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漂う白花  作者: 渡部ひのり
第五部
117/136

114の話~小さな欲望~

 針を持つ手を止め、ビアンカは顔を上げる。

 外は徐々に、闇の色が濃くなり始めていた。

 そろそろ今日も終わり、と針を置くと同時に扉を叩く音が聞こえ、ビアンカは「どうぞ」と返事をする。

 夕日に照らされたピア・イオランダが、眩しさに目を細めながら入ってきた。


「この調子ですと、もう少しで完成ね」

 ステラの婚礼衣装を手に取り、ピアが何度も「素晴らしいわ」と感嘆していた。

 プレイシアの婚礼衣装は、白地に金糸を基調にした、色とりどりに豪華な刺繍が施されたものが伝統的であった。

 ビアンカはそれに倣い、様々な色合いの糸で刺繍を施し、光り輝く石をふんだんに縫い込んでいた。

 黒髪のステラにさぞかしよく似合うだろうと、ビアンカは日に日に形を見せていくドレスに、喜びを感じていた。


 ビアンカは「恐れ入ります」と言うと、散らかった道具を集め、片付けを始めた。

「今日は父達の帰宅が遅くなるそうよ。私達だけで、食事をしているようにと伝言が」

「そうですか」

 あまり会話もないまま、毎日父親と顔を合わせるのも辛かった。

 意地になって、口を閉ざす自分も悪いとはわかっている。けれど、歩み寄るにはどうしたらいいのか、長い間離れすぎていたせいなのか、父がとても遠い存在に思えてしかたがなかった。


「私の夫も、お父上達と一緒にオルドに戻るそうなの。その準備で、忙しいらしいわ」

「…すみません」

 うつむいているビアンカに驚き、ピアは慌てたように言った。

「あなたが謝る必要はないわ」


 ピアの夫であるミケーレは、義父であるマフェイ・バーリの命を受け、三年前からオルド教徒に成りすまして、地道に内偵を続けていたとビアンカは聞かされた。

 ビアンカの母をおびき寄せる為、ウルバーノに捕らえられていたデメトリの存在を確認し、アイザックやジョナサンと共に、救出する機会をひたすらうかがう日々であった。

 当然、自分の私生活など捨てたも同然の三年である。

 それも全部、自分達親子のせいであるのは否めなかった。


「いいのよ。離れ離れは、慣れているから。長いこと、自分は独り者だと思っていたし。それも全部、父のせいよ。自分の子どもを騙して利用するなんて、本当に酷いわよね」

 思い詰めたような表情のビアンカをそっと見つめ、また余計なことを言ってしまっただろうか、とピアは浮かない顔をしている。


「こちらこそ、ごめんなさいね。あの子の態度も腹立たしいったらないわ。いつかがつんと言ってやらねば」

「いえ、ご迷惑をかけているのは、私ですから」

「そんなこと、ないわ。私、血まみれのヴィンスを見て、正直あの子はもう駄目だと思ったのよ。でもあなたが一生懸命看病してくれたおかげだわ。そろそろ出仕できそうだと言っていたの。本当に、ありがとう。それなのに、急に怒鳴り散らしたり、そうかと思えば無視したり、病人の我が侭ね」


