116の話~全てを~
「急においでになるなんて、驚きます。ご自分が何をなさっているのか、おわかりですか」
ビアンカは手紙を折りたたむと、そっと机の引き出しに戻した。
「ここに来るのは、初めてだったな」
ビアンカの問いに答えることなく、ヴィンチェンツォはぽつりと言った。
「元気だったか」
「何か、御用ですか」
自分を見つめるヴィンチェンツォの瞳が、いつもの鋭さとはどことなく違うように見える。
少々反応の鈍いヴィンチェンツォを、ビアンカは緊張しながら静かに見つめていた。
酔ってらっしゃるの、とビアンカが尋ねると「少し」とヴィンチェンツォは答えた。
「お話がおありでしたら、後日お聞きします。お帰りください」
うつむいたヴィンチェンツォの髪から、再び雫がこぼれ落ちた。
「以前もこうしてお酔いになって、私のところへおいでになったことがございました。覚えてらっしゃるでしょうか」
ビアンカの詰問するような厳しい口調に、思わずヴィンチェンツォは自虐的な笑みを浮かべた。
「忘れるわけがない。おかげで、酷い目にあった」
「では、そうなる前に、お戻りになってください。お願いです」
「前も、そうだった。あの時は、カタリナ様と結婚しろと言われて、ものすごく落ち込んでしまった。俺には、気になる人がいたから、その話が辛すぎて、暴走してしまった」
ヴィンチェンツォの言葉の語尾に重なるように、ビアンカの固い声が飛ぶ。
「お帰りください」
冷ややかなビアンカの態度が、ヴィンチェンツォには全く目に入っていないかのようだった。
「今日は、陛下と先ほどまで強い酒を飲んでいて、気が付いたらこちらに来てしまった。…ビアンカの顔が、見たくなった」
胸の奥が一瞬、ぞくりとするほどに高鳴るのを感じ、ビアンカは息を飲む。
どうしてまた、私を期待させるようなことをおっしゃるのだろう。
やっと心に区切りがついたばかりなのに、何故また揺さぶるような真似をするのかと、ビアンカは怒りが込み上げてくるのを押さえられずにいた。
これ以上、混乱させられるのは耐えがたかった。
かといって、雨で冷え切った外套に包まれたままのヴィンチェンツォを、そのまま帰すのもためらわれた。
ビアンカは濡れた外套を受け取り、暖炉のそばで乾かすことにした。
温かいものをお持ちしましょう、と階下に降りようとするビアンカの手を取り、ヴィンチェンツォが軽く首を振った。
「陛下と、言い合いになってしまった。誰が悪いとかではなく、自然に」
弱音を吐きに、来たのではないのに。
何故彼女に、こんな話をしているのだろう。
わざわざ雨の夜更けに、自分は何をしに来たのだろう。
「俺達が情けないから、陛下にあんなことを言わせた。長年そばで支えたフィオナ様が、報われない」
ビアンカは何も言わず、ヴィンチェンツォの途切れ途切れになる言葉に耳を傾けていた。
「陛下は、退位したいとおっしゃっていた。だから、跡継ぎがいてはいけないと。そんなふうに思っていたなんて、悲しすぎる。周りが、俺が支えきれなかったせいだ」
ビアンカは、フィオナとの会話を思い出していた。
もういいの、と儚げに微笑むフィオナの姿が、目に焼きついたままだった。
子供の頃から、みんな一緒だったと聞いていた。
長年仕えてきたヴィンチェンツォ達を、突如谷底に突き落とすような宣告であったのだろう、と胸が痛む。
短い付き合いの自分ですら衝撃を受け、悲しんでいるのだから、ヴィンチェンツォの耐え難い苦痛は、有り余るものがある、とビアンカは思った。
だからといって、ヴィンチェンツォが傷つく必要など、ない。
「そんなことはありません。閣下は、ヴィンチェンツォ様は、ご立派です。いつでも前を向いて、私達を導いてくださいます」
先ほどの怒りが嘘のように立ち消え、ビアンカはひたすら穏やかな声をかける。
ずっと一緒にいたのに、何も気付かなかった。どうしてもっと早くに、エドアルドの心の内を知ることができなかったのか。
お気に入りの自分達を取り立ててくれたと、思い上がっていた。
何も知らず、自分は誰よりも王に信頼されている、期待されているといい気になっていた。
「馬鹿だな。俺達のせいで、あんなふうに思わせていたんだ。一緒に歩いていこうと、思ってもらえなかった」
ヴィンチェンツォの声に、笑いが含まれていたのは気のせいだろうか。
「あなたは、何も悪くありません」
「二人を助けたいのに、何も出来ない」
激しく首を振るヴィンチェンツォに、ビアンカは気休めとは思いながらも、一生懸命語りかけた。
「そんなことはありません。少なくとも、私を助けてくださいました。命を懸けて、あなたは私を守ってくださいました」
