111の話~王子と王女~
大きな窯の前で、腕組みしたまま鍋の中を見つめるメイフェア達に混じり、礼拝所の奥の間には、カタリナやアンジェラといった姿があった。
こぼさないよう慎重な手つきで、ずらりと並べられた小瓶にひとつずつ、小さな手で液体を注ぎ込んでは蓋をする。
子ども達の共同作業を満足そうに眺め、メイフェアは今ではすっかり慣れ親しんだ、この薬草の鼻を突くような臭いに、安心感さえ感じるようになっていた。
一方では、いまだにこの臭気に慣れることのないロメオが、鼻を摘まみながら奥の間へと入ってくる。
「いったいいつまでこの作業が続くのかな。外までものすごい匂いがするんだけど」
さあどうでしょう、とメイフェアは素っ気無く答え、冷めたもう一つの鍋の中身を、ぐるぐるとかき回した。
「医局の方はどうなってるのかしら。私達の原始的な作業じゃ、生産量に限界があるのですが」
「後片付けと引越し作業で手一杯みたい。僕らだって、今日やっと引越し完了したんだよ」
半壊した真新しい詰所から、結局また元の王宮内の老朽化激しい詰所に逆戻りするはめになってしまった王宮騎士団の面々であった。
とはいえ、増えすぎた団員全員の面倒を見るには物理的に無理がある、と頭を抱えていたステラに助け舟を出したのは、フィオナだった。
「私達は、離宮に滞在することになりました。近衛も王宮を去ることになりますから、お好きなところをお使いください」
後宮の女官達も王都の襲撃事件以来、里心がついたのか暇を願い出る者が相次いだ。
離宮が手狭なこともあり、フィオナは半数以上の女官に暇を出してやることにした。
当然後宮ですら人手不足に陥り、フィオナ自らいるものといらないものの選別をしては箱に詰める毎日だった。
「いざというときは、この身一つで逃げねばならないのですから、不要なものは思い切って処分してしまいましょう」
とフィオナは思いのほか張り切っているようであった。
「で、カタリナ様はこんな所で何やってるの。荷造りは終わってるのかな」
「いえ、かえって足手まといになるからと、フィオナ様が私に押し付けて、こちらのお手伝いをするようにと」
メイフェアは汗を拭いながら、休憩、と椅子に座り込む。
託児所みたいだね、とロメオは言い、楽しそうにアンジェラと一緒にお手伝いをするカタリナをぼうっと眺めていた。
「残念だねー。旦那様ともしばらく離れ離れになっちゃうけど。…って言っても、そんなに寂しくないか、君らの場合」
定期的に隣り合わせの薄い壁から漏れる、夫を罵倒する声も、何故かあの日以来ぱったりと聞こえなくなった。
喧嘩しているうちは、まだ仲良い証拠とも言う。
これは別居をきっかけに離婚になるかもしれないなあ、とロメオは勝手に隣家の夫婦を分析していた。
「だから言ったのに。早まったって」
「そんなんじゃありません。単に、いろいろと私なりに思うところがあるだけです。いつまでも一方的に騒いだところで、ランベルトの借金が減るわけでもないですし」
その悟りきったような発言は、本格的にまずい状況なんじゃ、とロメオは焦りながらもメイフェアの肩をぽんぽんと叩いた。
「どこにでも良縁は転がってるからねー、子どももいないんだし、逆によかったじゃない。前向きにね」
「また暇人が油売ってるの。そんなに暇なら、あんたも明日から手伝いなさいよ」
疲労困憊しきった様子のアデルが入り口でくたびれた声を出し、、外套を脱ぐのももどかしそうに椅子に座り込んだ。
ご苦労様でしたと瑠璃に声をかけ、メイフェアが帰還した修道女一向に駆け寄る。
その中には、期間限定で再度白い僧服を身にまとうステラの姿もあった。
「師匠、お帰りなさいませ」
瞳をきらきらと輝かせながら、カタリナが瑠璃に挨拶した。
カタリナが礼拝堂に入り浸る理由も、瑠璃の存在があってこそである。
瑠璃の新作と共に、直筆の手紙を聖誕祭に送られ、カタリナは天にも昇る心地であった。
こんな身近なところに、自分の憧れの方がいらっしゃったなんて、とカタリナは浮かれ、毎日のように瑠璃に会いに来ていた。
