118の話~最後の語り部~
鍵がない。
確かに昨夜、テーブルの上に置いたはずの地下通路の鍵が、どこにも見当たらない。
何より、ビアンカの姿が見当たらないのは何故なのか。
いつもであれば、「夜明けです」と優しく起こしてくれるはずのビアンカが、今日は隣にいない。
早朝の礼拝の最中なのか、とビアンカが戻ってくるのを待っていたが、それにしてもいつもと様子が違うような気がする。
こうなったら、正面から堂々と出るしかないのか、しかしそれも不自然すぎる。
ヴィンチェンツォは悶々としながら、「早く戻ってきて」と乱れた頭を軽く抱えていた。
「おはよう、ビアンカ」
アデルの澄んだ声が扉越しに聞こえる。
「いつもより遅いけど、どこか具合でも悪いの?」
人生初の危機とも呼べるその状況に、ヴィンチェンツォの顔から一気に血の気が引いていった。
部屋の鍵は内側からしかかからない。
時既に遅しであった。
どこかに隠れなければ、と慌てふためいているヴィンチェンツォをよそに、扉が無情にもきしんだ音を立ててゆっくりと開く。
二人の視線が互いに交差し、ややあってからアデルが「おはようございます」と挨拶する。
「…おはよう」
ぼんやりとしているアデルの横をすり抜け、外套を小脇に抱え、何食わぬ顔をして立ち去っていくヴィンチェンツォであった。
ぼさぼさに乱れた髪に手をやり、足早に階段を降りてゆくヴィンチェンツォの後姿を、アデルは首をかしげながらしばらくの間見つめていた。
やがて、はっとしたように目を見開くと、階下に向かい、喉も裂けよとばかりに大声で叫んだ。
「ロメオ!侵入者よ!捕まえなさい!」
アデルの叫び声を聞きつけたロメオや瑠璃に行く手を阻まれ、あっさりとお縄になる宰相閣下の姿を、遅れてやってきたステラが、穴の開くほど凝視していた。
苛立ったように肩に担いだ箒を下ろし、ロメオが笑わない顔で言った。
「なんか様子がおかしいとは思ってたけど、いつからこうやって泥棒みたいに入り込んでたのさ」
ヴィンチェンツォは無言を貫くべきかどうかためらっていたが、アデルの「答えなさい」という殺意さえ感じられる語調から、早々に自身の置かれた立場は圧倒的に不利である、と判断した。
「最近…」
歯切れの悪いヴィンチェンツォの答えに、アデルがぴしゃりと言い返した。
「それじゃわからないわ。具体的に。何回ほどこちらにいらしてたのかしら」
「それほどでも…。二回くらいかと」
動揺を隠し、流すような口調で言うヴィンチェンツォに、ロメオが「本当にー?」と疑惑の眼差しを向けていた。
「男性は、浮気の回数を実際より少なめに答える傾向にあります。それと大差ない言い訳のように聞こえますけど」
槍を片手に瑠璃がばっさりと切り捨て、「察するに、その三倍以上ですね」と付け加えた。
アデル達にぐるりと取り囲まれ、逃げ場を失うヴィンチェンツォの姿は、じわじわと集団で追い詰められた獲物さながらであった。
自分としたことが、うかつだった。
それもこれも、鍵さえ見つかれば、誰にも知られずに地下から抜け出すことができたものを。
俺を破滅させる気か、とヴィンチェンツォは昨夜の無邪気なビアンカの笑顔を苦々しく思い浮かべる。
「私はあなたを咎めているわけではありません。ただ、こそこそされるのが嫌なのよ。おわかり?」
椅子に座ってうなだれるヴィンチェンツォを見下ろし、アデルがじろりと睨み付けた。
「俺もだ」
「僕に言わせれば、職権乱用なんだけど。夜這いする為に鍵を預けてるわけじゃないんだけど」
それはお前も一緒だ、とヴィンチェンツォは思ったが、この気まずい雰囲気の中で言い返す勇気はなかった。
地下通路の鍵は、エドアルドに瑠璃、そして予備としてヴィンチェンツォが保管していた。
「エディも何だってこんな奴に鍵を持たせたりしたんだろう?危険だってわかってたろうにねえ」
「試されていたのかもしれぬな」
ステラがぼそりと呟き、その言葉には一切の同情を含んでいなかった。
「どうするの、報告するの」
「報告するってどこへよ」
「ヴィンスの上っていったら、エディしかいないもんなあ」
