に吸い込まれていった。
「だから前と同じように、みんなの期待にこたえられるよう、いいえ、以前よりもお役に立てるよう努力しています。昔の自分はわかりません、でも閣下がおっしゃるような駄目な自分だったなら、変わりたいと思います。それに、私は忘れたくて忘れたわけじゃないのに!」
「本当は、何もかも捨てたかったんじゃないのか。それほど重いと感じていたから、自分を捨てたのだろう」
「私は、取り戻したいと思っているのに、どうしてそんなことが言えるの」
「それに、期待にこたえるだって。俺はもう、あなたに何も期待していない」
ビアンカの涙が一瞬止まり、肩を震わせながら自分を見上げている。
傷つける言葉しか知らない自分が疎ましい。
何故、俺のことを忘れた。
今の自分は、陳腐な責め言葉しか思いつかない。
疑念が信じようとする気持ちを上回り、恨み言だけが頭の中を渦巻いている。
「もういい。帰りなさい」
小鳥のさえずりだけが、二人を包んでいた。
やっとの思いで発した言葉なのに、ビアンカはどこまでも敵意で武装したままだった。
「理不尽に責められるのは納得できません。閣下こそ、私にどうしろとおっしゃるんです。頭でもぶつけたら全部思い出すの。それなら、あなたがそうしてください!いっそ高い所から私を突き落としてみたらどうですか!」
「もうやめろ!」
ヴィンチェンツォの鋭い声に重なるかのように、ビアンカの嗚咽が辺りに響く。
「頼むから、帰ってくれ」
ビアンカに背を向け、ヴィンチェンツォはもう一度ゆっくりと頭を振った。
そうでないと、もっとあなたを傷つける。
今すぐその生意気な唇を、有無を言わさず塞いでしまいそうになるから。
***
来たな、と早くも庭園での言い合いを伝え聞いていたエドアルドが、執務室に荒々しく足を踏み入れたヴィンチェンツォを見るなり、含み笑いをもらしていた。
「何故ビアンカを好き勝手にさせているのです。母君も一緒になって、ますます手におえない状況になりつつあります。妨害があまりにも酷いようであれば、こちらとしても対処を考えざるを得ません」
まあまあ、とエドアルドはヴィンチェンツォをなだめ、椅子を勧める。
「ひたすら善行を施しているんだ。若いのに立派だろう」
「陛下!」
「ビアンカ達に賛同して、王都の難民達への援助を申し出てきた貴族もいるぞ。金が足りないんだ、ある所から出させないとね」
余計なことを、とヴィンチェンツォは乱暴にその身を椅子に沈めた。
「その貴族の一人に、うちの姉が含まれているのは存じております」
苦々しい口調になるヴィンチェンツォに対し、エドアルドはのんびりと返答する。
「いいじゃないか。ピアは資産運用の名人だから、いくらでも捻り出せるだろう」
「王都ではビアンカのみならず、御両親まで英雄扱いする風潮にさえあります。元々は、自分達の身勝手で駆け落ちして散々人に迷惑をかけておいて、それは違うと思うのですが」
再び椅子に座りなおし、身を乗り出すヴィンチェンツォの瞳が、獣のようであった。
「彼らの存在が危険だとでも」
ヴィンチェンツォの瞳の鋭さに気付かないふりをし、エドアルドは変わらぬ口調で言う。
「そうです。ご本人達の意思に反して、私欲の為に担ぎ上げる者は、早めに排除するに限ります」
「居もしない者のことまで考えて、相変わらず気苦労が多いな」
「この件には、あまり触れたがっていらっしゃらないですね。そうやってはぐらかして、何かあってからでは遅いんですよ」
「お前さー。そうやって理屈並べるのやめろよ」
長椅子に寝転がり、木の実を口に運んでいたロメオの存在に、ようやく気付くヴィンチェンツォであった。
「ビアンカの人生の芽を摘んでいるって、どうしてわからないのかな。今のビアンカは、間違いなく必要とされる身なんだよ。ビアンカも、それで生きがいを感じてるんだ。それをお前が邪魔してどうする」
「邪魔されてるのは俺の方だ」
「お前らが中途半端に教えたりするから、話がかみ合わなくなるんだ」
「じゃあお前が全部言えば」
