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漂う白花  作者: 渡部ひのり
第五部
113/136

110の話~言えなかった気持ち~

 背中に刻まれた爪痕が、無数の痛みを引き起こす。 

 全身を引き裂かれるような痛みと戦いながらも、ヴィンチェンツォは寝台の上で自力で上半身を起こした。

 時折聞こえる荒々しい吐息に、ヴィンチェンツォ様、とビアンカが震える声で呟きながら、ふわりとヴィンチェンツォの首筋に細い両の手を絡めてすがりついた。

「またお声が聞けて、嬉しゅうございます」

 瞳を潤ませて、自分に微笑むビアンカにヴィンチェンツォは思わず手を伸ばしかけるが、その手は彼女に触れることなく、宙に浮いたままであった。

 自分の両手を下ろし、ヴィンチェンツォは軽くその拳を握り締める。


「ビアンカ、帰りなさい。あなたを待っている人が、たくさんいるんだ」

 ヴィンチェンツォが囁く静かな声に、ビアンカは安堵しながらも、その声は今にも消え入りそうな気がしてならなかった。

 ビアンカの両腕に、わずかではあったが力が込められる。

「昔のように、おそばに置いてください。あなたが一日も早くお元気になられるよう、精一杯お世話をさせていただきます。ですからお願いです。一緒にいさせてください」


「俺は大丈夫だ。だから、あなたは、ここにいてはいけない」

「嫌です。私は、ヴィンチェンツォ様のおそばにいたいのです。もう二度と、離れたくありません」

 ビアンカの琥珀色の瞳から涙が溢れ出し、涙で濡れた唇から懇願の言葉を繰り返す。

 だがヴィンチェンツォはその涙を拭うこともなく、ふいにビアンカから視線をそらした。


「俺といると、楽だからか」

 ヴィンチェンツォはゆっくりと、ビアンカの両手を自分の首から外した。

「俺のそばにいれば、それで全てが解決するとでも。勘違いするな、あなたを守ったのは、俺にはそうすべき義務があったからこそだ。あなたは言った。誰のものでもない、自分は聖オルドゥのものだと。その言葉を忘れたか」


 ビアンカは悲しげに、まっすぐな瞳でヴィンチェンツォを見上げていたが、ふいにその視線を胸元に落とした。

「忘れてはおりません。…それが、間違いであったと気付かされただけです」

「そのような中途半端な気持ちで俺を拒絶し、巫女になるとあなたは軽々しく口にしたのか」

 デメトリは、自分が想像していた内容とは程遠い、とても恋人同士とは呼べぬような殺伐とした会話に、またもや衝撃を受けていたが、黙って二人のやり取りを聞いていた。


「その時は、本当に…。でも今は、信仰する気持ちなど、何の意味もないと気付いたのです。人の心の浅ましさ、恐ろしさに翻弄され、巫女は利用される為だけの存在です。そんなもの、いらない。私は、そんな自分を恥ずべき存在だとさえ思えて仕方がないのです」