「城下はいかがでした?少しは、落ち着いたのかしら」
「残念ながら、今日も回りきれませんでした」
冷え切った体を温めようと、クライシュ達がかまどのそばにわらわらと集まってくる。
「去年より酷いかもしれぬ。雨も雪も降らない分、感染力も早いようだ」
擦り寄ってきたアンジェラを抱きしめながら、ステラが無造作に長い髪をかきあげる。
「でもね、やりがいはあるのよ。何処に行っても、喜んで迎えてくれるし。…ただ、ビアンカは何処って聞かれると、答えようがないんだけど。みんな、あの子に会いたがってるのよ」
天井を向いたまま、ぐったりと座り込んでいるアデルを、ロメオは壁に寄りかかったまま見つめていた。
混乱した王都の復旧作業はまだ完全には終了しておらず、加えて城下では流行病が蔓延していた。
頼みの綱であるアカデミアの医局も機能不全状態になり、見かねた瑠璃がエドアルドに協力を申し出た。
今では備蓄された薬も底をつきかけ、正教会の修道士達も「巫女の秘薬」に頼るほかなかった。
王都の民家を一軒ずつ回っては、薬を配って歩く毎日である。
足りないものがあると聞けば、騎士団が連携して定期的に物資を配給に回る。
それもどうやら、物理的に底を尽きかけているのは、王宮の誰の目にも明らかであった。
「水は足りない、物資は入ってこないし、おまけに人はどんどんカプラやらオルドから逃げてくるわで、これからどうなっちゃうんだろう。早く元に戻ればいいけど」
ロメオのため息混じりの声に、一同が黙り込む。
オルドに向けるはずの兵力が、カプラの紛争地帯にも割かねばならない状況にあり、一気に叩くはずであった計画も思うようには進んでいない。
「アルマンド様が手を尽くしていろいろ調達してくださるんだけど、必要な量はとても。薬の材料も、せいぜいあと数日なのよ。どうにかならないのかしら」
メイフェアは椅子の背もたれに顎を乗せ、万策尽きたとばかりに言い捨てる。
珍しく真剣に話し合っている面々の言葉に、黙って耳を傾けていたクライシュが、重々しい口調で言った。
「ロメオ、ちょっと、私に付き合ってください」
どうせ何かの手伝いだろうと、ロメオは「はいよ」と安請け合いをして立ち上がった。
***
クライシュはロメオ達を連れ、王宮内の客室へと向かった。
そこには、いまだに王宮に滞在し続けるキーファの姿があった。
何か嫌な予感がする、と顔をしかめるロメオは、皮肉っぽい笑みを浮かべるキーファを、遠くから観察していた。
「珍しいな。瑠璃は一緒ではないのか」
「今日はあなたにお願いがあって、参りました」
ほう、とキーファは楽しそうな表情で、鋭い眼光を向け続けるクライシュを眺めている。
「スロに停泊している船団を、オルドへ向けてください。あれは単なる商船ではありませんよね。…それからご存知のように、王都では圧倒的に薬が足りません。至急、こちらへ輸出してはいただけないでしょうか」
「あなたが私に頼みごとするとは、どういった風の吹き回しだろう」
王者の風格を兼ね備えた帝国の王子は、ゆっくりと足を組みなおし、目の前の男に向かって言い放った。
「緊急事態です。背に腹は代えられません」
クライシュの固い表情は、相変わらずであった。
「船団を寄越し、尚且つ物資まで寄越せと要求する。その意味がわかっているのか」
クライシュは黙ったまま、キーファを見つめていた。
「私が、断ったらどうする」
「ひたすら、お願いするしかありません。他に方法が思いつきませんでした」
「ただというわけにはいかないな。この前も窮地から救ってやったのに、いまだに礼も言わない奴もいることだし」
思わずロメオは視線を泳がせ、窓の外の庭園に魅入るふりをする。
「交換条件ですか」
クライシュの低い声が、重々しく響き渡る。
「あなたが、私と一緒に戻ってくることが条件だ」
「それは出来ません」
「それでは残念だが、その話はなかったことに」
クライシュとは対照的に、明るい声でキーファは言った。
「ですが」
