123の話~差し伸べられた手~
「さっきから変な臭いがする。焦げ臭いような…とうとう誰かが、やけになって火でもつけちゃったかな」
ロメオが何度か鼻をひくつかせ、辺りを見回していた。
ヴィンチェンツォ達が通路を抜けると、どこかの部屋の暖炉と繋がっていた。
暖炉の臭いとも違うわね、とアデルも顔をしかめている。
「ひとまず出ましょう」
ジョナサンにうながされ、ヴィンチェンツォ達が緊張した面持ちのまま、明るい部屋へと次々に飛び出していった。
制服が汚れる、と煤を払う手も汚れており、ロメオは諦めたように両手を組んだ。
「三階ですね。居住区の一室と思われますが」
窓の外から沈みかける船を見つけ、アデルが「やってくださったわ!」と嬉しそうな声をあげる。
窓辺に駆け寄ると、眼下では砦になだれ込んでいく兵の姿が目に入った。
「俺達も急ぐぞ」
先発の意味がない、とぼやくヴィンチェンツォに「行きましょう」と疲れも見せず、鼻に煤をつけたアデルが元気のよい声を返す。
同時に、繰り返しビアンカの名を呼ぶ女性の声が廊下からこだまする。
デメトリが無言で扉を開け放ち、だんだんと近づいてくる声の主を探しに飛び出していった。
「ソフィアか」
降って湧いたかのごとく突然あらわれた夫の姿に絶叫する女性と、彼女を力強く引き寄せるデメトリの後姿を、ジョナサンが苦笑しながら眺めていた。
「ビアンカのお母さんかー。ヴィンスのお姉さんよりちょっと年上なんだっけ。挨拶しに…」
ビアンカと同じ明るい栗色の髪を見つめ、ロメオは興味津々だった。
「ビアンカを探すのが先よ」
勢いよくアデルに耳を引っ張られ、抗議の声をあげるロメオに、ヴィンチェンツォが「いつもどおりだな」と短い感想をもらした。
「早く脱出しないと。ああでも、ビアンカがまだなの」
混乱するソフィアに、デメトリが「一緒ではないのか」と落ち着かせるような低い声を出す。
「鐘を鳴らしたのはビアンカだわ。最後まであれに触れてはならないとウルバーノや大叔母様がおっしゃっていたのに、あの子は」
「それはどういう意味です」
ヴィンチェンツォがまさか、と厳しい顔で、うろたえているソフィアを見つめていた。
「地下の火薬庫に繋がっているのよ。そのせいで、先ほども何度か揺れていたわ。いろんな通気口から、煙が上ってきている。早くしないと、崩れるわ」
情けない悲鳴をあげるロメオの背中に蹴りが入り、思わずロメオはその場にうずくまった。
「皆を退避させる。急いで」
ジョナサンがきびきびとした声でアデルをうながす。
「俺はビアンカを探します。先に行ってください」
ヴィンチェンツォに向かって私も、と叫ぶソフィアに首を振り、デメトリが強い口調で言った。
「彼らに任せて、俺達は先に行こう」
「私は行けない」
逃げられるものなら夫と一緒に、自分はとうに逃げ出していた。
またか、とデメトリのため息混じりの声が淡い色の石壁に吸い込まれていく。
「ソフィア、もういいんだ。君が責任を感じる必要などない。あの時死んでいればよかったなどと、言わないでくれ。俺を巻き込んだなどと、思わないでほしい」
「私に出会わなければ、あなたの人生は違っていたのよ」
だから、と苛立ったような声をあげるデメトリを、ソフィアが黙って見上げている。
「やり直したいなんてこれっぽちも思っていないし、俺は君に会えて、よかった。何度も言っているけど、俺は、君とビアンカがいてくれて、幸せだった」
デメトリが自分を連れて逃げ出してくれたのは、同情だったのではないかと、長い間思っていた。
外の世界を見たいと言った自分に戸惑いながらも、一度たりとも不満を口にすることなく、寄り添い続けてくれた。
国に帰れば何不自由なく暮らせる身分であったデメトリに、重荷を背負わせたと気付いた時には、ビアンカを身篭っていた。
「君が考えていることなど、気付かない俺だとでも。一緒にいていいんだ。これからもずっと。一緒に、いてほしいんだ」
「迷惑じゃ、ないの」
「何を今更」
笑いかけるデメトリの胸に頭をこすりつけ、ソフィアが子どものように肩を震わせていた。
うつむいたソフィアの瞳から涙が零れ落ち、いくつもの雫が石畳に染みを作った。
泣き顔もビアンカそっくりだ、とヴィンチェンツォの顔に自然と笑みがこぼれる。
「プロポーズみたいだね」
あっちもこっちも仲良しで結構だね、と呟くロメオに、その日何発目かのアデルの蹴りが入った。
