9の話~偶然~
素直に喜怒哀楽を表現するランベルトに比べて、ロッカの表情は、内務省の役人達から鉄仮面と恐れられているヴィンチェンツォよりも、更に乏しかった。口にこそしなかったが、ヴィンチェンツォにも、ロッカの心の中は読みとりづらい。薄い煉瓦色の髪は真っ直ぐだが、不揃いに肩の上で切られていた。
「そうですか」と一言つぶやくと、無言でビアンカを見つめた。その視線は、ヴィンチェンツォから投げつけられた、強烈な感情のこもったものとも違う。悪意は感じられなかったが、妙な居心地の悪さは禁じえない。
ビアンカに不審な点は何もないはずだが、へたに興味を持たれても困る、と落ち着きを取り戻したメイフェアは、この二人の男をさっさと追い返すことにした。
「では、ごきげんよう…」とにっこり微笑むと、二人に背中を向け、メイフェアは再び脱水を始める。ロッカに向かって頭を下げると、ビアンカがメイフェアの隣で手伝い始めた。
ロッカは二人の後姿を一瞥すると、もと来た方向に歩き出した。慌ててランベルトがロッカを追いかけてゆく。
男達がいなくなるのを確認する為にメイフェアはなにげないふりをして、顔をあげる。振り返ったランベルトと、彼女の目が合った。子供のような屈託のない笑顔を残して、蜂蜜色の髪の若者は立ち去った。
手を止めて、ビアンカがメイフェアに尋ねた。
「昨日の人達よね…偶然、なのかしら」その先は続けなかったが、自分が疑われているような気がしてならなかった。本当に、たまたま通り過ぎただけなのだろうか。後ろめたい事があると、どうしても悪い方に物事を考えがちになってしまう。心配性のビアンカを励ますように、メイフェアがつとめて明るい声で言った。
「どうかしらね。まあ、ここ二、三日でいきなりあなたも知り合いが増えたものね…」
増えすぎだ、とビアンカは思った。彼女の立場的にこれ以上、不必要に人と関わりあいたくなかった。
「それで、あの方達はバーリ様の部下なのかしら?」
「うーん、私もよくわからないのよ。バーリ様がまず、陛下の補佐官と宰相閣下の秘書を兼任してるらしいわ。…あの二人は、少なくとも近衛とか騎士団の方達ではないようだけど」
今度聞いてみる、と気軽にメイフェアは言うが、あまりメイフェアにも、バーリ周辺の人間と関わって欲しくなかった。が、自ら敵の懐に飛び込んでいくのが、自分の身を守る一番の方法なのだと、メイフェアは不安がるビアンカに力説した。
「特に、あの犬みたいな人は使えそうだわ。仲良くしておいて、情報源にするのよ。あっちだって、私たちと仲良くしたそうだったじゃない?」
あの蜂蜜色の青年のことだろうか…
犬はいいが、その飼い主は危険だ、とビアンカは思った。
一方、ヴィンチェンツォの執務室に戻ると、犬と呼ばれたランベルトは、早速ヴィンチェンツォに、庭での一件を話した。
「昨日のイザベラ様の侍女に会いました。面白い人でした。ご主人と違って、話しやすそうだったし」
書類に向かって顔を伏せたまま、興味なさそうにヴィンチェンツォが「そうか」とだけ言う。ランベルトの、どうでもいい話はいつもの事であったが、これが結構、役に立つ事も多かった。だが全ての話を、ヴィンチェンツォが把握しているわけではない。
「もう一人の女は見かけない顔ですね。…下働きの者にしては、妙な感じがしましたが」
ロッカは、ヴィンチェンツォの真横に立つと、上司の反応を待った。
ようやくヴィンチェンツォは顔を上げ、ロッカの顔を仰ぎ見た。
ロッカの観察眼に引っかかるものがあったということか。ヴィンチェンツォは軽く頷くと、再び顔を伏せたまま言った。
「その侍女達について、詳細をくれ。急ぎでなくてよい。後で目を通す」
了解いたしましたと静かに答え、ロッカは、ヴィンチェンツォから少し離れた所にある自分の机に座り、仕事に取り掛かることにした。