119の話~迷宮の人~
エドアルドに奥の小部屋に通された途端、疲れ気味であったロッカの瞳に生気が宿る。
遠い昔に、ここで遊んだことがあった。
今改めて、雑然と置かれた数々の品を眺め、ロッカは「すごい」とひたすら感嘆していた。
「これを処分してくれ。焼くなり切り刻むなり、好きにしろ」
そして今日の陛下も例外なくご機嫌が悪い、とロッカは思う。
ロッカは壁に掛けられた一枚の絵画を見上げ、おそるおそる近づいた。
「不思議な絵ですね。とても貴重なもののように見受けますが、捨てろとおっしゃるのですか」
ロッカは絵に描かれた顔とエドアルドを見比べながら、この絵の価値はとても推し量れないような気がする、と感じていた。
「そうだ」
エドアルドは不機嫌さを隠さずに言い捨てた。
「ついでに、ここにあるもの全部だ。全部まとめて、燃やせ」
それはいくらなんでも、とロッカは信じられない気持ちでエドアルドを見つめていたが、余計な詮索はせず、御意、と短く答えると、しばらくしてからランベルト達を引き連れ、壁から絵を外す作業に取りかかった。
「丁寧に扱ってください。落としたら、大変なことになります」
なんで私がこんなことを、とぶつくさ言ううちに、メイフェアの額縁を掴む手が緩んでは慌てて持ち直すこと数回であった。
気が付けばロメオもいないし、なんで俺がこんなことを、とランベルトは不服そうに言った。
「陛下は捨てろって言ってるんだろ。それなら別に壊れてもいいじゃないか。ここでばらしちゃえば」
ロッカの目元がすっとつりあがり、即座に「駄目」と言った。
「捨てずにうちに飾る予定だ」
物好きだなあ、とランベルトは呆れたように呟く。
「陛下に、怒られるんじゃないかな」
「いいんだ、好きにしろとおっしゃっていた」
「こんな気味の悪い絵、家にあったら不幸になりそうなんだけど。変な絵。化け物じゃん」
全体的に暗い色調の絵を眺め、芸術とは一切無縁の人生を送ってきたランベルトが、げんなりした声をもらす。
失礼な、と珍しく憤るロッカをなだめ、メイフェアは「すみませんね、夫婦共々、教養がないものですから」と謝罪した。
二人で運ぶには重過ぎる、さりとて三人で運ぶにはバランスが悪い、とロッカはもどかしさを感じながら、慎重に階段を降りて外へ運び出す。
このような時に、存分に力を発揮するステラの助力を借りたいところであったが、うっかり階段から転げ落ちでもしたら、大ごとである。さすがにそれは気が引けた。
「とりあえずどこかの壁にでも立て掛けておけばいいんじゃないの」
なんでもいいから、さっさとこの薄気味悪いがらくたをどこかに放置したい、とランベルトは吹き付ける風と戦い、必死の形相であった。
「これ、持って帰るなんて無理だろ。せめて額縁くらい外そうよ」
「駄目。下手なことをしたら、絵を傷つける」
不満そうにため息をついた途端、ランベルトが突然何かにつまずき、巻き添えを食ったメイフェアが「あー!」と大声を上げながら地面に転がるのを、ロッカは呆然と見下ろしていた。
土ぼこりをあげ、大きな絵が落下する。
青ざめているロッカの顔が、今までに見たことないくらい恐い、とランベルトは息を飲んだ。
夫の度重なる不祥事に、もはや罵倒する気にもならず、メイフェアは絶望感に襲われる。
一度ならず二度までも、と腹立ち紛れにスカートの埃を払い、メイフェアは自分のこめかみが痙攣するのを感じながら立ち上がった。
「わざとじゃないんだ、足元が見えづらくて、仕方がなかったんだよ!」
絵はどうなった、と慌てて這い上がるランベルトが、防御の体制を取りつつ、徐々にロッカから遠ざかっていく。
「ロッカ様?」
メイフェアとランベルトは互いの手を取り合い、微動だにしないロッカを、固唾を飲んで見守っている。
「絵具が、剥がれた」
「なんだ、それくらいなら上からちょっと重ねて塗ればいいだろ、お前そういうの得意じゃないの」