 ヴィンチェンツォが復帰したのなら、自分がここに居続ける理由もなくなる。

 その時、自分はどうしたらいいのか、ビアンカはいまだに答えを見出せずにいた。

 みんな元の生活に戻る。父はオルドへ戻り、ヴィンチェンツォは昔のように、王宮へと戻る。

 では、自分はどうするのか。

 今までのように、礼拝堂で巫女として暮らす。

 少しは冷静に判断できるようになった今でも、その考えが頭をよぎるたび、息苦しさを感じずにはいられなかった。


 みんなと一緒にいるのは楽しかった。

 だが巫女に戻るという選択は、目に見えない鎖であの場所に繋ぎとめられることを意味していた。

 自ら望んで、解けた鎖に再び繋がれたいと思う人間はいない。

 では代わりに自分は何処へ行けばいいのか、ビアンカにはわからなかった。



***



 その夜遅く王宮から帰宅したデメトリが、扉の外で疲れた顔を引き締め直すと、ビアンカの部屋を訪ねてきた。

 以前のような、攻撃的な眼差しは消え去っていたが、娘のよそよそしい態度に変わりはなかった。

 その日々感じていた気まずさも、もうすぐ終わるのだと思うと、全てが愛おしく思えてくる。


「私は、オルドに戻る」

「存じています」


「どこか遠くへ行きたいのであれば、秘書官のアクイラ殿を頼るといい。いつでも、お前を連れ出してくれる」

「何故そのようなことを」

 脈絡のない、思わぬ父の発言に戸惑うビアンカに対し、デメトリは罪悪感を封じ込め、静かに語りかける。

「宰相閣下のご命令だ。お前を気遣って、様子を見ていたのだろう。あのように優秀な方を日陰に追いやるのは、心苦しいどころではない話だが、皆納得している」

 本気でヴィンチェンツォ様は、自分を遠ざけようとなさっているのだろうか、とビアンカは思わず痛む胸を押さえていた。


「そのようなこと、あってはなりません。ロッカ様は、この国に、ヴィンチェンツォ様に必要なお方です」

「私もそう思う」


「厳しいことばかり言ってしまって、すまなかった。本当はお母様も、お前には普通の生活をして欲しいと望んでいた。でもあまりにもお前が頑固なものだから、それすら伝えるのも口惜しくなってしまった」

「お母様が」

 デメトリの声が、いつもより柔らかく聞こえる。

「お前を助けに行くようにと。お前の王都での生活は、我々の耳にも入っていたよ。お前を早く、解放してやりたいと言っていた。だからもう、無理しなくていい」 


「どうして、お母様も一緒に逃げなかったのですか」

「私を逃がすだけで、精一杯だった。それに彼女には、まだやるべきことが残っている」

「もういいではありませんか。何故今になって…」

「そうしなければならないからだ」

 

「お母様を助けてください」

 押し殺した声で呟くビアンカに対し、デメトリはこれ以上はないというほど、事務的に答える。

「できればそうしたいとは思っている」

 曖昧な返答ではあるが、ビアンカはその先の言葉の意味を悟っていた。

「お母様をお捨てになるのですか」


「ソフィアが望んでいるのは、お前が自由でいることだ」

「お母様も一緒でなければ、意味がありません」

「ソフィアがうまくやってくれた。本当に成功するとは思ってもみなかったが、あの砦で篭城にまで持ち込んだのは、ソフィアの入れ知恵だろう。どこまでウルバーノが察しているのかは、わからないが」

 二人は初めて出会った場所に、戻ろうとしている。

 全てをやり直すつもりだろうか。全てを終わらせるつもりだろうか。二十年前に、最後になるはずだった、あの場所で。

 

「まさか、二十年前の再現をなさるのですか」

「どうだろう。軍務省の記録を片端からひっくり返して、大変だった。あの秘書官殿は本当に優秀な方だな。相当助けていただいた。…そうそう、自分は記録の中で、死んでいたけれど」

 くすりと笑うビアンカに、デメトリは少し安堵したように微笑み返す。


 何処にいても、何をしていても、彼女に一番望んでいるのは、そうやって笑顔を絶やさずにいてくれることだった。

 昔はどんなに辛い旅でも、珍しい虫を見つけた、綺麗な花があったと無邪気に喜ぶビアンカの姿しか、デメトリの思い出には残っていなかった。

 それがいつの間に、寡黙な、水に浮かぶ花を思わせるような、大人の女性になってしまったのだろう。

 いつの間に自分以外の男性の名を、口にするようになったのだろう。

 そしていつか誰かと二人、歩いてゆく日がくるのだろうか。

 それを見届けることができたら、どんなによかったか。

 デメトリは黙って娘を引き寄せ、いつまでも抱きしめていた。

 


 水差しに新しい水をたたえ、いつものように、ビアンカが静かにヴィンチェンツォの寝室に足を踏み入れる。

 ビアンカは軽い寝息をたてるヴィンチェンツォを黙って見下ろしていた。

 父の言葉が、胸につかえたままだった。

 本当にそれがヴィンチェンツォ様のお気持ちなのだとしたら、と思うと、ますます道しるべは遠のいていく。

 このままで良いはずはなかった。けれども誰も巻き込まず、傷つけず、自分が自由でいるのは、難しすぎた。  

 枕元の小さなテーブルにそっと水差しを置き、ビアンカは音を立てぬように去っていく。 扉が閉まるわずかな音が聞こえたあと、ヴィンチェンツォは目を開け、暗闇の中で小さくなる足音に、耳を傾けていた。