「だいたいこの期に及んで、それほどまでに我が身が可愛いか。我らを憎んでいるくせに、都合が悪くなれば利用しようなどと、虫が良すぎるとは思わないか」
「重々、承知しています。いくら罵られようとも、構いません。ですがあなただって、貸しばかりではないと思いますが。なんだかんだと、この国で自由にしていられるのも、陛下のお力があってこそのはずですが」
クライシュが負けじと睨み返し、キーファは手にしていた扇を、閉じたり開いたりしながら何事か考え込んでいた。
「わかった。…そうだな、そこのロメオでいい。この前の借りを、ようやく清算してもらえる時が来たようだ。それで手を打とう」
「だそうです」
素早くクライシュが、後ろのロメオに短く言った。
「何で僕が!」
「国家の危機です。君の体一つで済むなら、安いものではありませんか」
「私もそろそろ本国に帰らねばならないし、丁度いい。王宮で贅沢三昧させてやるから、私と一緒に来るといい。私が飽きたら、返してやる。友好の証として、君を受け入れよう」
ぱちりと音を立てて扇を閉じ、にやりと笑うキーファの表情に、邪な笑みが浮かんでいるのは、誰の目にも明らかであった。
「だそうよ。短い付き合いだったけど、元気でね」
しみじみとした口調になるアデルに詰め寄り、ロメオは一気にわめき立てた。
「なんでそうなるの!アデルは僕と離れ離れになってもいいの!」
「そうね。飽きたら返してくれるって言ってるんだし、死ぬまであっちってわけでもないんだから、いいんじゃないの。後のことは知らないけど」
「そうですよ。君もそれほど若くないんですし、せいぜい二,三年の辛抱です」
口々に非情な言葉を投げつける二人を、ロメオはぶるぶる震えながら見つめていた。
「彼の気が変わらないうちに、さっさと話を進めてしまわないと、手遅れになりますよ」
いつの間にか、自分の責任のような口ぶりになるクライシュを呆然と見上げ、ロメオは拳を握り締めていたが、やがて無言で転げるように、突如出口に向かって逃走した。
みんな、頭がおかしくなっている。
そもそも、自分一人でどうにかできる問題じゃない。
何としてでも逃げ出さなければ、と勢いよく未来への扉を開けたロメオは、入り口で何かとぶつかり、思わず悲鳴を上げる。
怯えたロメオの視線の先には、大きな瞳を見開いているカタリナの姿があった。
おずおずと客室に足を踏み入れたものの、しばらくもじもじとしていたカタリナであったが、やがて意を決したように、大きな声で言った。
「あの…私では駄目ですか」
「はい?」
アデルがぽかんとして、カタリナに聞き返す。
「私が人質となって、ご一緒します。この国と協定を結ぶとお約束して下さるのであれば、王族である私が」
恐ろしいほどの沈黙が部屋中を覆い、誰もがカタリナの言葉の意味を理解できずに、ただ顔を見合わせていた。
突然クライシュが正気を取り戻し、ぶんぶんと音を立てるかのように鋭く首を振った。
「何をおっしゃってるんですか!この変態にのこのこついて行って、良いわけありません!この男に何をされるかと思うと、姫様が不憫で」
「僕は不憫じゃないのかよ!」
「そうですよ、だいたい、陛下達が良いとおっしゃるはずないでしょう」
青ざめたままのロメオを無視して、アデルが諭すような口調で言った。
「私が行きたいと言ったら」
カタリナはまっすぐにキーファの黒目がちな瞳を見据えたまま、彼の言葉を待っていた。
キーファの顔には、困惑の文字が浮かんでいた。
「まさか、私に恋をしたのでは」
「違います」
カタリナの返答も光の速さであった。
「だろうな。安心した。あなたではまだ子ども過ぎて、食指も動かない」
悔しそうに唇を尖らせつつも、カタリナは深く頭を下げた。
「違いますけど…お願いします。私が帝国へ、参ります。キーファ様がおっしゃるように、今後ともプレイシアのよき友でいてくださるのでしたら、人質でもなんでも構いません。どうか、私達を助けてください。困っている人が、たくさんいるのです!帝国は、豊かな国とお聞きしました。お願いします。どうか、私達にお力を」
カタリナの子どもらしい率直な言い方に、キーファは思わず苦笑をもらす。
