112の話~見えない道先~
「フィオナ様、お気を確かに」
メイフェアがフィオナに駆け寄り、取り乱しながらも助け起こす。
フィオナはややあってから、かろうじて目をうっすらと開いたものの、再びその場に座り込んでしまった。
騒ぎを聞きつけてやってきた女官長達をおろおろと見渡しながら、エドアルドは所在なさげに妻を見守っていたが、結局は「邪魔です」とメイフェアに突き飛ばされるはめになる。
「お疲れが溜まっていらっしゃるのだと思います。しばらくは体を休めるのがよろしいかと」
老医師のしかめ面に、エドアルドは黙ってうなずくしかなかった。
「私が出ていくことに、フィオナ様は反対なのでしょうか」
ぐずぐずと泣きべそをかくカタリナの頭をそっと撫で、エドアルドは「少し、疲れているのだろう。落ち着いたら、ゆっくり皆で話し合おう」と言った。
せっかく行けると思ったのに、となおも廊下で人目をはばからず、泣き続けるカタリナである。
確かに、このところ苦労のかけどおしであったのは否めない。
明日見舞いの品を両手に持参して、ゆっくり懐柔するしかあるまい、とエドアルドはほんの少し反省の念をその端正な顔に浮かべ、自室へと戻っていくのであった。
***
「急ぎ離宮へ行かずともよい。数日何もかも忘れて、のんびりしたらどうだ。…昨日のカタリナの件は、すまなかった。それほどまでに、驚くとは思っていなかったのだ」
エドアルドはそう言って、優しくフィオナの額にキスをしたが、フィオナは魂が抜けたようにぼんやりとしていた。
「そうですね、お医者様も当分安静にしているようにとおっしゃってましたから」
「どこか悪いのか」
寝台の上で黙り込むフィオナを、エドアルドは険しい表情で見つめていた。
いえ、と血の気の引いた顔で呟くと、フィオナは「気分が悪いので、休みます」と寝具を引き寄せた。
「後で、カタリナを呼んでください。私も話がしたいので」
やっとのことで言い終えると、フィオナはぐったりと羽根枕に自分の身を沈めた。
「あなたがそれほどまでに具合が悪いのは、そうそうあることではない。大丈夫なのか」
眉根をひそめているエドアルドに、フィオナはためらいながらも、はにかんだように微笑んだ。
「病気ではありませんから、大丈夫です。ちょっと、子どもが出来ただけです」
そうか、とエドアルドは心の底から安堵したように言い、しばらくしてから後ろで畏まっているメイフェアを恐る恐る振り返った。
「だそうです。おめでとうございます」
深々と頭を下げるメイフェアから再びフィオナに視線を移し、エドアルドは言葉も無く呆然と見下ろしている。
「それは本当なのか」
「そのようです。詳しくは知りませんが」
長い沈黙に覆われた部屋の空気が重い、とメイフェアの胸に、徐々に不安が広がってゆく。
エドアルドが喜びのあまり挙動不審になっているのは理解できるが、フィオナの返答も、歯切れが悪すぎるのはどうしてだろう、とメイフェアは首を傾げて二人を観察していた。
「それは、私の子なのだろうか」
エドアルドの発したそれは、聞こえるか聞こえないかの弱々しいものではあったが、その場にいたフィオナはもちろんのこと、メイフェアの耳にさえ、はっきりと聞き取れた。
フィオナは否定も肯定もせず、エドアルドをじっと見上げ続けていた。
何かの聞き間違いでは、とメイフェアは息を飲み、青ざめたフィオナの横顔を凝視している。
「それがあなたの答えですか」
どこまでも静かではあったが、フィオナの言葉に、隠しようもない怒りが浮かんでいる。
「いや、念のため聞いたというか、驚いてしまって」
気まずそうな顔を見せ、エドアルドが慌てふためく姿が、思考停止寸前のメイフェアの目に映る。