***



 デメトリは「元気で」と一言残し、実にあっさりと王都を出立していった。

 父を見送った後、ビアンカは久しぶりに外出していた。

 ロッカとエミーリオに連れられ訪れた場所は、城下にある繁華街の裏道であった。

 ひしめくように小さな長屋がずらりと並んでいる。 

「すみませんが、どなたかおいでではありませんか」

 扉がわずかに開き、三人に向かって若い男が眠たげな目を何度かしばたいていた。

「お加減いかがでしょうか」

 最初、男は寝起きらしい顔を何度か撫でていたが、ロッカの後ろに佇んでいるビアンカの姿に、思わず目をみはった。


「あの時は、助けていただいてありがとうございました。あのような場所にまでおいでになるなど、あなたの勇気と慈悲に、感謝してもし尽くせぬほどです」

 驚くビアンカの手を取り、男は何度も礼を言う。

「あの…申し訳ありませんが…」

 困惑するビアンカに向かって、ロッカは自分の唇にひとさし指をあて、何度か首を振った。   


「傷は痛みますか」

 ビアンカは当たり障りのない言葉で、男の様子を探る。

「いえ、大丈夫です。あなたのおかげです。全快しましたら、自分もまたオルドに戻ります。あなたに助けられた命です、無駄にはいたしません」

「どうかご無理のないように」

 ビアンカの自分をいたわる言葉に、再びこみあげてくるものがあったのか、男は黙ってその手を握り締めていた。


「すみません、偽者のふりをさせてしまいました」

 ロッカが足早に、長屋街を抜けていく。

 時折、駆け回る子ども達とぶつかりそうになり、細い通路の端に身を寄せ、ビアンカは落ち着きなく周囲を見回した。

「いえ…あの方のおっしゃるように、本当にオルドに私が、巫女が現れたのですね」

「市街地の戦闘で、意識を失って倒れていた彼を、介抱してくれた女性がいたそうです。あまつさえ、敵に見つからぬように逃がしてくれたとか。別れ間際に、女性は『ビアンカ・フロース』だと。他にも似たような話を数件、聞き及んでおります」

「あの方は、私をその女性だと信じきっておられました」

「そっくりだからですよ」


「信じられないとは思いますが、それが今のイザベラ様のお姿なのかもしれません」

 あの誇り高いイザベラが、自分に成りすましているという事実が、ビアンカには想像できずにいた。

 誰かの為に自分の手足を動かすなど、イザベラの性格からはあまりにもかけ離れた行動だった。

「純粋なお気持ちからではないのは明白です。伯爵が絡んでいると思われます。あなたの代わりに、巫女を演じさせているのでしょう」

「そうでしょうか」

 ビアンカはぽつりと言い、ロッカがゆっくりと振り返った。


「本当にイザベラ様が、誰かの役に立ちたいと思っているのだとしたら、それを責めることはできません。むしろ、感謝せねばならないと思います」

 長屋の影が差し込む場所で、ビアンカを見下ろすロッカの瞳が、いつもよりも深い色合いになったようにみえる。

「今ここにヴィンスがいたら、あなたをきっと『お人好し』だとお怒りになったでしょうね」

 どきり、と高鳴る胸の音が、外に聞こえるのではないかとビアンカは錯覚する。

 普通にしていなければ、とロッカの背中を見つめながら、ビアンカは一人顔を赤らめその後に続く。


 ビアンカは、突然立ち止まるロッカを不思議そうに見上げる。エミーリオは「今日も皆さんおいでだったのですね」と嬉しそうに言った。

 白衣の女性達に向かって、何度も礼を述べる老人がいた。

「また来ます。お大事に」

 瑠璃の涼しげな声が聞こえる。

 籠を両手に抱えたステラを押しとどめ、「半分持つから」とアデルが慌てて籠を奪う。


「奇遇ね」

 ロッカ達に手を振るアデルが、その後ろで泣きそうな顔をしているビアンカを見つけて驚いている。

「ビアンカ。どうしたの、こんなところで」

 何も言わず、ビアンカは瑠璃達を何度も瞬きしながら見つめていた。

「元気そうで、よかったです」

 ビアンカに近づき、瑠璃が冷たくなったビアンカの頬をそっと撫でた。その手も、負けず劣らず冷たく、指先は少し荒れているように感じた。

 