「あなたのお気持ちはわかりました。ですが、陛下にお伺いを立てないことには、私とて『うん』とは言えませんよ」
「陛下でしたら、外でお待ちです」
すぐさま出入口に駆け寄り、カタリナが勢いよく扉を開くと、そこには顔を引きつらせている国王が突っ立っていた。
「カタリナが望んでいる。この子に、外の世界を見せてやって欲しい。何があるかわからないプレイシアにいるより、キーファ様の故郷で預かっていただけるなら、私もその方が遥かに気が楽だ。確かに、遠い国に一人やるなど、心配には変わりないが、そこはあなたのお力で、この子を支えてあげてはもらえないだろうか」
まさかのエドアルドの言葉に、クライシュ達は呆然としたまま、何も言えずに固まっている。
人質というよりは、子守を押し付けられているような気がしなくもない、とキーファはいぶかしげな顔でエドアルドをちらりと見た。
なるほどね、とキーファは呟き、もう一度扇をぱちりと鳴らした。
「よいか。こんな子どもでさえ、国を憂い、自分にできることはないかと模索した結果だ。恨むなら、ご自分を恨まれるとよい。所詮は他力本願なあなたに、何か弁解の余地でもあるのか」
クライシュに向かって、ふいに厳しい口調になる帝国の王子を、一同は無言で見守っている。
「カタリナ様…」
呟くクライシュの瞳には、苦悩と共に涙が浮かんでいる。
「私が、行きたいのです。いろんなものを見て、学びたいのです。このような時に、皆様のそばを離れるのは心苦しいのですが、陛下とも事前に話し合っておりましたから、急な思いつきでは、ありません」
カタリナは微笑み、やがてゆっくりとその身を沈め、優雅に膝をついた。
客人に向かって膝をつく国王と姫の姿を、一同は驚いて眺めていた。
ややあってから、苦しげな表情でクライシュがその後ろでひざまずいた。
「兄上が私に頭を下げるとは、なかなか爽快な眺めではありますが」
笑い声を上げるキーファを無視して、クライシュはひたすら頭を垂れ続けた。
「何と罵られても仕方のないこと。この期に及んで、自らを犠牲にすることのできない自分の罪は、消せるものではありません」
お兄ちゃん?え?え?と混乱しているロメオに向かって、アデルは苛立ったように「黙ってて」と乱暴に言う。
「…カタリナ様を、よろしくお願いします。私が言えた義理ではありませんが」
「そうだな、あなたの代わりに、この姫が犠牲になるのだ」
拳を握り締めているクライシュを振り返り、カタリナが微笑みながらその手に、自分の小さな手を重ねた。
「先生、ご自分を責めないで下さい。私が望んだことです。私はむしろ、希望で胸いっぱいで、いったいどんな世界が待っているのかと思うと、嬉しくて楽しくて仕方がないのです。ですから…」
***
その晩、夢見心地で瞳をきらきらさせながら、あからさまに落ち着きのないカタリナと、隣で正反対に神妙な顔つきをしているエドアルドを無言で見つめ、こういう時は大抵、カタリナがよくない思いつきをしているものだ、とフィオナは長年の経験でわかっていた。
「何かございまして」
と問いかけるフィオナの声が、妙に寒々しかった。
「事後報告で申し訳ないが、カタリナがキーファ様と一緒に、しばらく留守をすることになった。二,三年ほどあちらで勉強したいと」
顔色も変えず、ひたすら自分を仮面のような表情で見つめているフィオナの顔が恐い、とエドアルドは精一杯にっこりと微笑んでみせた。
「そういうことなので、しばらく留守にしますが、フィオナ様もどうかお元気で。大きくなって、帰ってまいります。たくさん勉強して、いつか皆様のお役に立てるよう、頑張ってきますね」
無言のフィオナを了承の意と捉えたのか、カタリナが迷いのない笑顔で答える。
一片の穢れも感じさせない、カタリナの澄んだ瞳が、徐々にフィオナの視界から遠ざかっていった。
「うーん」と一言呟くと、フィオナは目を回して床に崩れ落ちる。
その様子をはらはらと見守っていたメイフェアの叫び声が、夜を切り裂かんばかりに、後宮中に響き渡った。