割れた絵具を取り払い、さらにひび割れた部分に手を触れるロッカを、二人は怯えた表情で見つめている。
「何かおかしいと思っていたのです。顔だけが、他と違うんですよ。…ほら、下に元の絵らしきものが」
「それが、何か」
引きつった顔でメイフェアがうす笑いを浮かべてみせる。
「元の絵は、全く違うもののようです。全部取り除ければいいのですが…」
再び黙り込んで絵を覗き込むロッカに、いつまでこうしてるんだろう、とランベルト達は吹き付ける風の冷たさにただ震えていた。
***
それにしても、あの龍の絵はいったい何なのか、と考えながら、引き続き年代ものの壷やら衣装箱を次々と運び出し、ロッカは時折「うーん」とうめいていた。
通りがかりのアルマンドにいきさつを話すと、アルマンドは即座にぴんときたのか「それはもったいないわ。買い手はいくらでもいるんだから、是非陛下にかけ合わなくちゃ」と勇み足で執務室へと飛んでいった。
アルマンドは、あまり乗り気でなかったエドアルドを矢継ぎ早に言いくるめ、何もかもがどうでもよくなっていたエドアルドは「じゃあよろしく」と言って会話を打ち切った。
空き部屋に移された数々の「お宝」を眺め回し、アルマンドは天にも昇る心地である。
既にアルマンドの頭の中では、高値で買い取りそうな貴族達の名前が幾人も羅列されていた。
「欲しいものがあったら、勝手に持っていっていいって陛下がおっしゃってたんだけど…」
フィオナを連れて、メイフェアが再びやってきた。
あら懐かしい、と呟くフィオナは以前より血色もよく、落ち着いているように見えた。
「羽ペンだわ。贅沢品ね、不思議な色」
孔雀の羽のようなものを手に取り、フィオナが「あなたに、どうかしら?」と手伝いに借り出されているエミーリオに声をかけた。
「俺、何もいらない。気持ち悪いもん」
「あんた、さっきからそればっかりね」
若夫婦の会話を聞きつつ、瑠璃が動物の置物を手のひらに乗せるとその重みを確かめながら「文鎮に丁度よさそう…」と呟いている。
ロッカが一人、黙々と目録のようなものを作っている。
「確かに、不吉なものもありますよね、むやみに手を出さないほうが、身の為かもしれません」
それを覗き込み、瑠璃は時折「これと、これは駄目」と助言し、ロッカは無言で幾つかの印を付けた。
メイフェアは半信半疑で、二人の様子を見守っていた。
「私にはまるで理解不能なお話ですけど、瑠璃様はもしかして、普通の人間には見えないものが見えたりするとか、そういう人なの?」
俺も見た、と言うランベルトを無視して、メイフェアが慎重に尋ねる。
「あまり好ましい特技ではありません。気味悪いと思う方も、たくさんいらっしゃいますから、なるべく言わないようにしていますけど」
寂しげに微笑む瑠璃の頭を、クライシュがそっと撫でる。
「この妙な絵は、何でしょう。半龍半人の絵とは珍しいですね」
龍の絵の前でかがみ込み、クライシュが興味深そうに言った。
「そういえば異国の物語で、そのようなお話があったような気がするわ。カタリナが延々と説明してくれたから覚えているの」
隣にやってきたフィオナの顔が、絵を見るなり一瞬強張る。
「美しい乙女の力で、龍から人間に戻る王子の話ですよね」
瑠璃が会話に加わり、フィオナが「いかにもカタリナが好きそうなお話でしょう」とうなずいている。
剥がれかけた絵具がぱらぱらとこぼれ落ち、血相を変えたロッカがすぐさまクライシュのところへ飛んでくる。
「やめて下さい、自分には修復は無理です」
「ですけど、気になるんですよ。かさぶたを剥がしたくなる時って、あるでしょう。中途半端にくっついているから、つい」
かさぶたと価値ある絵画を同等にしないでほしい、とロッカはクライシュを不安そうに見た。
絵が傷つく、と悲鳴をあげるロッカを面白そうに眺め、「大丈夫ですよ」とクライシュがひび割れた塊を指先でつついている。
