120の話~二人のビアンカ~
「宰相閣下はどちらにおわす!」
突然ステラの鋭い声が、ざわめく部屋に響き渡る。
この変な顔した仮面より恐い、とステラの憤怒の形相と見比べながら、手にしていた怒り顔の仮面をとっさに放り出すランベルトであった。
「ロメオが消えた。勝手なことばかりしおって、今日という今日は許さぬ。宰相閣下のご指名で留守にすると書き置きだけ残して消えた。あいつらはどこだ!」
はっとしたように瑠璃が顔をあげ、「そういえば、アデル様も先ほどからどこにもいらっしゃらなくて」と動揺を隠せずにいる。
「もういないよ。それに今、ヴィンス様は無職らしいし」
ランベルトがメイフェアの影に隠れながら、恐る恐る言う。
「無職?何があったのだ。まさかあいつら、不祥事を起こして逃亡か」
落ち着いて、と形ばかりの笑顔を向けるランベルトである。
「そんなに怒ってばかりじゃ、体に悪いよ」
「うるさい!」
一気に頭に血が上ったのか、どっしりとした象の置物の背に手をつき、ステラがはあはあと荒い呼吸を繰り返していた。
「騎士団の再編成を早急にと言ってあったばかりなのに…これ幸いとばかりに逃亡するなど…もうよい、何がなんだかわからぬが、あいつもついでに解雇だ!」
それはちょっと、といきり立つステラをなだめ、メイフェアが「深呼吸しましょう」と何度か背中を撫でていた。
「ロメオ一人くらいいなくても、いいじゃん。逆に話がまとまりやすいでしょ。あいつ何かとねちねち文句ばっかり言うし」
ランベルトが相変わらず、逃げ腰な口調であった。
「そういうわけにはいかないでしょ。確かにあんたみたいに単純なら、御しやすいお方なんだけど。でもロメオ様は、ああ見えて優秀なのよ。気が付けばさっさと仕事を終わらせてるし、要領の悪いあんたとは違うのよ。二人足して二で割れば丁度いいのにねえ」
メイフェアは、誰を褒めているのか伝わりにくい感想をもらす。
「このような時こそ、むしろ君の本領発揮ではありませんか。そもそも正式な副団長は、ステラなんですし。君一人でも全然問題ありません、私が太鼓判を押します」
ランベルトが副団長の一人である事実を、もはやなかったことのように言うクライシュであった。
「勝手すぎます。わかっていましたが、改めて身勝手な振る舞いをされると、尚更ヴィンスが、許せません」
唐突に口を開いたロッカの地の底から響くような声に、思わず一同が凍りついた。
いつもいつも、大事なことは何一つ相談もせず、一人で勝手に決めて、行動してしまう。
そんなに自分は信用できないのか、と純粋に腹が立ってしかたがなかった。
辞職するなら、もっと早くに教えてほしかった。
そうではない。
何より、自分を置き去りにした事実が、ロッカを深く傷つけていた。
ロッカ様が物に八つ当たりする性格でなくてよかった、と小刻みに震えるロッカを眺めながら、アルマンドは胸をなでおろしていた。
「宰相閣下からお問い合わせの件ですが、今のところ落し物の届出はないようです」とヴィンチェンツォを探していた内務省の総務管理課の役人から、ロッカは伝言を受け取る。
届けられた短い手紙には『遺失物の件、鍵、届出なし』と書かれていた。
「鍵?」
「私が失くしてしまった鍵を、宰相様が探してくださっているのです。このような騒動になってしまい、本当に申し訳ありません」
瑠璃が慌てて言い訳をし、何も知らないロッカは「そういうことですか。ビアンカ様が持ち出したのですね」と重苦しいため息をついた。
なるほど、とロッカは呟くと、あからさまに肩を落としてうつむいた。
「追いかけるのであれば、隠さず言ってくれればよかったのに」
「確かに、宰相閣下も、ロメオも、勝手だ。ビアンカ様を心配しているのは、あいつらだけではないのに」
ロッカの気持ちを代弁するように、ステラがふいにぽつりと言う。