「人のことはいいのよ。早く行くわよ」
しゃくりあげているソフィアを抱え上げ、デメトリは「俺の仕事は終わりだ。後は任せた。よろしく、ヴィンス」と片目を瞑る。
歩けるわ、と不満の声をもらすソフィアであったが、思い出したように角部屋を指差した。
「もしかしたらビアンカは、あそこにいるかもしれない。ずっと、巫女様に会いたがっていたから。…大叔母様はお体が不自由で、あの奥の部屋で寝たきりなの」
「よかった、早くビアンカを見つけて、僕達もここから逃げよう」
ロメオがようやく前向きな発言をし、アデルの「行くわよ」という張り詰めた声が廊下に響いていた。
***
前方を塞がれ、どこかに出口はないかととっさにバルコニーに飛び出したビアンカだったが、あいにく道はどこにもなかった。
あるとしたら、壁の向こう側しかなかった。
海から吹きつける風に身を震わせるビアンカは、遠くで母の声を聞いたような気がした。
「私を殺しても、無駄です」
怯えていると悟られたくなかった。
精一杯の威厳を持って、ビアンカは静かな声を出す。
「目障りだと言ったのが聞こえなかったの。私をオルドの女王にしてくださると、巫女様が約束してくださったのに、お前のせいで何もかもが滅茶苦茶になったわ」
イザベラの手にした短剣が日の光を受け、妖しげな光を放っている。
少しずつ近づいてくるイザベラから逃れようとしたものの、ビアンカはじわじわと壁際に追いやられる。
「全て幻です。オルド教徒が覇権を手にする日は、もはやありえないでしょう。イザベラ様は、騙されています。巫女の存在など、ウルバーノ様や大叔母様にとっては、所詮操り人形のようなものです」
自分を諭すような口調のビアンカに腹を立て、イザベラは噛み付くごとく言い返した。
「お黙り!誰もが私にかしずき、崇め立て、私を女王と呼ぶはずだったのに」
「それが、イザベラ様の願いなのですか」
ビアンカの琥珀色の瞳が曇るのを、イザベラは苛立ったように睨み付けた。
「私を、哀れむような目で見るのはお止め!」
「私に刺されるか、ここから飛び降りるか、どちらでも構わないわ」
自分の背後に忍び寄る気配に、イザベラは全く気付く様子もなく、歪んだ笑みを口元に浮かべながら、ゆっくりとビアンカに近づいてくる。
ビアンカは緊迫した状況も忘れ、ぼんやりと長身の人物を見つめたままであった。
「ビアンカは私よ。二人も、この世にはいらない!」
「俺のビアンカは、人の死を願うような性悪女ではない。本物に失礼だ」
手首を思い切りねじ上げられ、イザベラの悲鳴が辺りに響く。
イザベラの手から転がり落ちた短剣をすかさずロメオが足で払い、ヴィンチェンツォがイザベラを組み伏せた。
崩れ落ちそうになるビアンカの体を抱きとめると、アデルが何度も栗色の髪を撫でていた。
「お願いです、乱暴にしないで」
「俺に最初に言う言葉が、それか」
ヴィンチェンツォはわずかに苦笑をもらし、自分の体の下で暴れるイザベラを冷ややかに見下ろしていた。
「私はイザベラ様を迎えに来たのです、ですから、わかってください」
「あなたを殺す気満々な女を、それでも庇うのか。俺はそれだけで、許せない」
「大事な、家族です」
自分の胸に飛び込んでくることもなく、ビアンカはただ悲しげに、ヴィンチェンツォと真っ直ぐに視線を交わしていた。
一瞬、ヴィンチェンツォは忌々しげな視線でイザベラを見下ろしたが、黙って体を起こしイザベラを乱暴な手つきで立ち上がらせる。
「私から何もかも奪っておいて、盗人猛々しいとはこのことね」
荒い息をつき、イザベラは相変わらずビアンカに対し、憎悪の眼差しを向けたままであった。
「おとなしそうなふりをして人々の関心を買い、懐に入り込むのがお上手だこと。母屋を貸して庇をとられるとは、まさにこのことね」
煤で汚れてはいたものの、見覚えのあるような金髪の青年が黙って自分を見つめていることにイザベラは気付いた。
「お前もなの。この男の間者だったのかしら。その割には中途半端な働き具合ですこと」
「何を言っているのかわからないけど、少なくとも僕は、王に弓引くような行動はしないし、誰も騙したりしてない。ビアンカを、みんなを手伝っただけだ」
ロメオの端正な顔が、ビアンカの瞳にはどことなく寂しげに映った。
「自分の身勝手で彼女を身代わりにしておいて、逆恨みもいいところだ。これほどまでに更生の余地がない人間も珍しい」