「下の絵は、どんなふうになっているんでしょうねえ。白っぽい何かが見えるじゃありませんか。まるで雲というか…天使の羽のような、綺麗な色ですね。これ、全部剥がしてみましょうよ」
嬉しそうにロッカを見上げ、クライシュが声を弾ませる。
無理です、いじらないで下さい、とロッカは頑なに拒否している。
「仕掛けかしら。物語のように、龍から人間に戻る…」
フィオナの言葉を受けて、ロッカは相変わらず「うーん」と唸っている。
「羽、ねえ。そういえば、ビアンカがさかんに羽だの翼だのって、こ汚い本を読みながらぶつぶつ言ってたけど」
香炉のような小さな焼き物を手に取り、アルマンドがひっくり返したり、中を覗き込んだりしながらぽつりと言った。
「今、何と」
絵から顔を上げたロッカ達の鋭い視線が、アルマンドに集中する。
「だからビアンカよ。もう帰ってきたの?」
「何故あなたが…ビアンカ様はどちらに」
「なんでって、今朝あの子を城下まで送ったのは私よ。人に会うって、言ってたわ。まさか、誰も知らないの」
「書き置きを残して、行方不明です。いまだに捜索中ではありますが」
メイフェアの手から、異国のものと思われる杯がぽろりとこぼれ落ち、ランベルトがそれを割れる寸前でどうにか受け止めた。
「おかしいとは思ったんだけど…一人だったし」
突然アルマンドが頭を抱えてわめき始めた。
「どうしよう、知らなかったのよ!なんで家出するのよ!」
すがりつくアルマンドを振り払い、ランベルトが「なんで止めなかったんだよ!」と肩で息をしている。
ロッカが転げるように部屋を飛び出していくのを、人々は呆気にとられて見つめていた。
よろめくフィオナを支え、その辺に置いてあった木箱に座らせると、メイフェアはがたがたと震え始めた。
大丈夫?と心配そうに尋ねるランベルトに、メイフェアは何度もうなずきながら掴みかかった。
「なんでもっと早く言わないのよ!もう夕方じゃないのよ!」
「言ってなかったっけ…?」
「聞いてないわよ!」
少し静かにしてください、と顔面蒼白のフィオナがメイフェア達を叱責する。
どうしましょう、どうしましょう、と半狂乱になるアルマンドを無視して、クライシュが重々しく言った。
「あらかた、彼女の行き先のめどはついているようです。とはいえ、今日中に連れ帰るのは無理な距離のようにも思えますが…どうするんでしょう」
「俺の兄貴に早馬出せばいいだろ。…って、もうヴィンス様が手配してると思うけど」
やがて、おぼつかない足取りで戻ってきたロッカに、再び人々の視線が集まる。
長身のロッカは、出入口を塞ぐようにぼんやりと突っ立ったままであった。
「ヴィンスが、いません」
やっとのことで声を振り絞るロッカの手から封書を強引に奪い、ランベルトが一枚の紙を取り出した。
輪になって手紙を覗き込む人々の後ろで、ロッカがよろよろと耐えかねたように膝をつく。
「どうして自分を置いて…後任が決まるまで代理って、無理に決まってます」
***
人目を避けて回り道を繰り返し、数日かけてようやく聖都にたどり着いたビアンカの目の前に、町全体が城砦のように入り組んだ景色があった。
「もう少しです。といっても、町の中は更に複雑ですから、まだまだ先ですけれど」
同行者の男がビアンカを励ますように、柔らかい声で言った。
「あの鐘楼が、アーラ・オブリヴィアです。元は、古い聖堂だったものが増築され、今に至るようですね」
指差された町一番に背の高い建物を見上げ、ビアンカは軽くうなずいた。
「引き返すなら、今のうちですよ。あなたの身の安全を保障できるのも、ここまでです。あなたがここにいることを知るものは、国王軍にもいないはずです。今のあなたは、味方から攻撃される可能性もあるのですから」
「今更、私の心配をしてくださるのですか。私を聖都におびき寄せたのは、他ならぬあなたでは」
ビアンカの皮肉めいた物言いも、ここ数日行動を共にするうち、すっかり慣れた。
男はもはや気にとめる様子もなく、「お互いの利害の一致、と言った方がより事実に近いのではありませんか」と面白そうに言い返す。