ロメオの瞳は「そんなことできっこない」と語っていた。
閣下が頭から火を噴いている、とロメオはふふんと鼻で笑うと、緩慢な動作で壁の方を向いた。
そんな二人の様子にしびれを切らしたのか、エドアルドは軽く指先で何度か机をつついた。
「呼び出したのは巫女様の件ではない。宰相閣下に辞令を。モルヴァに行ってくれ」
肘掛に頬杖をついていたヴィンチェンツォの首が、壊れた機械仕掛けの人形のようにぎこちなく横を向く。
「モルヴァというと、あの北の果ての」
「そう、極寒の。人より動物の数の方が多い、あのモルヴァだ」
「何故私が」
「モルヴァの総督が、流行り病でお亡くなりになってしまったのは知っているだろう。その後任に、お前を」
まさかご冗談でしょう、と困惑気味の笑みを浮かべるヴィンチェンツォを、エドアルドは一度だけ瞬きして、正面から見据えている。
これは冗談を言っている顔ではない、とヴィンチェンツォは居ずまいを正した。
「邪魔者は去れ、と」
「酷いな、いつ私がお前を邪魔者扱いした」
「しました。つい先ほど」
だるそうに身を起こし、ロメオが再び口を開いた。
「大丈夫だよ。総督っていってもあんな辺境じゃ毎日暇だろうし、たまに里に下りてきた熊や狼を撃つだけの簡単な仕事だから。事務仕事なんてほとんどないから」
「俺は熊なんか倒せないぞ」
「熊を撃つ、も冗談ではなくて結構重要だよ。最近、大砲を改良した長筒があの辺りで浸透し始めている件だ。その調査も兼ねて、よろしく頼む。くれぐれも住民感情を逆撫でしないように。荒っぽい人種らしいから。仲良くなって、一日も早く溶け込んでくれれば、後はうまくいく」
「俺一人じゃ無理です」
「怪しまれないよう誰かを潜り込ませる。お前みたいな人相の悪い人間じゃないから大丈夫」
その誰かが思い当たるような気がして、ヴィンチェンツォは落胆の吐息をもらす。
「言っとくけど、僕は行かないよ。寒いの嫌いだし」
「俺だって嫌いだ」
「他に誰が行くの。老体を引きずってマウロ様がオルドに骨を埋める覚悟で、オルド総督を引き受けてくれたのに、若いお前が頑張らないでどうするんだよ」
用事を思い出した、と気だるそうに立ち上がり、ロメオは片手を振って退出した。
「ロッカとか…あいつなら熊と対話さえ可能かもしれません」
ヴィンチェンツォは無駄とわかってはいたものの、代替案を必死で提示する。
そんな未開の地で生きていけるほど俺は強くない、とヴィンチェンツォは本気で思っていた。
エドアルドはゆっくりと首を横に振り、書類の山をかきわけ、何かを探している。
「ロッカは土木課に出向が決まったから。王都の建設計画を取り仕切れるのはロッカしかいない」
ここに署名してね、といくつかの書類を取り出し、エドアルドは固まっているヴィンチェンツォに羽ペンを手渡した。
同時に息せき切って部屋に飛び込んできたクライシュに、エドアルドは開口一番、「お金貸してくれませんか」と笑わない顔で言う。
「忙しいんですけど。何の冗談ですか」
暑い、と先ほどまでロメオが座っていた長椅子に腰掛け、クライシュは襟元に風を送り込んでいた。
「義弟君に、ちょっとお金を借りてきてもらえませんか。というか、貸してください。いっぱい持ってるんでしょう」
「帰らないって言ったでしょう!」
あわてふためくクライシュに向かって人の悪い笑顔を見せ、エドアルドはすうと立ち上がるとわざとらしく窓の外を眺める。
「帰らなくてもいいですよ、先生の持ち金さえ出してくだされば。…ねえ?」
絶句するクライシュを気の毒そうに見つめ、ヴィンチェンツォは諦めたようにペンを走らせた。
「後悔しても知りませんよ。中央の目の届かないのをいいことにやりたい放題やって、気が付けば俺が山賊の頭領にのし上がっているかもしれませんね。いや、俺はそうする」
「楽しみにしてるよ」
全ての苛立ちをぶつけるかのように、最後の署名を終えると、ヴィンチェンツォは荒々しい手つきでペンを放り投げ、足早に立ち去っていった。