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漂う白花  作者: 渡部ひのり
第五部
119/136

116の話~全てを~

「急においでになるなんて、驚きます。ご自分が何をなさっているのか、おわかりですか」

 ビアンカは手紙を折りたたむと、そっと机の引き出しに戻した。

「ここに来るのは、初めてだったな」

 ビアンカの問いに答えることなく、ヴィンチェンツォはぽつりと言った。


「元気だったか」

「何か、御用ですか」

 自分を見つめるヴィンチェンツォの瞳が、いつもの鋭さとはどことなく違うように見える。

 少々反応の鈍いヴィンチェンツォを、ビアンカは緊張しながら静かに見つめていた。

 酔ってらっしゃるの、とビアンカが尋ねると「少し」とヴィンチェンツォは答えた。

「お話がおありでしたら、後日お聞きします。お帰りください」

 うつむいたヴィンチェンツォの髪から、再び雫がこぼれ落ちた。


「以前もこうしてお酔いになって、私のところへおいでになったことがございました。覚えてらっしゃるでしょうか」

 ビアンカの詰問するような厳しい口調に、思わずヴィンチェンツォは自虐的な笑みを浮かべた。

「忘れるわけがない。おかげで、酷い目にあった」

「では、そうなる前に、お戻りになってください。お願いです」


「前も、そうだった。あの時は、カタリナ様と結婚しろと言われて、ものすごく落ち込んでしまった。俺には、気になる人がいたから、その話が辛すぎて、暴走してしまった」

 ヴィンチェンツォの言葉の語尾に重なるように、ビアンカの固い声が飛ぶ。

「お帰りください」

 冷ややかなビアンカの態度が、ヴィンチェンツォには全く目に入っていないかのようだった。


「今日は、陛下と先ほどまで強い酒を飲んでいて、気が付いたらこちらに来てしまった。…ビアンカの顔が、見たくなった」

 胸の奥が一瞬、ぞくりとするほどに高鳴るのを感じ、ビアンカは息を飲む。

 どうしてまた、私を期待させるようなことをおっしゃるのだろう。

 やっと心に区切りがついたばかりなのに、何故また揺さぶるような真似をするのかと、ビアンカは怒りが込み上げてくるのを押さえられずにいた。

 これ以上、混乱させられるのは耐えがたかった。


 かといって、雨で冷え切った外套に包まれたままのヴィンチェンツォを、そのまま帰すのもためらわれた。

 ビアンカは濡れた外套を受け取り、暖炉のそばで乾かすことにした。

 温かいものをお持ちしましょう、と階下に降りようとするビアンカの手を取り、ヴィンチェンツォが軽く首を振った。 


「陛下と、言い合いになってしまった。誰が悪いとかではなく、自然に」

 弱音を吐きに、来たのではないのに。

 何故彼女に、こんな話をしているのだろう。

 わざわざ雨の夜更けに、自分は何をしに来たのだろう。


「俺達が情けないから、陛下にあんなことを言わせた。長年そばで支えたフィオナ様が、報われない」

 ビアンカは何も言わず、ヴィンチェンツォの途切れ途切れになる言葉に耳を傾けていた。


「陛下は、退位したいとおっしゃっていた。だから、跡継ぎがいてはいけないと。そんなふうに思っていたなんて、悲しすぎる。周りが、俺が支えきれなかったせいだ」

 ビアンカは、フィオナとの会話を思い出していた。

 もういいの、と儚げに微笑むフィオナの姿が、目に焼きついたままだった。


 子供の頃から、みんな一緒だったと聞いていた。

 長年仕えてきたヴィンチェンツォ達を、突如谷底に突き落とすような宣告であったのだろう、と胸が痛む。

 短い付き合いの自分ですら衝撃を受け、悲しんでいるのだから、ヴィンチェンツォの耐え難い苦痛は、有り余るものがある、とビアンカは思った。

 だからといって、ヴィンチェンツォが傷つく必要など、ない。


「そんなことはありません。閣下は、ヴィンチェンツォ様は、ご立派です。いつでも前を向いて、私達を導いてくださいます」

 先ほどの怒りが嘘のように立ち消え、ビアンカはひたすら穏やかな声をかける。


 ずっと一緒にいたのに、何も気付かなかった。どうしてもっと早くに、エドアルドの心の内を知ることができなかったのか。

 お気に入りの自分達を取り立ててくれたと、思い上がっていた。

 何も知らず、自分は誰よりも王に信頼されている、期待されているといい気になっていた。


「馬鹿だな。俺達のせいで、あんなふうに思わせていたんだ。一緒に歩いていこうと、思ってもらえなかった」

 ヴィンチェンツォの声に、笑いが含まれていたのは気のせいだろうか。 

「あなたは、何も悪くありません」


「二人を助けたいのに、何も出来ない」

 激しく首を振るヴィンチェンツォに、ビアンカは気休めとは思いながらも、一生懸命語りかけた。

「そんなことはありません。少なくとも、私を助けてくださいました。命を懸けて、あなたは私を守ってくださいました」