「お帰りください」
「フィオナ、悪かった、だから」
狼狽しきったエドアルドをひと睨みし、フィオナは血の滲むほどに、唇をぎゅっとかみ締めていた。
「いいから出ていって!」
フィオナの悲痛な声が、メイフェアの胸に突き刺さる。
あのようなお声を出されるなど、私がお仕えしてから、おそらく初めてのことだろう、とメイフェアは寝具にくるまるフィオナを、涙目で見つめていた。
***
苛立ちを隠しきれず、メイフェアが鍋のふちを何度もひしゃくで乱暴に叩く音が時折響く。
「全く、酷いとしか言いようがありません。『自分の子か』とおっしゃるなど、動揺しているにもほどがあります!」
そうだね、酷いね、とランベルトはとりなすように言うが、メイフェアはその言葉を遮るかのように、再び鍋のふちをガンガンと力任せに叩いている。
言ってはいけない一言がある。
気が動転していたにしろ、それを思わず口走ってしまったエドアルドに否がある、といつも妻に言ってはいけない言葉を飲み込むことの多いランベルトは、敢えて彼を擁護するつもりはなかった。
憤るメイフェアに向かって、鍋が倒れます、と瑠璃が一人、落ち着いた口調で言った。
「こうも早く、実験結果が出るとは思ってもおりませんでした。やはり大きな都だと、効果が絶大なのかしら」
沈み込むメイフェア達に目もくれず、手放しで喜ぶ瑠璃を不思議そうに眺め、ロメオが「実験て何」と尋ねる。
「結界を作り直した時に、少し細工をしておいたのです。子宝に効果があるという護符をあちこちに埋めておきました。私の国では、神殿参りの土産物として重宝されているのです。結果が出たのは、王都が壊される前で何よりでした」
「そんなもの、気のせいじゃないのかな」
「気のせいではありません。私達の苦労が報われて、これ以上の喜びはありませんわ、ねえ、ロッカ」
同意を求めるように瑠璃が、自分に協力してひと月も地下に篭り続けてくれたロッカに向き直る。
「自分も気のせいだとは思いますが。やっつけ仕事のわりには、効き目があったのでしょうか」
「それが今じゃ、ことごとく不幸で溢れかえってるけど」
ロメオの感想は、瑠璃の喜びに水を差すような一言であったが、瑠璃は一向に気にとめる様子もない。
「そこが問題です。もう一度作り直すにも、根本的に計画を練り直さないとならないようです。詰所は壊れたままですし…あそこに何かを建てるという余裕もありませんものね」
「ていうか、エディが全然喜んでないのに、勝手に護符なんか埋めたってばれたら、ますます面倒だよね」
「何故です。お世継ぎができて、陛下も嬉しいのでは」
「そんなこと、僕に聞かれても」
「まさか本当に、仮面夫婦だったとか。実はあの王子様がエディの恋人だったりして」
「そんなわけないだろ。そうだったら、とっくに俺らの誰かが喰われてるはずだけど」
馬鹿馬鹿しい、とロメオの仮定を一蹴し、ランベルトがひらひらと手を振った。
「それはありえませんわ!お二人の仲睦まじさは、偽りではありません」
メイフェアが食いつくように、ロメオに向かって異を唱える。
それなのに、自分の子かなどと…と相変わらずメイフェアは恨みがましい目つきで鍋を睨んでいる。
「だいたいお付きの私共が、フィオナ様の身辺には常々注意を払っておりますのに、まるでどこかの男を手引きしたような発言は、私達に対する侮辱です!」
そろそろ話を切り上げた方がいいかもしれない、と怒りまくるメイフェアに怯え、ロメオがロッカをちらりと見た。
「あっちの二人はどうしてるの。まだ絶賛喧嘩中なのかな」
「喧嘩というより、もはや会話も無いようです。ヴィンスはともかく、ビアンカ様はそれでも甲斐甲斐しくお世話なさっているのが、おいたわしい」