「行ってから、決めます。ですから私を、砦まで案内してください」
「もちろん。あなたは、ついでですから。私にもやることがあります」
この男を信用して、聖都まで来てしまったが、はたしてその選択が正しかったのかどうか、ビアンカにはいまだわからずにいた。
導かれるままに、人がかろうじて通れるような細い小道をいくつも抜け、運河で小舟に乗り換える。
迷宮さながらの町の中、それをひたすら繰り返しながら、ビアンカは徐々に近づいてくる鐘楼を見据えていた。
「不思議な町でしょう。入り組んだ運河に囲まれ、外敵を排除するにはもってこいの地形です。おかげで、国王軍も苦戦しているようですね」
「同じ港町でも、スロとは違います」
小さいながらも穏やかで、開放的なスロの町並みを思い浮かべ、ビアンカは固い口調で言った。
「このようなご時勢でなければ、この町もきっと、美しさを褒め称える人々で溢れていたでしょうに。残念ながら今では、時折人が浮かんでいる場面にも遭遇しますから、その時は見ないようにしてください。私の胸をお貸ししてもよろしいのですが」
水面を反射する光が男の空色の瞳を、宝石のように際立たせている。
「結構です」
思わず身震いしながらも、ビアンカは男を突き放すように言い切った。
「静かですね。人はもう、兵士以外町にはいないのでしょうか」
穏やかに波打つ水路を見渡し、ビアンカは独り言のように言った。
「まだ残っている人達もいると思います。来る途中、聖都から逃げてきた人々をたくさん見かけましたが…彼らはどこへ行くのでしょう」
黙りこんだまま水面を見つめるビアンカを一瞥すると、男は続けた。
「数年前までは、聖都もごく普通の港町でした。住んでいる人々全てがオルド教徒だったわけでもありませんし、復興の為に移住してきた者も大勢いました。それがまた、昔に逆戻りとは、悲しいですね」
「それは…あなた方にも責任があるのではありませんか。オルド教徒を扇動した事実を棚にあげて、他人事のようにおっしゃらないでください」
「意外と、はっきりものを申される方だったんですね。最初の印象とは、ずいぶん違う」
男は低い声で笑い、ビアンカの背中を見つめていた。
広場に横付けされた小舟を降り、ビアンカは目の前にそびえ立つ鐘楼を、もう一度見上げた。
「私と一緒なら、怪しまれずに中に入れますから、ご心配なく」
ビアンカにそっと耳打ちし、男がさっさと歩き出した。
フードを目深にかぶり、顔を伏せたまま男の後ろを歩くビアンカに、不信感を抱く者は幸いいないようであった。
男は顔見知りの者達と軽く言葉をかわし、奥へ奥へと突き進んでいく。
古びた砦の中は、思いのほか雑然としているようであった。
幾つかの部屋の前を通り過ぎ、開いた扉の奥には、怪我を負った兵士達が横たわる姿も見えた。
「こちらにいらっしゃるようです。私は、ここで待っています」
「ありがとうございます。あなたには、感謝してもし足りないほどです」
初めてビアンカから裏表のない、心からの礼を言われたような気がして、男は優しく微笑み返した。
「お礼は後ほど。早く、邪魔が入らぬうちに」
ビアンカは、にっこりと微笑むギヨーム・フォーレ子爵に深く頭を下げ、意を決して古ぼけた扉に手をかける。
扉をそっと押し、中にすべり込むビアンカの目に映るのは、幾人かの女性と共に、せわしなく部屋の中を行ったり来たりする一人の女性の後ろ姿であった。
顔は見えなかったが、春の小鹿を思わせるような軽やかな身のこなしは、数年経った今でも変わらない。
何も変わっていないのに、全てが変わってしまった。
「ビアンカはどこです。そろそろ薬の時間なのだけど」
女性の凜とした声に、ビアンカは溢れ出そうになる涙を必死で押しとどめる。
はやる鼓動を抑え、その女性がなにげなく振り返ると同時に、ビアンカは静かに口を開いた。
「ええ、私ならここにいます。お母様」