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漂う白花  作者: 渡部ひのり
第五部
118/136

115の話~雨音の前奏曲~

 今日もまたいい天気、とビアンカは窓を開け、軽く深呼吸をした。

 丁度窓の下を通りかかった騎士と目が合い、ビアンカはにっこり笑って手を振った。

 騎士は畏まりつつも、笑顔で敬礼する。

 鼻歌を歌いながら、ビアンカは階段を春の小鹿のような軽快さで駆け下りて行った。

 奥の小部屋に用意された小瓶の中身を確かめ、一つずつ丁寧に籠に詰める。


 扉がせわしなく叩かれ、アデルがひょっこりと顔を覗かせた。

「食事、出来てるから食べて。私はもう食べ終わったから、後はやるわ」

 ありがとうございます、とアデルに礼を言い、ビアンカは炊事場に向かう。

 暖めたスープを器に盛りながら、瑠璃が「おはようございます」とにこやかに笑った。


 礼拝所の入り口辺りで、「おはようございます」と声を張り上げるステラがいた。

 その声は、奥の部屋のアデルの耳にもはっきりと届く。

 やっぱり、ビアンカがいるのといないのとでは、みんな張りきり方が違うわねえ、とアデルも自然に笑みをこぼさずにはいられなかった。


 城下の流行病は、あらかた収束したようであった。

 それでもビアンカは、アデル達と一軒ずつ丁寧に回り、話しかけ、自分の姿を日々人の目に焼き付けているかのようだった。

「ご病気だったとうかがっておりましたが」

「もう元気です、こちらこそ、遅くなって申し訳ありませんでした」


 笑顔で、と父は言っていた。

 自分が笑っていなければ、誰も笑ってくれない。

 少なくともそれが今の自分の役目なのだと、ビアンカは笑みを絶やさず、毎日城下を歩いていた。

 何より、人と会うのが、これほど楽しいと感じたことはなかった。

 子どもたちに歌を教える時もあった。

 誰も知らない滅びかけた歌ではなく、これからもどこかで、自分以外の誰かが歌って欲しかった。

 オルドの巫女は、閉ざされた存在であってはならない。

 プレイシアに不幸をもたらすオルド教徒としての印象が拭えれば、何か変わるのではないかと、ビアンカなりに考えた結果だった。


「好きにするといい」

 とエドアルドは一言だけ言い、ビアンカは好きにすることにした。

 人目を避け、自分の素性を隠し、生きた心地のしない日々が、この二年ほどの間に、なんと多かったことかと思う。

 自分を恐れず、次第に語りかけてくる人々が増え、ビアンカは素朴に嬉しかった。

 もっと早くに、気付けばよかった。

 でも、気付くことができてよかった。決して、遅すぎはしない。

  

 これもまた、自由の証。

 自分は籠の鳥ではなく、自由にはばたける翼を与えられたのだと思えばいい、とビアンカは前向きに考えることにした。そうするしかなかった。

 忙しくしていれば、忘れられると思った。


 自分とヴィンチェンツォの人生は、永遠に平行線なのだから。

 同じ方向を向き、どこまでも伸びてゆく、けれど決して交わることのない二本の線がそこにはあるのだと、ビアンカは言い聞かせていた。


 ヴィンチェンツォだけでなく、メイフェアやランベルト達だって、自分と同じ方向を向いているのだと、メイフェアは戻ってきたビアンカに、何故か恥ずかしそうに言っていた。

「気持ち悪いくらい、結局みんな同じこと考えてたりするんだよね。ひねりがないというか、単純というか」とロメオが違う言葉で、励ましてくれた。

 一人じゃないから、大丈夫。

 

 嬉しそうに空を見上げるビアンカに、駆けて来た子どもがぶつかり、「ごめんなさい」と大きな声で詫びる。

 こちらこそ、と思わずうろたえるビアンカの手に、誰からも見えぬよう素早く折りたたんだ紙切れをねじ込むと、子どもはあっという間に走り去っていった。


   

***

 