「宰相様がお辞めになる必要など、なかったのに。ビアンカ様も、一言おっしゃってくだされば、頼りない身とはいえ、何かお手伝いできることがあったかもしれない」
ビアンカを守る立場である自分にも、責任があるのは否めない、と瑠璃は寂しげに手のひらの置物をじっと見つめている。
「あの方達は、いつもそうでした。ご自分の中に抱え込んでしまわれるのは、お二人ともよく似ている気がいたします」
うつむいたままぼそぼそと呟くロッカの大きな背中が、いつもよりひときわ小さい。
「まさかとは思うが、お二人とも、もうここには帰ってこない覚悟がお有りなのだろうか」
ステラの言葉に、誰もが黙り込む。
しん、と静まり返る中、メイフェアはいつの間にか、隣のフィオナの両手を固く握り締めていた。
「必ずお戻りになると、私は信じておりますが…もっと私が注意を払っていたら」
確信が揺らぎ始め、瑠璃は後悔を滲ませた言葉を言いかけては、また口をつぐむ。
「君のせいじゃないです」
クライシュは己を責める妻に対し、そう答えるのがやっとであった。
沈み込む人々を眺め、フィオナがおもむろに立ち上がる。
「お願いがあります。どうか二人が無事に戻れるよう、あなた方の力を貸してください。聖都へ、行ってください」
エミーリオは、うつむいたままのロッカの顔を遠くから見つめていた。
「ですが、自分は」
「行きたいのでしょう、あなたも、ヴィンスのそばに。行って、彼の力になってあげてください。後のことは、どうにかします」
あまりにも短絡的な思いつきであったとしても、それでも、このままにしてはおけなかった。
フィオナはロッカを見上げ、若い秘書官の口から言葉が出るのを、ひたすら待ち続けていた。
はい、と小さく呟くロッカに、フィオナは励ますように微笑みかける。
曇り空のようであったエミーリオの顔に、徐々に喜びが広がっていく。
「今一度、私から最後のお願いです。金獅子騎士団に、出動の要請を。直ちに聖都に出立し、団長を補佐するよう、命じます」
しばらくの沈黙の後、御意、と答えると、真っ先にステラがフィオナに向かってひざまずいた。
やがてその場にいた者が、慌ててステラにならう。
「ちょっとステラ、いくらなんでも、君には無理かと思うんだけど」
ランベルトが慌てふためきながらひざまずいたものの、困ったように口を開く。
「わかっている。私からも、頼まれごとをしてくれぬか。皆には申し訳ないが、私はここで、待っているから」
こそこそと何ごとかをランベルトに耳打ちし、ステラがにやりと笑う。
「了解。任せといて」
二人の会話の内容はわからなかったが、この人に任せて大丈夫なのかしら、とメイフェアは不安を隠せず、自分の夫を眺めていた。
***
「あなた達は、先に行っていてください」
ここでも、ビアンカを不審に思う者は皆無であった。
静かに自分に頭を下げ、女性達が姿を消すのを見届けると、ビアンカは薄暗い部屋の中、表情を消して佇んでいる母のソフィアにゆっくりと近づいた。
やがて耐えかねたように、二人は勢いよく互いの胸に飛び込んでいく。
「お元気そうで、よかったです」
自分を抱きしめ返す感触が、ただ懐かしく、心地よかった。
「私はお父様に、あなたが関わることないようにと伝言を残したはずなのだけど」
「それどころか、不甲斐無い私に腹を立てていらっしゃいました」
短気な人は困るわ、と瞳を潤ませ、ソフィアは笑っていた。
「あなたに一目会えただけで、私は充分よ、ですから早くお帰りなさい」
「いいえ、それはできません」
「お母様は、何をなさろうとしているのです」
「聞いたところで、あなたにはどうすることもできないのよ」
ソフィアの声は、恐ろしいほどに淡々としていた。
ここで引き下がってはいけない、とビアンカは同じように自分も、精一杯感情を抑えた声を出す。