「めんどくさい奴らだな。さっさとビアンカ連れて夜逃げしちゃえよ。自分が言いだしたんだから、後で気が変わっても、それはヴィンスが悪いんだし」
「そうは言っても、自分も忙しくて、正直駆け落ちどころでは。やはりお互いに納得して、できれば周りから祝福されるような関係を自分は望んでおりまして」
「そういう問題じゃないだろ。何も結婚しろって言ってるわけじゃないんだよ」
生真面目に答えるロッカを、ロメオは呆れたように見つめた。
本音半分、言い訳半分である。
この混乱した状況のまま、自分が王宮を去って、どうなるものかという思いも強い。
だがそれ以上に、ビアンカとろくろく話し合いもせずに、いきなり一緒に逃げましょうなどと口にしても、彼女が納得するはずもない。
自分は今まで、自分の気持ちを、彼女にはっきりと伝えたわけでもない。
それを告げずに、いくらヴィンチェンツォの希望であるとはいえ、ビアンカに無理強いをしたのでは、きっと後悔するに決まっている。
何より自分が恐れているのは、全てをさらけだして、受け入れてもらえなかった場合である。
誰かを好きになる気持ちなど、正直どうでもよかったし、自分とは遠いところに存在する感情なのだと思っていた。
つい最近までは。
何もかもが駄目だった時、自分はどうなってしまうのだろう。
それが、恐かった。
暇をみて、公爵邸に家内安全の護符でも納めに参りましょうか、と瑠璃が真剣に言い、ロメオは投げやりに「そうしてやって」と言い捨てた。
「休憩中申し訳ないが、陛下にはご報告済みなのか」
今日も城下でのおつとめから戻ってきたステラ達である。
その鋭い声に冷や汗をかきつつ、ロメオがしまった、と顔色を変える。
「次から次にいろんなことが起こるから、今日もすっかり忘れてたよ」
「ですね。自分も、さすがに今日は驚いてしまって」
もごもごと言い訳をするロッカ達を眺め、まだまだ序の口だ、と憮然とした表情になるステラであった。
「まだ何かあるんですか」
メイフェアが不機嫌そうに椅子から足を投げ出し、ランベルトがその肩を揉んでいる。
フードの下から形の良い唇を覗かせ、ステラはややあってから低い声をもらす。
「確認中だが、よくない知らせかもしれぬ。オルドに巫女が現れたとか。私達のように町を回り、癒しを施しておられるそうだ。巫女の一人は『ビアンカ・フロース』と名乗ったらしい。オルドから帰還した傷病兵が数人、その姿を目撃している」
「だって、ビアンカは公爵邸でしょう」
どういうこと、と混乱しているメイフェアを見つめ、ステラは静かに言った。
「偽者に決まっているだろう。思い当たる人物といえば、おそらくイザベラ様なのではないかと」
「うまいことオルドまで逃げたんだねえ。どこまでもたくましい子だよね」
ロメオが、感心しきった声でしみじみと言う。
「今度は自分が、かつての替え玉本人に成りすましている、ということかしらね」
アデルが冷えた両手をかまどで燃える火にかざし、独り言のように言った。
「そうとしか考えられぬな。あの混乱の中、逃亡に成功されたようだ」
「ビアンカがあれだけそっくりに化けられたんだもん、逆もまた、然りということかなあ」
ロメオの言葉に、一同は黙ってうなずいていた。
「でもそれって、まずいんじゃないの。ビアンカがオルドにいるなんて噂が広まったら、大変なことになるんじゃ」
メイフェアの肩を揉む手を止め、ランベルトがしごく真面目な意見を言った。
「既に噂は出始めている。私達も初めは、にわかに信じがたかったが、数日町へ出て、その声が大きくなりつつあると実感しているのだ」
「駆け落ちどころじゃないね」