 自分の代わりに今日もまた、城下の人々を見舞っていたのだろう。

 ステラがいつもどおり、背筋をぴんと伸ばし、籠を担いでいる。

「そろそろ行かないと。ビアンカ、またね」

 アデルがにっこりと微笑み、瑠璃をうながした。

 ではまた、とステラは言い、空いている方の手でエミーリオの頭を撫でた。


「ステラ様は大丈夫なんですか。じっとしてないといけないのでは」

 ロッカを見上げ、エミーリオが不安を口にする。

「彼女は、体の鍛え方が違う。逆にじっとしていると具合が悪くなってくると言っていた」

 徐々に遠ざかっていく三人の後姿を見送るビアンカは、涙が溢れ出そうになるのを、必死に我慢していた。


 自分を責めるわけでもなく、ただ笑って、別れていった。

 ごめんなさい。ありがとう。

 それすらも言葉にする勇気はなく、ビアンカは三人が角を曲がって消えていくのを見つめていた。


 公爵邸に到着すると、エミーリオはすぐさまヴィンチェンツォの寝室へと向かって行った。

 エミーリオは詰所の片付けや様々な用事に追われ、ヴィンチェンツォに会うのは久しぶりであった。

 お茶をもらい、ロッカは久しぶりに「何もしていない」状態で窓の外を眺めている。

 

「今日はありがとうございました」

 ロッカに向かい、深々と頭を下げるビアンカである。

「かえって、心のご負担にならなければよいのですが」

「いいえ、お忙しいのに、快く引き受けてくださってありがとうございます」

「自分も気分転換になりました。倉庫に篭って、探し物をする毎日でしたから」

 気休めではなく、本当であった。

 今日あたり、一度家に帰ろう、とロッカはぼんやりと思う。


 しばしの沈黙に包まれ、ビアンカは手にした器に目を落としたままであった。

 あまりの静けさに、ロッカは自分が一瞬寝ていたのではないかと思った。

 突然、ビアンカがゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。


「ロッカ様は、もし私が、王都を出たいと言ったら、願いをかなえてくださるのですか」

 自分を見つめるビアンカの表情は、どこまでも固かった。

「ご存知でしたか」

 こくりとうなずくビアンカに、ロッカは淡々と答える。

「もちろん、あなたがそうお望みでしたら、どこまでもついて行きます。ヴィンスの思惑とは無関係に」


 ロッカは息を飲むビアンカの反応を、どう捉えてよいのかわからなかった。

 ただ悲しいことに、ビアンカが自分に何かを望んでいるようには思えなかった。

 彼女が切なげな表情をしているのは、自分ではなく、ヴィンチェンツォのせいなのだと改めて思わずにはいられなかった。

 

「でもあなたの答えは、既にあるはずです。何故今日、自らあの男に会いに行ったのです。それが答えではありませんか」

 そう言いながら、自分は今、ものすごく変な顔をしているのではないかと、ロッカはそれだけが気がかりであった。



***



 その夜もまた、ビアンカは水差しを交換する為、深夜ヴィンチェンツォの寝室を訪れる。

 傷もさほど痛まなくなったのか、今日のヴィンチェンツォは仰向けに寝ていた。

 水差しを置き、見下ろすビアンカの視界には、ヴィンチェンツォの安らかな寝顔が、月明りにうっすらと浮かんでいた。


 気が付けばビアンカは自分の身をかがめ、見えない力に吸い寄せられるように、ヴィンチェンツォの唇に自身の唇を重ねていた。

 そしてはっとしたように月を振り返り、起こしてはいけない、とビアンカは夢から覚めたように立ち上がり、息を殺して扉に向かう。  


 ビアンカの足音が、いつもより乱れているような気がする。

 ヴィンチェンツォは暗闇の中で、うめくように独り言を言わずにはいられなかった。

「勘弁してくれ。限界だ」     




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