「私はお母様を止める為に、ここへ参りました。降伏なさって下さい。お母様の口から皆に伝えて下さい。一刻も早くこの争いを止めるのが、長たるお母様の務めではないのですか。それとも敢えて、一人残らずオルド教徒が死に絶えるのを見届けるおつもりですか」
「それが一番、いいのよ」
「よくありません!」
思わず声が大きくなるビアンカを、ソフィアが「静かに」とたしなめる。
「お母様がオルド教徒に与するのも、本心からではないはずです。責任を感じる理由さえ、ないのに」
ビアンカの一途な眼差しは、別れたあの頃と何も変わっていない、とソフィアはいとおしげに見つめていた。
「逃げられないのなら、共に滅びるのが、私にできる唯一の残された道です。でもあなただけは、何にも縛られることなく、生きてください」
「逃げられないとは、オルドの巫女様からですか。長年お母様が身を隠していたのは、先々代の巫女様を恐れてだったのだと、ようやくわかりました。お母様が復讐に付き合う必要など、ありません」
息を飲んで自分を見つめるソフィアに向かい、ビアンカは今までのためらいを捨て去ると再び口を開く。
「この世に審判を下すのは、先々代様なのですね。まだ、生きていらっしゃるのでしょう。…こちらにおいでなのですか」
「あなたに、大叔母様の話をしたことはありませんでしたね」
「巫女様に縁の方が、お話してくださいました。会わせてください、大叔母様に」
「それはできません」
ソフィアは何故、と怒り混じりで問うビアンカに対し、頑なに首を振り続けていた。
「お母様から離れなさい」
突然激しい口調で背中から浴びせられ、ビアンカは思わず振り返った。
「イザベラ様。ご無事で、ようございました」
戸惑いながらも、自分をいたわる言葉をかけるビアンカを無視するかのごとく、イザベラは再び罵るような金切り声をあげた。
「私の名を語るとは忌々しい女。ビアンカは、私よ」
「いいえ、ビアンカは私です。あなたは、違う。イザベラ様です。一緒に帰りましょう。大丈夫です、私があなたをお守りしますから、何も心配せずに、王都に帰りましょう」
うろたえながらもビアンカは、イザベラに必死で呼びかける。
いやよ、と叫ぶとイザベラは激しく頭を振り続けた。
「私はビアンカです。次の世代の巫女である、ビアンカ・フロースは私よ。お母様から、離れて!」
叫び声をあげながら身を震わせているイザベラの姿に、ビアンカはわずかながら恐怖心を覚え、思わず数歩引き下がった。
何かが、違う。
イザベラが感情的になるのは慣れていた。
けれど今日のイザベラの、妄信的なまでの言葉の数々と自分に対する憎悪を隠さぬ瞳に、ビアンカは困惑を越え、戸惑いと恐れしか感じなかった。
もしや精神に異常をきたしてしまったのだろうか、と叫び続けるイザベラの姿に、ビアンカは何も言えずに恐怖で立ち尽くしていた。
「大丈夫よ、ビアンカ。お母様はここにいますから、大丈夫よ」
小さな子どもをあやすように、ソフィアは優しくささやき、怯えるイザベラを抱きしめていた。
「少し休みましょう。大丈夫、私はどこにも、いかないから」
「たまに、このように錯乱状態になる時があるの。最近は落ち着いていたのだけど」
薬が効いたのか、イザベラは落ち着いた様子で眠りについていた。
「彼女がここへたどり着いた時、私はあなたと勘違いしてしまって、思わず『ビアンカ』と呼んでしまったのだけど…。気が付けば、自分はビアンカなのだと思い込んでしまっているようで。その方が、居心地がいいのでしょうね。彼女も過去の自分を捨て去りたいほどに、辛い思いをしてきたのでしょう」
どうしてこの方は、自分が不幸になる道ばかり選んでしまわれたのだろうか。
このような状況では、行き着く先は目に見えている。
「イザベラ様は誇り高いお方で、誰よりも強いと私は思っていました」
イザベラがようやく見つけた自分の居場所とは、ソフィアの隣の、ビアンカで在ることなのだろうか。
