126の話~悲しきシンデレラ~
父が生まれ育ったという広大な領地は、至る所に花々が咲き誇り、穏やかな時間が流れていた。
大きなお屋敷、信じられない、と驚き続ける娘に苦笑しながらデメトリは、自分も信じられない、とおどけて返すのであった。
「お父様は伯爵なの?それって、偉い人なのよね?」
「偉いわけじゃない。私も、よくわからない。おじい様が伯爵だったから、かな」
「すごいわ、お姫様になった気分」
大はしゃぎするビアンカを、複雑な心境で見守るデメトリであった。
「今日の日をお待ちしておりました。もう誰もここには戻ってこないのかと、絶望する日もございましたが。こんなに嬉しい日はございません」
感極まってむせび泣く老人と、デメトリはいつまでも抱き合っていた。
自分が子どもの頃から仕え続けてくれた懐かしい老執事の手を取り、デメトリは感謝の意を込めて固く握り締めた。
新しい「我家」での生活が落ち着き始めた頃、ビアンカが待ち望んでいた客が、伯爵邸を訪れていた。
「ビアンカ!元気だった?」
ほんの少し離れていただけなのに、メイフェアは今回の彼女の不在期間が、とても長いものに感じられた。
飛びつくように抱きついてくるメイフェアを笑顔で受け止め、ビアンカは「お久しぶり」と言った。
しばらくしてから、ビアンカは不思議そうにメイフェアを上から下までじろじろと眺め回し、「少し、変わったわ。当たり前よね、もう五年も経つんですもの」と照れたように言う。
「…ごめんなさい、わからないことがたくさんあり過ぎて、少し戸惑っているの。何に一番驚いたかといったら、あなたが結婚していたなんて」
心の準備はできていたものの、改めてそれを目の前に突きつけられると、どう反応してよいのかメイフェアはわからず、曖昧に微笑んだ。
無邪気に笑いかけるビアンカは、ランベルトが手紙で伝えたとおり、王都での生活を完全に忘れ去っていた。
「そ、そうなのよ。私もびっくりよ、奥様なんて、おかしいでしょう」
「そんなことないわ。ランベルト様はとても楽しい方だし、お似合いね。おめでとう。後でゆっくり、二人のなれ初めを聞かせてね」
メイフェアは潤む瞳を何度もしばたたかせ、再びビアンカを強く抱きしめた。
「あなたも、御両親に会えてよかったわ。本当に、よかった」
それだけはメイフェアの本心だった。
溢れる涙は喜びの涙ではなく、哀しみ半分であったけれど。
「でも、今までの生活とあまりにもかけ離れていて、私もまだ半分夢の中なのよ。なんだか恥ずかしいわ」
「お姫様みたいで、素敵よ」
手触りのよい上等のドレスに身を包み、ビアンカはどこから見ても貴族の姫であった。
「二人で読んだ物語みたいね。汚い女の子が、魔法使いに助けてもらって…」
二人で読んだのは、後宮で働いていた時じゃない。思い出して。
とメイフェアは思わず口にしそうになるが、ランベルト達の指示通りそこには触れず、「そうね、でも、夢じゃないのよ」と悲しみを押し込めるかのように笑いかけた。
二人のやりとりを黙って見ていたランベルトは、デメトリと目が合い、無言でうなずいた。
無邪気にはしゃいでいるビアンカを、直視するのが辛かった。
もどかしさを抱えたまま、ランベルトは「元気そうですね」とだけ言った。
「宰相閣下はどうしておられる」
「特に、何も。お忙しいみたいです」
そうか、とデメトリは言うと、すぐそばで微笑みながら寄り添うソフィアに「お客様にお茶を」とうながし、奥へと戻っていった。
***
その日は礼拝堂の撤収作業に借り出されたメイフェアが、アデルや瑠璃達と最後の掃除をしていた。
ここでビアンカと共に過ごした日々は、とてつもなく長いようで短かった。