「だからそう言っています。今ここで、ビアンカ様が本格的に行方不明になれば、国王の権威も地に落ちる一歩手前ですから」
腕組みをするロッカをちらりと眺め、ロメオは「だからお前は駄目なんだよ」とため息をつく。
「運悪く、正教会の奴らと城下ではちあわせてしまってな。ビアンカ様はどうなされているのかと聞かれた。奴らは相変わらず、巫女の存在を煙たく思っている。いつまでも体調不良、外出不可で済まされるものではないしな」
うーん、と異口同音に唸り声を上げる面々である。
「なおさら、ビアンカ様には何としてでもお戻りいただかねばならない。とはいえ、それを告げるのも気が乗らないのだ。誰かが言わねばならぬのだが、閣下にお任せすると、火に油を注ぐことに成りかねないし」
ステラの意見は正論ではあるが、だからといって、代わりに実行するには誰しもがためらっている状態であった。
黙り込んで下を向く人々を一周して見回した後、ステラは諦めたように舌打ちする。
「陛下に指示を仰いでから、ビアンカ様を訪ねるとしよう。私も個人的に頼みたいこともあるし」
いつもすまないね、とランベルトがねぎらいの声をかける。
「私達の婚礼の儀を、ビアンカ様にお願いしたいのだ。団長も、こんな時で申し訳ないとおっしゃっているが、おじい様もさっさとしろとけしかけてくるものだし、先延ばしにも出来ないのだ」
ああそう、とロメオがあくびをしながら言った。
「暗い話ばっかりじゃなくて、おめでたい話も必要だよね。よかったね、おめでとう」
「随分急転化ね。もっと後になるのかと思っていたけど」
アデルは苦笑いをしつつ、おめでとう、とステラに祝福の言葉を述べる。
「何しろ、子どもができてしまったので急がねばならないらしい。私は別に急がずともよいのだが、団長がそれは駄目だと申される」
妙な沈黙の後、顔を見合わせている人々の前で、ステラは一瞬照れたような表情を見せた。
恐る恐る片手を挙げ、ロメオが全員を代表して聞き返す。
「今何て?聞き間違いかな?」
誰一人聞き間違いのない簡潔な言葉が、部屋中に満ちていった。
「妊娠した」
言葉を失う人々を満面の笑みで眺め、瑠璃は一言「効果絶大ですから」と言った。
「僕、今日は心底疲れた。目まぐるしくて、ついていけない」
寝台の上でごろごろと転がるロメオを無視して、アデルが薄暗い明かりの下で、ひたすら何か書きものをしている。
「まだ起きてるの」
ロメオは枕の下から、くぐもった声をもらした。
「忙しいのよ。それより、なんであんたがここにいるの。詰所に帰りなさいよ。目と鼻の先なんだし。仮眠室があるでしょう」
「人でいっぱいなんだよ。寝る場所なんかないし」
「そういうの、困るのよ。けじめがつかないし、誰が何言うかわからないでしょ。ただでさえ、ビアンカの立場が微妙なのに、お付きの私がだらしないなんて言われたら、どうしてくれるのよ」
「もういいじゃん。めんどくさいの、嫌い。潔癖じゃなきゃ駄目って誰が決めたのさ。そもそも君は、護衛の人でしょ。関係ないよね」
意外なところで、確信をつく。確かに、ロメオの言うとおりではある。
「…おとなしく寝るなら、寝場所を提供してやってもいいわ」
たまには妥協も必要かもしれない、とアデルは書面から目を離さずに言った。
素直じゃないな、と思いつつも、それを口には出さず、ロメオはアデルの枕の下で皮肉っぽく笑う。
「わかってるよ。何もしないから、寝かせて。疲れた」
枕に顔を埋め、ぐったりと横たわるロメオを、いつしかアデルは無言で眺めていた。
完全に寝入ったのか、二人の最後の会話から数分も経たず、ロメオの軽やかな寝息が聞こえてくる。
気楽でいいわね、とアデルは立ち上がると、ぴくりとも動かなくなった金色の柔らかな髪を、ふわりと撫でた。