 自分に、優しい言葉をかける必要などないのに、どこまでもビアンカは優しかった。

 気が付けば、彼女の優しさに甘えている。

 今日だけじゃない。今までも、ずっと。

「こんな話をして、すまない」

 いいえ、とビアンカはゆっくりと首を振った。



「どうしていつも、こうなってしまうのだろう」

 うつむくヴィンチェンツォの口からこぼれた言葉が、雨の音でかき消される。

 手に入れたいと思えば、どこか遠くへ消え去り、やっと捕まえたと思ったら、またいなくなってしまう。

 最後の機会を自らはねのけ、そしてまた彼女を失うのだろうか。


「今でもまだ、あなたは私を待っていてくれるのだろうか。俺が望めば、自分のものになってくれるのか」

 目の奥が熱い、とビアンカは何度も目をしばたたかせ、顔を見せないヴィンチェンツォを見つめていた。

 ビアンカにとって、一番聞きたくなくて、けれど何よりも望んだ言葉であった。

 どうしていつも、こうなってしまうのだろう。

 言葉ひとつで、いつもすれ違ってばかりだ。


「わかりません。あなたがそうやって、私の心を乱すから、どうしていいのかわかりません。引き寄せたかと思えば、突き放したり、自分の心がどこに行けばいいのか、わからない」

 ビアンカの悲しげな声が、雨の音と共に消えていった。 


「すまない」

 ヴィンチェンツォが固く組んだ指先が、ほんの少し震えているような気がした。

「でも、会いに来てくださって、嬉しいです」

 やっとの思いで言い終えたビアンカは、ただ微笑むことしかできなかった。 


「弱い俺を、許してくれ」

 ビアンカに、腹立ち紛れに突き放す言葉をぶつけて、ヴィンチェンツォは後悔していた。

 一人で立ち上がることもままならない体で、彼女を守るとは到底言えなかった。

 格好つけただけの自分に苛立ち、その苛立ちをビアンカにぶつけただけだったのに。

 

 守らなければいけないものが、多すぎた。

 彼女の好意に甘えてそばにいて欲しいなど、口にしてはいけなかったのだ。

 あの時の自分は。

 けれど理屈では片付けられない気持ちが徐々に増幅し、抑えきれず、今夜再びビアンカを苦しめているのだ。


 ビアンカに触れることは、自分の身の破滅に等しかった。

 彼女は今の自分達に必要な存在で、誰かのものであってはならなかった。

 けれど己の役目も省みず、ようやく応えてくれた彼女の思いも頑なに、はねつけるしかできずにいた。

 ビアンカは、誰のものでもない。

 それが嫌と言うほど身にしみて理解しているはずなのに、どうして自分はまた、彼女に会いにきてしまったのだろう。

 今日ほど自分が、愚かであったと思う日はない。


「弱くなど、ありません」

 弱いのは私の方、とビアンカは嗚咽するヴィンチェンツォの濡れた髪を撫で、濡れて張り付く髪をそっとかきわけた。

 両手を頬に添え、ヴィンチェンツォの充血した瞳を覗き込む。

 ヴィンチェンツォ様が私におっしゃったことは、紛れもない事実で、私はいつも、自分の都合のいい様に逃げ回るだけだったのだから。

 少しでも自分が傷つかないように、いつも自分自身に言い訳ばかりだった。


 ヴィンチェンツォの震える手が、雨に打たれて凍えていた。

 その手の震えを押さえ込むかのように、ビアンカが両手で優しく包み込む。

 全部、暖めてあげるから、だから泣かないで。


 二人の唇が触れ合ったのは、ほぼ同時だった。

 幾度ともなく繰り返される口づけに応えながら、ビアンカは両手をヴィンチェンツォの首に巻きつけた。

 ビアンカを抱え、寝台に倒れこむヴィンチェンツォの濡れた髪が、ビアンカの頬に落ちてくる。

 濡れた服を脱ぎ捨て、ヴィンチェンツォが自分を見下ろしていた。

 再びビアンカの唇を貪るように、ヴィンチェンツォが深く長い口付けを繰り返す。


 首筋を這う熱い感触に、思わず小さな叫び声をあげるビアンカを煽るかのように、その唇が激しさを増す。 

 自分を抱く手が、冷たくて、でもその奥から伝わってくる熱が、徐々に自分を狂わせてゆく。

 ビアンカの肌に触れる指先や唇が、呼吸も忘れるほどに甘美だった。

 全てを奪い去るかのように、ヴィンチェンツォが自分を求めてくれている。

 今夜だけは、自分はヴィンチェンツォのものであり、彼は自分のものであった。


「もっと、声を聞かせて」

「でも」

 必死で込み上げてくるものを押さえているビアンカの姿は、どこまでも煽情的だった。 

「雨が全部、消してくれる」

 顔を上げたヴィンチェンツォの瞳が、暗闇で妖しく光っていた。

 

 二人は、何もかも覆いつくすような激しい雨音に身を委ねていた。

 背中の痛みが、自分に罰を与えるかのように、時折身を切り裂くように疼いた。

 その疼きと戦いながらヴィンチェンツォは、それでもいいから、俺に全部くれ、と思わずにはいられなかった。




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