両手を胸の前で縛り上げられた宰相閣下が、重く圧し掛かる言葉の数々に、大きな背中を丸めていた。
誰かこの縄を解いてくれないだろうか、とヴィンチェンツォは疲れた顔を上げてみるものの、それぞれに気難しい顔をして考え込んでいる。
「そんなことをしたら、巡りめぐって、私達の仕事が増えてしまうではないか。ただでさえ、人手が足りぬとロッカが騎士団とは無関係の仕事を回してくるというのに」
ステラは目下のところ、二人の関係以前に、自分達の身を守りたい一心である。
「礼拝堂を預かる身としては、それは差し控えていただけるとありがたいのですが。これ以上宰相閣下が問題を起こすようであれば、上訴いたしますけれど、今回は見逃してあげていただけませんか」
この場の実権を握っているのは、どうやら瑠璃のようであった。
渋々うなずくロメオをちらりと眺め、アデルは「余計なこと言うんじゃないわよ」と釘を刺す。
瑠璃の言い方に、何か腑に落ちないものを感じつつも、ヴィンチェンツォは少々の反省を込めて「心遣い、感謝する」と言った。
「偉そうに何言ってんだよ。お前、自分の置かれてる立場わかってるの」
今日はやたらとロメオが突っかかるな、とヴィンチェンツォは面倒くさそうにロメオを見た。
「もう少し分別のある人間かと思ったけど」
「それはどういう意味だ」
「自分の気まぐれで突き放したり束縛したり、お前の頭の中がわかんないって言ってるんだよ。一本筋を通すなら、最後まで通せよ」
「ロメオ、やめて」
今度は隣のアデルに対して、ロメオは激しい口調になる。
「なんでだよ。こいつに振り回され続けて、ビアンカだって苦しいんだ。我を通すのも結構だけど、あの子だけにはそれは、僕は許せない。あの子は、普通の子じゃないんだ。それをやっと、あの子が自分で納得したばかりなのに」
ロメオの瞳も口調もいつになく、ヴィンチェンツォに負けず劣らずの鋭い刃のようであった。
ヴィンチェンツォは、自分を批判し続けるロメオの言葉を、さえぎることなく静かに聞いていた。
「女の子達は、お前らのことを大歓迎みたいに祝福したとしても、僕は認めない。ビアンカは、みんなのものだ」
アデルは諦めたように自分も椅子に座り、厳しい口調のロメオから視線を逸らす。
「本人不在であれこれと詮索したところで、ビアンカの気持ちなどわかりませんよ。もちろん、私も個人的に宰相閣下には申し上げたいことは山ほどございますけど」
瑠璃が静かに口を開き、誰にともなく言う。
「それより、ビアンカは何処だ」
ようやく解かれた縄を乱暴に投げ捨て、ヴィンチェンツォは苛立ったように言う。
さりげなく話をすり替えている気がする、とロメオはじっとりとした視線をヴィンチェンツォに送り続ける。
「お前のせいじゃないの。『巫女である私がこんなことをしてはいけないわ』って良心の呵責に耐えかねて、とうとう逃げ出したとか。女の子は繊細なんだよ。お前が後先考えずにがっつくからこんなことに…あの子真面目だから…」
「その件でございますが、皆様に残念なお知らせがあります。婚礼の衣装の隣に、巫女様のお手紙がございました」
瑠璃から素早く手紙を奪い取り、ステラが震える声で読み上げる。
その手も、声に負けず劣らず震えていた。
『何も告げず、旅立つ私をお許し下さい。これが最後の旅になると私は信じております』
長い文面を目で追い、最後の文章を読み上げると、弱々しい初春の朝日を呆然と見上げ、ステラは軽い目眩を覚えた。
「何故このような時に」
ステラの手紙を握り締める手が、わなわなと震えていた。
「私は、絶対に嫌だぞ。正教会で式を挙げるくらいなら、やらない方がましだ!ビアンカ様だからこそお願いしていたのに…絶対にあいつらだけには、頭を下げたくない!」
何があったの、と問うロメオに、アデルは「いろいろと摩擦があるのよ。ステラが全部処理してくれてるのよ」と不機嫌そうに言う。
「皆様おはようございます。ビアンカ様はどちらに」
突然の新たな声の主に、先ほどとはがらりと変わった緊張感がその場に走る。
朝から礼拝堂とは珍しい、とロッカは寝起きそのままの頭をした宰相閣下に、純粋な労わりの眼差しを向ける。