自分に、優しい言葉をかける必要などないのに、どこまでもビアンカは優しかった。
気が付けば、彼女の優しさに甘えている。
今日だけじゃない。今までも、ずっと。
「こんな話をして、すまない」
いいえ、とビアンカはゆっくりと首を振った。
「どうしていつも、こうなってしまうのだろう」
うつむくヴィンチェンツォの口からこぼれた言葉が、雨の音でかき消される。
手に入れたいと思えば、どこか遠くへ消え去り、やっと捕まえたと思ったら、またいなくなってしまう。
最後の機会を自らはねのけ、そしてまた彼女を失うのだろうか。
「今でもまだ、あなたは私を待っていてくれるのだろうか。俺が望めば、自分のものになってくれるのか」
目の奥が熱い、とビアンカは何度も目をしばたたかせ、顔を見せないヴィンチェンツォを見つめていた。
ビアンカにとって、一番聞きたくなくて、けれど何よりも望んだ言葉であった。
どうしていつも、こうなってしまうのだろう。
言葉ひとつで、いつもすれ違ってばかりだ。
「わかりません。あなたがそうやって、私の心を乱すから、どうしていいのかわかりません。引き寄せたかと思えば、突き放したり、自分の心がどこに行けばいいのか、わからない」
ビアンカの悲しげな声が、雨の音と共に消えていった。
「すまない」
ヴィンチェンツォが固く組んだ指先が、ほんの少し震えているような気がした。
「でも、会いに来てくださって、嬉しいです」
やっとの思いで言い終えたビアンカは、ただ微笑むことしかできなかった。
「弱い俺を、許してくれ」
ビアンカに、腹立ち紛れに突き放す言葉をぶつけて、ヴィンチェンツォは後悔していた。
一人で立ち上がることもままならない体で、彼女を守るとは到底言えなかった。
格好つけただけの自分に苛立ち、その苛立ちをビアンカにぶつけただけだったのに。
守らなければいけないものが、多すぎた。
彼女の好意に甘えてそばにいて欲しいなど、口にしてはいけなかったのだ。
あの時の自分は。
けれど理屈では片付けられない気持ちが徐々に増幅し、抑えきれず、今夜再びビアンカを苦しめているのだ。
ビアンカに触れることは、自分の身の破滅に等しかった。
彼女は今の自分達に必要な存在で、誰かのものであってはならなかった。
けれど己の役目も省みず、ようやく応えてくれた彼女の思いも頑なに、はねつけるしかできずにいた。
ビアンカは、誰のものでもない。
それが嫌と言うほど身にしみて理解しているはずなのに、どうして自分はまた、彼女に会いにきてしまったのだろう。
今日ほど自分が、愚かであったと思う日はない。
「弱くなど、ありません」
弱いのは私の方、とビアンカは嗚咽するヴィンチェンツォの濡れた髪を撫で、濡れて張り付く髪をそっとかきわけた。
両手を頬に添え、ヴィンチェンツォの充血した瞳を覗き込む。
ヴィンチェンツォ様が私におっしゃったことは、紛れもない事実で、私はいつも、自分の都合のいい様に逃げ回るだけだったのだから。
少しでも自分が傷つかないように、いつも自分自身に言い訳ばかりだった。
ヴィンチェンツォの震える手が、雨に打たれて凍えていた。
その手の震えを押さえ込むかのように、ビアンカが両手で優しく包み込む。
全部、暖めてあげるから、だから泣かないで。
二人の唇が触れ合ったのは、ほぼ同時だった。
幾度ともなく繰り返される口づけに応えながら、ビアンカは両手をヴィンチェンツォの首に巻きつけた。
ビアンカを抱え、寝台に倒れこむヴィンチェンツォの濡れた髪が、ビアンカの頬に落ちてくる。
濡れた服を脱ぎ捨て、ヴィンチェンツォが自分を見下ろしていた。
再びビアンカの唇を貪るように、ヴィンチェンツォが深く長い口付けを繰り返す。
首筋を這う熱い感触に、思わず小さな叫び声をあげるビアンカを煽るかのように、その唇が激しさを増す。
自分を抱く手が、冷たくて、でもその奥から伝わってくる熱が、徐々に自分を狂わせてゆく。
ビアンカの肌に触れる指先や唇が、呼吸も忘れるほどに甘美だった。
全てを奪い去るかのように、ヴィンチェンツォが自分を求めてくれている。
今夜だけは、自分はヴィンチェンツォのものであり、彼は自分のものであった。
「もっと、声を聞かせて」
「でも」
必死で込み上げてくるものを押さえているビアンカの姿は、どこまでも煽情的だった。
「雨が全部、消してくれる」
顔を上げたヴィンチェンツォの瞳が、暗闇で妖しく光っていた。
二人は、何もかも覆いつくすような激しい雨音に身を委ねていた。
背中の痛みが、自分に罰を与えるかのように、時折身を切り裂くように疼いた。
その疼きと戦いながらヴィンチェンツォは、それでもいいから、俺に全部くれ、と思わずにはいられなかった。