今日で本当に終わりなんですね、と瑠璃が寂しげに呟く声が、一心不乱に床を磨くメイフェアの胸を打つ。
それぞれが、元の生活に戻る日でもあった。
「本当に、何も覚えてないのね。記憶が退行してるというか、幼くなっているというか、ここ五年分くらいの記憶が、きれいに消えてるわ」
「よかったね、君のことは覚えてくれてて」
手伝いに来たランベルトが、落ち込むメイフェアを励ます。
だが、メイフェアは相変わらず浮かない顔をしていた。
王都へ帰途に着く前、ランベルトはフィオナ達に宛てて手紙を送っていた。
修道院にいた自分が、何故聖都で意識を失って倒れていたのか、人さらいにでもあったのかと問いただすビアンカに、デメトリやソフィアがその場しのぎの嘘をついてどうにか納得させた、と書かれていた。
戦況やビアンカの混乱した様子が乱れきった筆で、ランベルトなりの言葉で伝えられていたものの、メイフェアはこの目でビアンカを確かめるまでは、半信半疑であった。
だが実際にビアンカと対面して、それはまぎれもない現実なのだ、と思い知らされることとなった。
「いつになったら、思い出すのかしら。何か思い出したこととか、あるのかしら」
「残念だけど今のところは、特にない」
「つじつまが合わなくても、自分で都合よく記憶をすり替えているというか、何も疑問に思っていないようだわ。今のところはね」
メイフェアは小さくため息をつき、休憩、と磨き上げた床に座り込む。
「すっきりしないわ。五年前からやり直してると思えばいいのかもしれないけど…。ステラ様など、ショックで倒れてしまわれて、いまだにアンジェラが看病してるって聞いたわ。あんなにお元気な方が寝込むなんて、相当衝撃を受けたんだわ」
私を忘れたなんて嘘だ、と青ざめた顔で呟くステラの髪を撫で、アンジェラが「大丈夫だよ、またお友達になればいいんだよ」と気丈に慰めていたと聞く。
「今までの生活を、少しずつ取り入れていけばいいんだよ。王宮の中とか城下とか、馴染んだ場所に行ってみたら結構思い出しそうなんだけどなあ」
ロメオが積み上げられた箱をいくつか抱え、出口へと向かう。
それに続き、ランベルトも箱を担ぐと、出口にある荷車に積み込んだ。
「無理に思い出させない方がいいって、ヴィンス様が」
どうして、と自分に向かって浴びせられる幾つかの強めの言葉に、ランベルトが引きつったような顔をした。
「よく笑っている、って。本当のビアンカは、もしかしたら自分が知ってるビアンカじゃなかったのかもしれないって、ちょっと前に、言ってた。酔っ払いながら」
「そうよ、元々は明るい子よ。それがイザベラ様のせいで日陰根性が身に染み付いたのか、びくびくするようになってしまって。滅多に笑わなくなっちゃったし」
数々の仕打ちを思い出して腹が立ったのか、メイフェアの言葉が荒々しいものになった。
「僕はもうすっかり仲良しだけど。むしろ前より、話しやすくなったような気もするし。ビアンカにしてみれば僕なんか、いい遊び相手なんだろうけどね」
荷台に腰掛け、ロメオが軽くあくびをする。
王都での生活はあまりにも平和で、毎日眠気を誘う柔らかな風が吹き、この前のあやうく死にかけた体験ですら、夢だったのではないかと思えてくる。
初めは自分の全く知らない人々に囲まれ、ビアンカは怯えた様子を見せるだけであったが、王都に戻る頃には何もなかったかのように、人々に溶け込んでいた。
記憶がないことを抜きにすれば、今までどおりのビアンカに戻った、と思えなくもない。
伯爵令嬢と呼ばれる身分になった今もビアンカは、母親と一緒になり、どこまでも続く広い『庭』を探検しては、草花を摘んで喜んでいる。高級なドレスを泥だらけにして。
違うようで、何も変わらないビアンカがそこにはいた。