「最近、ヴィンスがあまり帰ってこないとエミーリオが心配していました。お気持ちはわかりますが、働きすぎは体に毒です」
働きすぎね、寝る間も惜しんで何をしてるのやら、と呟くロメオは、アデルに足を思い切り踏みつけられ、声にならない声をあげて飛び回っていた。
ロッカが手にしている籠の中から、一気にその場の緊張感を突き崩すような「にゃー」という鳴き声が聞こえた。
「おかげさまで、すっかり元気になりまして。多少足を引きずるような歩き方をしますが、是非ビアンカ様に…」
「申し訳ないけど、猫どころじゃないのよ。ビアンカがいなくなったのよ。どこかですれ違ったり、見かけたりしなかった?」
アデルの強張った顔に、ロッカの表情も徐々に固いものへと変わってゆく。
「いいえ、全然」
殺気立っているステラから手紙を突き付けられ、ヴィンチェンツォはぼんやりとしたまま受け取った。
「何も、聞いてらっしゃらないの」
気遣うようなアデルの声が、遠くで響いている。
ヴィンチェンツォは何も見ていなかった。
睨むような表情を崩さないロメオも、心配そうに自分を見つめる瑠璃達の視線も、一切が視界に届いていないかのように、何もその瞳には映していなかった。
「わからない」
今までに聞いたこともないような頼りない声でようやく答えると、ヴィンチェンツォはただ手紙を握り締めていた。
「変わったご様子など、ありませんでしたか」
問いかける瑠璃に無言で首を振り続けながら、ヴィンチェンツォはふわふわとした足取りで出口に向かう。
とても元気だった。そう、今思えば不自然なほど、昨晩の彼女はどこまでも饒舌であった。
***
「そうか」
ビアンカが一人で消えたと聞かされたエドアルドの反応は、ヴィンチェンツォの予想に反して、どこまでも落ち着き払ったものだった。
おそらく巫女は既に城外であろうとの見解であったが、ランベルト達が総動員で、王宮内や城下をくまなく探し続けていた。
礼拝堂のもう一つの出口である果樹園の扉は、鍵が開けられたままになっていた。
「一応、ヴィンスを気遣ってたんだ。はめられたんじゃなくて、よかったね」
それを見たロメオが、何故か残念そうにため息をついていた。
「彼女と何を話したのです」
「特にこれといった話でもない。先々代の話など、ね。それがきっかけになるとも思えないのだが」
他人事のように言うエドアルドが、ヴィンチェンツォにとっては今や遠い存在に思える。
扉の外から来客を告げる声があり、一同はいぶかしげな視線を一点に向ける。
ファビオ・デオダードとその孫娘が姿を見せると、エドアルドは長年の付き合いである年長者に向け、溢れる敬意を示していた。
「陛下に、少しお話したいことがございましてな。私があの時、ビアンカに話していたら、また状況は違っただろうか。…いや、変わらないな、それでもあの子は、聖都に向かっただろう」
驚くヴィンチェンツォに、エドアルドはどこまでも無関心なふりをして言った。
「行き先など、言わずとも察しがつくだろう。聖都以外、彼女がどこへ行くというのか」
孫娘に体を支えられながらも、かつての宮廷庭師は現王の前で、毅然とした態度を崩さずにいた。
エドアルドに椅子を勧められ、ファビオはゆっくりと椅子にその身を沈めた。
「マエストロの隠し事は、これで最後でしょうか。あなたからお話が聞けるのも今日が最後かと思うと、洗いざらいお話いただけると助かるのですが」
ヴィンチェンツォの容赦ない口ぶりに苦笑しながら、ファビオが重い口を開いた。
「暴君に悩まされて巫女が逃亡したというのも、また違うのだ。そもそも、巫女がプレイシアに派遣された理由も、あらかじめ王のふところに潜り込ませ、油断した王の首を取るというのが、当時の大主教の狙いだった」
美人局のようなものですか、とロッカがぼそりと口にする。
「その頃の巫女様のお年はビアンカよりも若く、大主教の思惑も、ましてや王の心など知る由もなく、言われるがままに王都に出向き、言われるがままに後宮に入った。王が巫女を閉じ込めたというのは表向き、実際は大主教の計画を察知した王が監視していたという方が正しい」