「何を今になって。その程度のことは、あなたの想定内ではなかったのか。…あなたを希望だと人々に思わせておいて、それすら否定するのか」

「そうです、なぜなら私は、偽者だからです」

「そんなことはわかりきっている。それを乗り越え、これから本物になるのではないのか」

 ビアンカはうつむいたまま、何度も首を振っていた。


「宰相閣下のおっしゃるとおりだ。これ以上、ご迷惑をおかけしてはいけない。不満があるなら、一度王宮であらためて陛下と話し合いをするといい。…行くぞ」

「最初から、私は誰でもないのです。お妃でも巫女でもない、一人の女です。どうしてそれが、いけないの」

 後ろの父親を振り返り、ビアンカは噛み付くように言った。

 滅多に怒りを見せることのないぶん、一度火がつくと手に負えない、とヴィンチェンツォはその声を聞いていた。

「いつからそのように、聞き分けのない子になってしまったのか。お前の言っていることは、到底誰からも受け入れられない」

 ビアンカの肩に手をかけ、デメトリが無理やりヴィンチェンツォから引き離そうとする。


 ビアンカの低い声が、ヴィンチェンツォの胸元に響いてくる。その声は、心の臓まで入り込んでくるような、深い悲しみと、憎しみさえ感じられた。

「私は、お父様を恨んでいます。お母様でさえも。何年も私を一人で放っておいて、今更私にお説教するつもりですか。自分達のしたいようにしていて、都合が悪くなったら、私を責めるのですか。私にも、心というものがあるのです。どうして私ばかり、こんな目に合わなければならないの!」


「恨みたければ存分に私を恨めばよい。だが、お前はプレイシアの巫女だ。来た道を引き返すわけにもいかない」

 デメトリの手を振り払い、ヴィンチェンツォが見たこともないような激しい怒りを全身にみなぎらせ、ビアンカは呆然とする人々をよそに一気にまくし立てた。

「今日もまた私の心は、あなた方に対する憎悪で溢れかえっているのが、お父様にはわかりませんか。いっそ私など、生まれてこなければよかったのに!」


 ヴィンチェンツォの手のひらが、はじけるようにビアンカの頬に鋭い音を立てる。

 大粒の涙がビアンカの頬を伝い、ビアンカは放心したようにうつむいていた。


「お父上に、間違ってもそのようなことを言ってはいけない。俺たちの知らないところで、どれだけご苦労されたか、まだオルドにいらっしゃる母君のお気持ちを考えれば、そのような我が侭、あまりにも聞くに堪えない」

 背中も痛いが、この手の痛みも、すぐに消えそうにはなかった。

「おそばにいたいと思うのは、我が侭ですか」

 ビアンカはやっとのことで、途切れ途切れに反論する。


「迷惑だ」

 ぽつりとヴィンチェンツォが呟いた言葉を、ビアンカはにわかに信じられずにいた。

「ヴィンチェンツォ様」

 ビアンカのかすれるような声が、ヴィンチェンツォの心に突き刺さる。


 ヴィンチェンツォはビアンカから顔をそむけたまま、吐き捨てるように言った。

「さっさと帰れ。あなたはもっと、腹を据えて全てを受け入れたのだと思っていた。でも違っていたようだ。それほどまでに巫女を辞めたいのであれば、何処へでも行くがいい。だがそれを、俺を理由にするのは間違っている、あなたがそう思い込みたいだけなのではないのか。逃げ道ばかり探しているような女に、俺は用はない」


 ビアンカはよろめきながら立ち上がり、ヴィンチェンツォの冷たい横顔を、苦しげに見つめていた。

「出て行け!」

 ヴィンチェンツォの恫喝とも取れる言葉を受け、ビアンカのやつれた顔が誰の目にもいっそう弱々しく映る。


 泣きながら扉を開け放つビアンカの目の前には、自分と同じように険しい顔をしたステラと、ほんの少し固い表情を見せるロッカがいた。 

 二人の目を見ないように自分の顔を隠しながら、ビアンカはあっという間に走り去る。

 ビアンカを追うべきかどうかと迷うステラと、いつものように仮面のような表情にすぐさま戻るロッカがあまりにも対照的だ、とヴィンチェンツォは苦い笑みをもらした。


「随分と派手なお目覚めでしたね。そのご様子では明日からでも出仕できるのではありませんか。口さえ動けば、仕事の半分は片付いたも同然ですし」

 そう軽口を叩くロッカの声も、どことなく嬉しそうではあったが、表情は固かった。

「どこまで俺をこき使えば気が済むんだ。そのうち本当に死ぬぞ。今だって、結構、辛い」

「死にかけの体で、そんな大声を出されたりするからです」


「私の時とは、正反対の反応ではありませぬか。言葉巧みに私を懐柔された閣下は何処へ行ってしまったのか。当事者となると、やはりきれいごとだけでは済まないものなのでしょうか」