 その日は朝から雨が降り、ビアンカは外出をやめて、一日王宮で過ごしていた。

 ステラの婚礼衣装は、ほぼ完成しつつあった。

 一つ仕事が終わった、と感傷的になる自分を叱咤し、ビアンカはこれでいつでも大丈夫、と一人呟く。


 そしてフィオナから「もしお暇なら」と招かれ、一緒に夕食をとることにした。

 王宮に戻ってから毎日忙しく、あまりフィオナと話す機会もなかったこともあり、ビアンカは喜んで会いに行くことにした。

 自分が王宮を去った頃に比べ、フィオナのやつれ加減は尋常ではなかった。

 お腹にお子がいるというのに大丈夫だろうか、とビアンカは浮かない顔で料理を口に運ぶ。


「そんなに心配しなくても、私は大丈夫よ。あまり食欲はないけれど、そのうち信じられないほど食べ出すから、ってお医者が言っていたわ」

 ステラは既に二人前をたいらげていたけれど、と昼食の席での彼女の大食漢ぶりを思い出し、ビアンカは曖昧にうなずいていた。 


「これから、どうしたらいいのかしらね」

「と、おっしゃいますと」

「いつまでも私が居座っていると、いろいろ支障をきたすし。後宮を丸ごと、明け渡すつもりなの。私がここにいても、邪魔なだけだわ」


「離宮に行かれるのですか」

「どうしようかしら。それも気乗りしないの。もう、陛下に頼るのも終わりにしないとね。スロに小さな屋敷を見つけて、落ち着くのもいいかと思っているの」

 話が見えない、と困ったような顔をするビアンカに、フィオナは儚げに微笑んだ。


「陛下と、お別れしようと思っているの。ずっと一緒だと思っていたけど、子どもが出来たから、やっぱり駄目みたい」

 フィオナのその言葉は、ビアンカには信じがたいものであった。

 いつも一緒で、理想の二人であったのに、いったい何があったのだろう。


「何故、子どもがいてはいけないのですか」

「陛下が、望んでいらっしゃらないから」

「それでは、次の国王様はどうなるのです」

 一番気がかりであったことを、ビアンカは口にする。

「国王なんて、いらないのよ。…少なくとも、陛下はそう思ってらっしゃるの。随分昔から」


 この方は何をおっしゃっているのだろう、とビアンカは手を止め、フィオナをおずおずと見つめた。

 ビアンカを見つめ返すフィオナの顔には、寂しさと諦めが入り混じっていた。

 確かに、国王でいるというのは、不自由な生活なのだと思う。

 ビアンカも不自由ではあるが、国王である重圧は、自分には到底計り知れなかった。

 陛下は本気でそう思っていらっしゃるのだろうか、とビアンカは想定外の話に、ただただ驚愕するだけであった。


「…だから、子どもは作らなかったの。それなのに、どうしてかしら。どうして今になって、神様はお与えになったのかしら」

 フィオナの悲しげな表情を、ビアンカは何と言っていいのかわからずに、自分もただ黙って見つめていた。


「必要だからです。意味のない子どもなんて、いません」

 それだけ言うとビアンカは何故か乾く喉に、慌ててお茶を流し込んだ。

「申し訳ありません、私、何もわからないのに」

「いいのよ。ありがとう。少し、気が楽になったわ」

 相変わらず儚く微笑むフィオナの顔が、心に痛かった。


 思い出したようにフィオナが言った。

「ピアが、あなたを頼むと手紙をくれたわ。すごく、あなたを心配しているの」

「お姉様には、ご迷惑をおかけしました。そのように気遣っていただくのが、心苦しいです」


「ヴィンスとは、きちんと話をしたの」

 ここにいる限り永久に、ビアンカにヴィンチェンツォの影がまとわりつく。 

 名前を聞くたび、胸が早鐘のように、自分を揺さぶる。


「ヴィンチェンツォ様がお元気になられたのなら、私はもう必要ないのです。少し動揺してしまって、皆様にはご心配をおかけしました。もう大丈夫です、私も、ヴィンチェンツォ様も」

 そう、と呟くフィオナの姿が、どこまでも痛々しかった。

 この方も、この世界の犠牲の一人なのだろうかと思うと、ビアンカはいたたまれなくなる。

 では自分はこの方の為に、何かできることなどあるのだろうか。

 何か一つでも、希望を与えることができればいいのに。

 

 私はいつまでも、守られているだけでは、いけない。

 ビアンカは黙ってお茶を飲みほし、沈黙するフィオナから視線を外した。

 まばたきが、しばらく続いた。

 


***



 窓を叩く雨音に耳を傾けながら、ぼんやりと酒瓶を眺めていたエドアルドは、のっそりと入ってきたヴィンチェンツォにあくびをしながら言った。

「来たのか。もう寝てしまおうかと思っていたのだが」

「すみませんね、毎日忙しいものですから。で、何か御用ですか」

「用はない。ただ飲む相手が欲しかっただけだ」


 まだ傷が痛むのですが、とヴィンチェンツォはぼやきながらも、なみなみと注がれた杯を受け取り、一気に飲み干した。

「これは水のように飲む酒ではないのだが」

「存じませんでした」

 二杯目もほぼ一口で飲み終えたヴィンチェンツォは意外と元気そうで、エドアルドは安心したのか、自分もあっという間に杯を空にする。


「フィオナ様がご懐妊されたそうで。おめでとうございます」

 ああ、と言ったきり、エドアルドはその件について触れようとはしなかった。

「少々揉めたとも、お聞きしております」

「口の軽い奴らばかりだな」

 

