10の話~名もなき女~
「何かお知りになりたいのであれば、いくらでも御指示下さいよ」
ランベルトは、のんびりした口調で二人に話しかけた。長椅子に寝転び、肘掛けに両足を乗せる。他の二人とは対照的に、どう見ても暇を持て余しているようだった。
ヴィンチェンツォは、相変わらず目を合わせないまま、冷たく言い放った。
「今はまだよい。個人的にどうにかしたいなら、それはお前の勝手だ」
「それじゃあ、今後の動向を含め、接触させていただきます。一任して頂いて、よろしいですかね」
「なんで俺に聞くんだ。…詳しくは知らないが、お前と俺の好みが被ることはないと思うが」
「それならいいんですけどね。ヴィンス様は、たまにわざと邪魔する時があるからなぁ」
子供のように、ランベルトが口を尖らせる。
心外だ、とヴィンチェンツォは思った。
「邪魔?お前が簡単に騙されすぎなんだ。少しは学べ」
「自分は赤毛じゃないほうが好みです」
何故かロッカが、割り込むように、事務的に言う。ロッカにも好みがあったのかと驚くが、ヴィンチェンツォは聞かなかったふりをする。そんなロッカに、ランベルトは嬉しそうに反応した。
「ああいうのが好みなのか!案外地味なのが好きなんだな」
「普通でいいんだ。煩わしくなくて、いい」
ロッカの涼しげな容貌は、王宮内の女官達の心をときめかせていたが、本人は二言目には面倒だ、煩わしい、と言い、つれない態度を取る。ランベルトは以前、「アクイラ様は女性はあまりお好きでないのかしら」と聞かれたことさえある。
「そんなに暇なら、俺の代わりに陛下のお相手をしてやってくれ。手合わせする予定だったが、俺は多忙だ」
ヴィンチェンツォは呆れたように言った。
「陛下はヴィンス様をご指名なんじゃないですか?俺が行ったら、露骨に嫌がられるんですけど」
「たまには、自分の存在感を示してきたらどうだ。…それ以外とりえがないんだから」
傷つくなぁ…と、笑いながら、若き王宮一の剣の使い手は、ようやく腰を上げた。
***
日が傾きかける頃、ヴィンチェンツォは、先程ロッカの作成した資料、通称ロッカ・ファイルに目を通していた。数十冊に及ぶロッカ・ファイルは、全て彼が作成していた。
ロッカは、目にしたものの特徴を瞬時にとらえ、事細かに正確に記憶する。
アカデミアの学生であった頃も、彼は一度も講義の内容を書き留める事がなかった。凡庸な他の貴族の子弟達は、羨望の眼差しでロッカを見ていたものである。
ランベルトが、生まれつきの剣の天才であるとすれば、ロッカは子どもの頃から神童と言われていた。
絵を描かせれば、人々を圧倒させるような技巧的で繊細な絵を描いた。さらに、彼は武芸にも秀でていた。他の学生達のように必死で予習や復習をする必要もなかったので、空いた時間は体を動かして過ごしていた。
ランベルトの子どもの頃の記憶では、ロッカは自分と一緒になって剣の稽古をしているか、庭で膝の上に猫を抱き、ぼうっと空を眺めているかのどちらかであった。
ヴィンチェンツォも、物覚えは決して悪いほうではなかったが、ロッカの記憶力は桁違いであった。
彼の能力を存分に利用すべく、ヴィンチェンツォは三年前から徐々に、王宮に出入りする商人、役人や後宮の女官の情報全ての資料を作らせた。特徴をとらえたデッサンと共に、髪や目の色、身長、性格など細かく脚注がつけられている。これといって別段目を引くような内容でもなかったが、イザベラの下女の資料にざっと目を通す。
「…この左手はなんだ」
「スカーフですね」
そうか、とつぶやいて資料を戻し、綴じておくように言いつけた。
ヴィンチェンツォはこの後、交易管理局の役人達との会食に出る予定であった。
ロッカは、ヴィンチェンツォに軽いビロードの外套を手渡した。無造作ではあったが、洗練された動作で、外套を羽織る。ヴィンチェンツォの小姓のエミーリオがそろそろ迎えに来るころだった。気休めではあるが、今日の疲れを振り払うように、ヴィンチェンツォはゆっくりと何度か首を回した。
「お前も今日は終わりでいいぞ。ランベルトも今日は戻ってこないだろう」
「はい、お気をつけて」
ロッカは短く答え、ヴィンチェンツォと、ようやく現れた小姓を見送った。
壁に括りつけられた書架の棚から、イザベラ関連の一冊を取り出し、先程の資料を手に取る。軽く首をかしげ、つぶやいた。
「そういえば、名を聞いていなかった」
綴じるのをやめ、それを机の引き出しにしまうことにした。