 労わりの言葉も一切なく、ステラの口から放たれたものは、恨み言のようにさえ聞こえた。


「弁解する気もない。ここで甘やかしても、彼女の為にはならない」

「何を偉そうに」

 ヴィンチェンツォはステラの思わぬ発言に、無防備なまでにあっけに取られていた。

「今まででも充分ビアンカ様は耐えて、ご苦労の連続でした。それをあなたは当たり前のようにおっしゃる。やはりあなた方は、何もわかってはおらぬ。ご自分の生き方が、この世の基準だとでも」

 ステラの瞳がすっと音を立てるように吊り上り、美しい女騎士は一方的に黙り込むヴィンチェンツォを睨んでいた。


「お恥ずかしいとしか言いようがない。私も、娘と話し合う必要がありそうです。これ以上、閣下にご迷惑をおかけするわけにもいきません」

 その場の重い沈黙を破るように、デメトリが頭を下げる。

 平服する年上の男性に、ヴィンチェンツォは敬意を込め、先ほどとは正反対の柔らかな声をかけた。

「いえ、お父上にも聞いていただきたいのです。ここにいる、私達だけの話です」

 ロッカ、とそれまで黙り込んでいた自分の秘書官に向き直ると、ヴィンチェンツォは再びうつむいた。


「お前に頼みがある」

「何でしょう」

「ビアンカを連れて、王都を出ろ。匿う場所は、いくらでもある」


 ロッカは一度だけまばたきした。

「おっしゃる意味がわかりません」

「一緒に逃げろと言っている。彼女にはこれ以上、無理だ。もういいだろう、楽にしてあげたい。しばらく不便な生活が続くと思うが、頼む」

「あなたはそれで、後悔しませんか」


「ビアンカの望みをかなえてやりたい。普通の生活が、彼女には一番似合っている」

「それを自分に任せてもよいのですか」

「そうだ」


「あなたが後悔する頃には、既に手遅れかもしれませんよ。人の心は変わります。自分と一緒にいて、いつしかビアンカ様の心があなたから離れても、それでもよいとおっしゃるのですか」

「ここにいるより、遥かに幸せなはずだ」

 ステラは忌々しそうに舌打ちすると、乱暴な足取りで部屋を出て行ってしまった。


 ステラを振り返りもせず、ロッカは続けた。

「自分がいなくなって、あなたはどうするのです。秘書官の代わりは、いくらでも見つかるとは思いますが、後任を探し出さないことには、自分も安心して王都を離れるわけにはいきません」

 そうだな、とヴィンチェンツォは呟くが、彼からこれ以上の言葉は引き出せなかった。

「少し、考える時間をいただけませんか。もちろん、最大限にヴィンスの意向を汲み取らせていただきますが、大事なことなので」

 ロッカは深々と頭を下げ、うなだれたままのヴィンチェンツォを一度だけ見た。


「お前、まさか本気で閣下のおっしゃるとおり逃げるつもりか。自分の人生を棒にふることになるのだぞ。あのように感情的な閣下のお言葉など、聞く必要はない」

 厩でぽつんと座り込んでいたステラが、ロッカの姿に気付き、埃を払いながら立ち上がった。

 その動作も、いつになく重々しいものだった。


「ですから、時間が欲しいと申し上げました。お断りするのも、お受けするのも勇気が必要です。何より、ビアンカ様の返答次第かと」

「行かないと言われるに決まっているだろう」

 そうですよね、とロッカは平然と答え、自分の馬をなで続けていた。


 それも辛い。

 どうせ叶わぬ思いなら、盛大に拒絶された方が、自分も諦めがつくのだろうか。

 残酷なお方だ。

 むしろ、自分を叩きのめす為の方便のようにも聞こえるが、といつの間にかロッカの顔に、自虐的な笑みが浮かんでいたことに、ステラは気付かなかった。




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