蔑むような眼差しを向け続けていたビアンカ・フロースに、最後は自ら成りすますなど、イザベラ自身思いもしなかっただろう、とビアンカは複雑な心境でイザベラの寝顔を見つめていた。
不思議なことに、怒りは湧き起こらなかった。
「ウルバーノ様はどうなさるおつもりなのです。このまま篭城していても、昔のように最後は降伏するしか、道はないはず」
「コーラーの後ろ盾がある限り、自分達は安泰だと思っていらっしゃるようです。その為にわざと、カプラの紛争を引き起こしたのですから」
やはり、とビアンカは思わず両の拳をありったけの力で握り締めていた。
「今はコーラーに出向いて、何か交渉しているようです。ですがそろそろお戻りになる頃だし、そうなっては今度こそ、逃げられないわ。だから早く」
そうは言われても、先々代の巫女に会わずして、どうしてこの場を去ることができるだろう。
何より、母やイザベラを置いて自分一人だけ逃げるなど、ビアンカには到底考えられなかった。
どうすればこの人達を助けることができるのだろう。
ここにいて、とビアンカにささやくと、ソフィアは素早く部屋を後にした。
ソフィアと入れ替わるように、フォーレ子爵が音もなく姿を現す。
寝台に横たわるイザベラを見下ろし、フォーレ子爵が独り言のように呟く。
「おかしなものですね。かつては、あなたが彼女の身代わりであったのに、今は自ら望んで、あなたに成りすましている」
「誰もイザベラ様を、大切にしなかったからです。あなたも、イザベラ様を捨てたではありませんか。あなた方は、何も思わないのですか。私になってもなお、イザベラ様は苦しんでいらっしゃるのに」
フォーレ子爵だけではない。実の兄のウルバーノですら、イザベラを大切にしてくれなかった。
ビアンカの怒りの矛先は、当然のようにその場にいるフォーレ子爵に向けられていた。
「私との関係も、全ては彼女が選んだ道です。利害の一致ですよ。それに、見捨てたわけでもありません。新任の大使に命じて、囚われの彼女を救うように手を尽くしたのですがね。国王陛下も酷いことをなさる。いくら政略的な縁組とはいえ、あの方がもう少しイザベラに気配りしてくださっていたら、彼女も投げやりな生活など、なさらなかっただろうに」
それは、と言葉に詰まるビアンカに、フォーレ子爵は辛辣な評価を続ける。
「まあ、あの方は誰も愛せないのでしたっけ。優しいふりをして、実際は誰にも心を開いていらっしゃらないようですし。責められるべきなのは、イザベラだけではないでしょう。そうそう、フィオナ様がご懐妊と非公式ながら耳にしましたが、それも本当に陛下のお子かどうか」
フォーレ子爵の美しい顔に、ビアンカの容赦ない平手打ちが鋭い音を立てて飛ぶ。
琥珀色の瞳に涙を溜めて自分を睨みつけるビアンカに、フォーレ子爵は何も言わず苦笑していた。
「陛下を、フィオナ様を侮辱なさるような発言は、お控えください」
いやな男だ、とビアンカは率直に思う。
それでもイザベラがこのような男を懇意にし、すがりついてしまったことが、ビアンカは我がことのように悔しくてならなかった。
それに、自分にはわかる。
エドアルドにとってフィオナがどれだけ大きな存在か、自分だけでなく、皆がわかっている。誰も愛せないわけでは、ない。
ご無礼のほど、お許しください、とフォーレ子爵が沈黙を破るように、静かに口を開いた。
「先ほどの巫女様の件ですが、確かにこちらにいらっしゃるようです」
本当に、と緊張した面持ちで自分を見つめるビアンカが、どことなく気恥ずかしそうであるのが、微笑ましい。
フォーレ子爵はひとつうなずき、声をひそめて言った。
「ウルバーノやソフィア様など、限られた者だけが出入りを許された部屋があるのです。『神の間』と呼ばれる部屋です。おそらく、あなた方のおっしゃる大叔母様は、そちらにおいでかと思われます」