「最初にマエストロからうかがった二人の経緯とは、天と地ほどに違いますね」
ヴィンチェンツォの恨みがましい視線をよそに、ファビオは続けた。
「王の気性が荒かったのは紛れもない事実ではあるが、賢いお方だった。今思えば、人を疑うことの知らない若い巫女様は、双方に利用され、気付いた時にはその重さに耐え切れなかったのだろうな」
「それでも、最終的に巫女を逃がしたのはあなたでしょう。それについて、何か弁明があればお聞かせください」
目を閉じて数十年も前の出来事に思いをはせる老庭師に向かい、ロッカが静かに問いかける。
「騙されたふりをしろとおっしゃったのは、先々代だ。むろん、巫女様に同情する気持ちがなかったとは言えない。私も、王と巫女の狭間に立たされ、どちらを尊重すべきかわからなくなった。…親切な庭師のふりをして、実際は巫女様の監視を仰せつかっていた。ただこの王宮で、彼女に親身になるようなものは、それほど多くはなかった。所詮彼女は、異端であったから。ただ、彼女が姿を消してから風向きは変わり、いつしか王を貶めるような風潮に変わっていった。それでも王は何も否定せず、ご自分で全てを受け止めておられた。その後の展開は皆がよく存じておるように、オルド戦役へと発展していった」
ヴィンチェンツォは何も言わず、一直線に出口を目指す。
エドアルドは、その後ろ姿に声をかけるべきかどうか迷っていたが、そのままヴィンチェンツォを見送り、再び椅子に座りなおした。
「おそらく、ビアンカも何かに気付いているのかもしれない。この騒動の黒幕が、他ならぬ先々代の妃であった、オルドの巫女なのではないか、と」
足早に回廊を歩くヴィンチェンツォの隣で、ロッカが歩調を合わせながら眉をひそめる。
「といいますと、オルド戦役の件でしょうか」
「闇に葬り去られた巫女だ。だが王宮を出た後、オルドの巫女が裏で糸を引いていた可能性は、大いにある」
まさか、と呟くロッカを置いて、ヴィンチェンツォはひたすら回廊を突き進んでいく。
「どうするおつもりですか」
追いすがるロッカを振り返ったものの、ヴィンチェンツォは無言だった。
何か言いかけたロッカを、エドアルドの秘書官が呼びとめ、ロッカは再び王の執務室へと戻っていく。
最愛の友人の涼しげな後姿に、ヴィンチェンツォはさよなら、と呟く。
すまなかった。
最後まで自分は、自分のことしか考えていなかった。
彼女が滅びの道を選ぶのであれば、自分は最後まで、それに従おう。
それが君にできる、唯一の贖罪であるのなら。
俺も、これで最後だ。
ささやかな望みであるが、許されるのであれば、愛しいあの人と一緒に、再び住みなれたこの地に戻れることを祈るばかりではあるが。
眩しい赤毛の友人が、徐々に遠ざかっていく。
ヴィンチェンツォはその姿を目に焼き付けるかのように、いつまでもその後ろ姿を見送っていた。
旅支度など、あってないも同然であった。
ヴィンチェンツォは執務室で手早く辞表を書き、机の周りを片付け終えると厩へと向かう。
今の自分の選択が、正しくないのはわかっている。
エドアルドは、自分一人がいなくても大丈夫だと言っていた。
今の自分も、それと同じ投げやりな気持ちなのだろうか。
ビアンカと同じような栗毛の馬の背を撫で付けるヴィンチェンツォに、鋭い声が投げかけられた。
「一人で何処に行くの」
アデルとロメオが、離れた所から自分を見つめている。
一方は柔らかく微笑み、もう一方は半分怒ったような顔をしている。
「何だ、まだ嫌味を言い足りないのか」
「そうですわね、先ほどからあれこれと未練がましく、うっとおしいったら、ないわ。聞きわけのない父親のつもりかしら」
「僕はおまけだよ。うるさいのは、アデルの方だろ。おとなしくビアンカが帰ってくるのを待ってればいいのにさ」
ロメオを無視し、顎をつんと上げて宣言するアデルは、誇り高き騎士のようであった。
「私は、あの子の護衛ですから」
そうか、といつものように呟き、にやりと笑いながらヴィンチェンツォが馬に鞭を入れる。
その後に従う馬二頭が勢いよく城門から飛び出していくのを、門番の兵士が不思議そうに見送った。