「少し気になったのは、打ち所が悪かったんじゃないかって思うくらい、幼くなってるんです。五年前に時間が巻き戻されているせいなのかもしれないけど、十五歳って、あんなものなのかしら。カタリナ様もあんな感じだったのかしら…脳の病かと不安になるわ」
メイフェアがぽつりと呟き、瑠璃はあの日を一生懸命振り返りながら「頭を打ったのは、むしろロメオでは」と言った。
しばらく黙り込んでいたメイフェアだったが、やがて誰にともなく、一番の疑問を口にした。
「…例外なく、宰相様のことも忘れてるのよね?」
そうだね、とロメオは言い、再び忙しそうに箱を運び始めた。
メイフェアはつとめて明るい声で言った。
「また、やり直せばいいのよ。宰相閣下と伯爵令嬢よ。あら素敵、物語みたいじゃない」
「どうだろう。結構難しいと思うけど」
だがメイフェアとは正反対に、ランベルトの声は沈んでいた。
「全然人見知りしない子なのに、何故かヴィンスだけには懐かないんだ。…顔が怖いって」
笑わない顔で答えるロメオが、真実を語っているようだった。
しばらく考えたのち、メイフェアがおそるおそる言う。
「冗談抜きで、身代わりだった頃の恐怖心が潜在的に残っているのかもしれません…」
自分の発言で、より希望を失っていくメイフェアである。
「最近、北の庭園でぼうっとしてる姿をよく見かけるんだ。でもその姿がまた恐くて、誰も声かけようとしないし。なんていうか、魂が抜けちゃってるような…」
「覇気のない宰相様なんて、宰相様じゃないわ」
「そうは言ってもね。普通に、可哀想だよね。全部なかったことにされてるんだよ。しかも本人は悪気があるわけでもなし」
珍しく、ロメオはヴィンチェンツォに対して同情的な発言をする。
「全部、ですか」
「そう、全部」
突然メイフェアが立ち上がり、この場にいない誰かを鼓舞するように、力説し始めた。
「ショックなのはわかるけど、ここで引いたら駄目よ、私なら引いてほしくないわ。俺の嫁くらい、どうして言わないの」
ですよね、何を遠慮しているのでしょう、と瑠璃が同意しつつうなずいている。
「わからなくもない。自分が好きだった人とは、中身が別人なんだから」
ロメオがヴィンチェンツォを擁護し続けるものの、メイフェアはきっぱりと言った。
「だからまた最初からやり直せばいいじゃないの。だいたいね、たかがそれくらいで、宰相様も器が小さいのよ、意外と女々しいのは知ってたけど」
小さいわね、と今まで聞き役に徹していたアデルまでもが、ふいにぼそりと言った。
「そんな簡単じゃないと思う」
いつの間にか理不尽にヴィンチェンツォを糾弾している女性陣に対して、ランベルトが一石を投じる発言をする。
苛立つメイフェアは、怒りの矛先を今度は自分の夫に向ける。
「じゃああんたは、もしも私が急にあんたのことを忘れたら、他人になるの」
話が飛躍しすぎだ、とランベルトは思ったが、うろたえながらも必死で返す。
「そんなこと言ってない。ちゃんと『旦那です』って主張するよ」
「ならいいわ」
可哀想なヴィンスのことはどうなったのかな、と機嫌をよくしたと思われるメイフェアの後姿を眺め、ロメオは静かにため息をついた。
木箱に腰掛け、礼拝所の天井を眺めていたアデルと目が合い、ロメオは無意識に騒ぎだす心と戦っていた。
あれからアデルとは事後処理に追われ、事務的な会話しかしていない。
結局、ウルバーノのことは聞けずにいた。
自分の知らないところで泣いたりしているのかと思うと、ロメオは悔しさと寂しさが入り混じった思いで苛立つ時もあった。
アデルの気が少しでも晴れればいいけど、と時折くだらない会話をしつつも、ビアンカの件はメイフェアのようにあれこれと論じていなかったような気がする。