 苦い顔を見せるエドアルドを無視して、ヴィンチェンツォは意地悪く言った。

「特に、女性陣の怒りようは凄まじいものだとか」

「メイフェアなど、私を見るとものすごい顔で睨むか、よそよそしい態度をとるんだ。酷いだろう、私を誰だと思っているのか…」

 ため息をつくエドアルドに、同情はできなかった。

「心苦しく感じるのでしたら、きちんと謝罪なさった方が身の為ですよ。女性を敵に回したら厄介です」

 ヴィンチェンツォは真面目な口調になり、もう一杯を半分ほど喉に流し込んだ。


「何を謝れと」

「俺にそこまで言わせないでください」


 あからさまにヴィンチェンツォまでが、自分を睨んでいる。

 エドアルドは平静を装い、自分も負けじともっともらしい口調で言った。

「フィオナの子は、私の子であってはならない。跡継ぎはいらない」

 その言葉に弾かれたようにヴィンチェンツォの瞳が、久しぶりに鋭い刃のごとく煌めいていた。


 こいつは元々、こういう顔をしていたな、とエドアルドはぼんやりとその冷たい眼光をものともせず、一人物思いに耽っていた。

 いつの間にやら、牙が折れた獣のような煮え切らなさが目立ってきていたが、それもビアンカと深く関わるようになってからだろうか。

 唯一、エドアルドにとって計算外だったのは、二人の関係だった。


「それでは何故、フィオナ様をいつまでも引き止めておいたのです。十年以上も、何故」

「俺の我が侭だ。今となっては、申し訳なく思っている」

 ヴィンチェンツォの眼光が怒りをたたえ、ますます鋭くなるのをエドアルドは感じていた。

「カタリナ様を手放したのも、根底にあるのは同じ考えからでしょうか」

「あの子には、新しい人生を歩んで欲しいと思っている。もっと早くに、そうすればよかった」


 ヴィンチェンツォの口調も、その眼差しに負けず劣らず、容赦ないものであった。

「あなたは、お一人になりたがっているように見えます。俺の気のせいですか」

 杯の中に目を落としたまま、エドアルドは何食わぬ顔で言った。

「気のせいじゃない」

「どういうことです」


「玉座を降りる、と言ったら」

 酔いが回っているにしてはあまりにも酷い冗談だと、ヴィンチェンツォは思った。

「何の為にです」

「自分の為にだ。それ以外、何がある」

 絶句しているヴィンチェンツォから目をそらし、エドアルドは再び杯に酒を注ぐ。


「俺達が頼りないから、ですか」

「そうじゃない。もう終わりにしたいだけだ。全てが落ち着いたら、退位しようと思っていた」

 ヴィンチェンツォの語気は、次第に苛烈なものに変わっていく。

「俺達を見捨てるんですか」

「違う。いつかはそうせねばならないと思っていた。その時が、近づいてきているだけ」

 詰め寄る友人とは正反対に、エドアルドの声はどこまでも静寂さをたたえていた。


「このような時に、何をおっしゃっているんです。陛下に、我等を束ねていただかねば、ますます混乱するばかりです。あなたが退位して、誰がこの国を守っていくのですか」 

「お前達がいるだろう。その為に、早いうちから叩き込んでおいたんじゃないか。みんなで、守るんだ」

 はっとしたようにエドアルドを見つめ、ヴィンチェンツォは「知りませんでした」と言い返すのがやっとであった。

 

「あなたはそのうちの一人に、入っていらっしゃらないのですか」

「わからない。だが、そうなったときには、俺がいない方がむしろうまくいくだろう」


「そんなのは、認められません。誰も、納得しません」

「いつかは、俺は必要なくなる。今すぐじゃなくても、やがてその時がくるんだ。俺は、プレイシアの未来は、そうであってほしいと思っている」


「勝手すぎます。俺達がいくらでも支えます。もっと、皆が安心して暮らせるように、そのためなら、何でも」

 ヴィンチェンツォの悲痛な声が、エドアルドの耳に届いているのかもわからなかった。

「お前達は、自分達で解決したじゃないか。壊れた王都を元通りに戻せたのは、一人ひとりの力があったからだ。俺の力じゃない」  

 若き国王は、虚空を見つめたまま、ひたすら酒を口に運んでいた。



***



 夜が更けるにつれ、雨音が激しくなってきたようであった。 

 ビアンカは暖炉の前で、今日も手紙を食い入るように何度も読み返していた。 

 突然ビアンカは、扉のそばに人の気配を感じ、驚いて振り向いた。

 とある人影がゆらりと動くのを目にし、ビアンカは思わず立ち上がる。


 アデルでも瑠璃でもない、長身の男がこちらを見ていた。

 雨に打たれたのか、男の濡れた鴉の羽のような毛先から、時折雫が滴り落ちていた。

「閣下」

 ヴィンチェンツォの体がわずかに揺れる。

 うつむくその端正な顔は、伸びた黒髪が張り付いたままで、表情をうかがうことはできなかった。



  

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