吐き捨てるように言うヴィンチェンツォのイザベラをとらえた腕が、わずかに緩むのを感じ、イザベラは渾身の力を込めてわき腹に肘鉄を食らわせた。
不意打ちに思わずうずくまるヴィンチェンツォを振り払い、一目散にイザベラが走り出す。
ヴィンチェンツォに駆け寄るビアンカを横目に、イザベラが城壁に手をかけ、その体を無理やり押し上げた。
驚いて振り向くビアンカの瞳に映るのは、城壁の上に立ち上がり、自分を見下ろしているイザベラの姿であった。
呆然としつつも、悲しげに自分を見つめるビアンカから目をそらし、イザベラは「心底お前が嫌いよ」と憎々しげに言った。
「お願いです、こちらに」
「来るな!」
イザベラの怒号混じりの声にビアンカの体が硬直するのが、ヴィンチェンツォの腕ごしに伝わってくる。
嫉妬の塊である、とアデルは厳しい顔つきでイザベラを眺めていた。
思い切り罵倒したい気分ではあったが、おそらくこの方には何を言っても無駄のよう、とアデルはかつてお妃であった人に、哀れみの眼差しを向けていた。
「馬鹿なことは、やめるんだ。大丈夫だから、こっちに」
「黙れ、犬の分際で」
ロメオに怒鳴り返すイザベラが、ありったけの悪意を振りまき、全てを拒絶していた。
「お母様も、必ずや親身になってくださいます。どうか皆で一緒に、王都に帰りましょう」
震えるビアンカを抱き寄せ、ヴィンチェンツォがじわりと痛むわき腹を押さえている。
「お母様が必要としているのは、ビアンカであって、イザベラではないのよ。それくらい、私にもわかるわ」
ふいに自嘲的な笑みを浮かべ、イザベラがぽつりと言った。
「そんなことはありません。とてもあなたを心配していました。母も私も、あなたが心安らかに過ごせる日が来ることを、祈っています」
「お前のその口の聞き方には、本当にいらいらさせられるわね。人を見下したようなその態度に、お前の本性が見えるわ」
再びイザベラの声に、憎悪がみなぎってくる。
違います、と悲鳴に似た声でイザベラに語りかけるしかすべのないビアンカだった。
ヴィンチェンツォが苛立ちを見せ、ビアンカに向かって首を振る。
「もうやめろ。この女には、何を言っても通じないんだ。あなたが同情する必要などない」
どこからか吹いてきた潮風に入り混じる鼻をつくような臭いに、ビアンカの顔が一層険しいものになる。
ここで言い合いをしていても、誰も助からなくなってしまう。
自分達もイザベラも、ここを無事に出るにはどうしたらよいのか。
けれど、イザベラが頑なに自分を拒否しているのは、悲しいほどにわかりきっていた。
「正義を振りかざせば、全ての人が救えるとでも思っているようだけど、虫唾が走るほど、甘いわ。私を助けたいですって。思い上がるのもいい加減におし。そんなもの、お前の自己満足よ」
違う、と叫ぶビアンカの姿が痛々しかった。
ヴィンチェンツォ達は何も言わず、ひたすらビアンカを見守り続ける。
「私を救えなかったと、一生苦しめばいい。この世には、お前の思い通りにならないこともあるって、教えてあげるわ」
「やめてください。どうか、お願いですから」
泣き叫ぶビアンカに、イザベラはゆっくりと首を振る。
その表情は一瞬だけ苦しみが垣間見えたようであったが、すぐさま元のような憎しみをたたえた顔に戻った。
「お優しいビアンカ様は、さぞかしお辛いでしょうね。哀れな女が何もかも無くして命を絶つのを、とめることができなかったと、生涯後悔するがいい!」
素早くビアンカに背中を向け、イザベラが宙を舞うように、ふわりと一歩を踏み出した。
イザベラの後姿が音もなく消えていくのを、ビアンカ達は呆然と眺めていた。
イザベラの名を呼びながら駆け寄ろうともがき続けるビアンカを後ろから抱きしめ、ヴィンチェンツォは黙って何度も首を振る。
とっさにイザベラに向かって差し伸べられたビアンカの手が、彼女に届くことなく行き場を失ったままであるのを、ヴィンチェンツォは目をそらすことができずにいた。
城壁に駆け寄り、下を覗き込んだロメオ達は、水路が大きな水しぶきを上げ、やがて静かに何かを飲み込んでいくのを、じっと見つめていた。
「最後まで、私を受け入れてくださらなかった」
嗚咽するビアンカを再び強く抱きしめ、ヴィンチェンツォはかすれたような声を出す。
「認めることができなかったんだ、あなたが眩しすぎて、きっと」