口にするのは、ためらわれた。
それだけ自分達も、ビアンカの変化に衝撃を受けていた。
「私ね、はじめは私とビアンカが逆だったらよかったのに、って思ったの。全部忘れるのが私だったら誰も困らないし、私もそうであってほしかった」
ロメオは黙って、アデルの言葉に耳を傾けていた。
「でもね、今は忘れなくてよかったって、思えるようになってきたみたい。ビアンカを見てたら、忘れられるのって、悲しいもの」
***
二匹の蝶が追いかけっこをしながら、ヴィンチェンツォの前を通り過ぎていった。
思い起こせば去年の今頃も、こうして北の庭園でひとりぼんやりとしていたような気もする。
そして今年もまただ。
あの日、ビアンカが目覚めたとの知らせを受け、嬉々として恋人のところへ向かったヴィンチェンツォの目の前には、ビアンカであって、自分のビアンカではない一人の女性の姿があった。
ヴィンチェンツォの姿を見るなり、ビアンカは怯えたようにソフィアの背中に隠れてしまった。
瞬間的に違和感を覚えたものの、ヴィンチェンツォは気にも留めず「目が覚めたのか、よかった」と言った。
けれども、きちんとお礼を、とソフィアにうながされおそるおそる顔をのぞかせたビアンカは、警戒心の塊でしかなかった。
「あなたが私を助けてくださったのですか。ありがとうございます、騎士様」
何故、そのように余所余所しいもの言いをするのだろう。
どうしてそんな目で、自分を見るのだろう。
まるで、赤の他人のように。
どうして、自分の名前を呼んでくれないのだろう。
初対面の人間のように自分を扱うビアンカは、それまでのビアンカとは明らかに違っていた。
凍りつくヴィンチェンツォに、デメトリは「一時的に混乱しているだけかもしれません、きっとすぐ元に戻ります。今日は閣下もお疲れでしょうから、お引取りを」と気遣いをみせるものの、デメトリ自身にさえ、それがいつになるのか皆目見当がつかなかった。
「嘘だろう」
「嘘じゃないんです、私のことは勿論、全部忘れてしまっているようで、私もどうしたらよいのか」
それまで付きっきりで、天幕の中でビアンカを看ていた瑠璃が、耐えかねたようにすすり泣いていた。
どうして、何故、とヴィンチェンツォは怒りさえ覚えながら、思わずビアンカの肩を乱暴に掴んだ。
反射的にいや、と叫び声をあげるビアンカを、ソフィアが慌てて抱きしめた。
「閣下、おやめ下さい」
「嘘だ、どうして俺の名前を呼ばない」
「お願いですから、あなたも今日はお引取りください。お気持ちは痛いほどわかります、ですがこれ以上は…」
デメトリの苦しげな表情を見つめるヴィンチェンツォの瞳から幾つもの涙が伝い落ちるのを、瑠璃は痛む胸を押さえながら見ていた。
自分も一緒になって、黙って涙を流していた。
流れ落ちるままになる涙を拭おうともせずヴィンチェンツォは、震えながらすっぽりとソフィアの腕の中に収まっているビアンカを、空虚な瞳で見つめていた。
無理を重ねた結果が、これなのかもしれない。
イザベラを失い、巫女を失い、ウルバーノさえも自分の前から消えた事実が、あまりにも受け入れがたかったせいなのだろうか。
現実から逃れるかのように、ビアンカの心の中では、彼らの存在が丸ごと消えていた。
そればかりか、自分との思い出も一緒に。
けれど、ビアンカの心の弱さを責めることはできなかった。
自分の存在など、塵に等しいようなものだった。
守ることができなかった自分の力不足を恥じ、本当の意味での支えになれなかったという思いが、ヴィンチェンツォの心に深い影を落としていた。
「仕事、するか」
定位置の椅子から立ち上がるとヴィンチェンツォは呟き、蝶の去った方向をぼんやりと見ていた。