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漂う白花  作者: 渡部ひのり
第五部
112/136

109の話~手負いのLove Birds~

 ピア・イオランダと呼ばれる某公爵令嬢は、部屋一面に差し込む茜色の光と、それを背中に受け、ひそやかに佇む若い女性の姿に目を奪われる。

まるで彼女の背中に、薄紅色の翼が生えているようだ、とピアはその神々しさに目を細めていた。

 その光の先には、弟のヴィンチェンツォの端正な寝顔があった。


「もしよろしければ、私が代わりに看ましょう。少し休まれた方が」

 ピアの声が、彼女に届いていたかどうかは不明だった。

 一切の反応がない彼女の後姿に、ピアは悲しくなりながら、いつものようにそれ以上は声をかけず、静かに部屋を後にする。


 屋敷中を重苦しい空気が漂い、使用人も客人も、一様に沈み込んでいる。

 いつからうちは、こんな幽霊屋敷のようになってしまったのかしら、とピアはやりきれない思いを持て余していた。


 家出同然で実家を飛び出したはずの弟が、何の前触れもなく、満身創痍の状態で担ぎこまれてきたのは数日前の出来事であった。

 ただでさえ、命の保証はしかねるという医師の診断に、ピアは今にも倒れそうであったが、更に彼女に打撃を与えたのは、四年ほど前に離縁したはずの元夫の姿であった。


「一晩中飛ばして来たんだ。暖かいものを振舞ってやりなさい」

 と、父のマフェイが意識のない弟に遅れて数分後、久しぶりに自宅に戻るなり、隣の元夫の肩を叩きながら、何事もなかったかのようにつらつらと言う。

 まるで自分の離婚騒動が、初めから存在しなかったかのように。


 その日はさすがにピアも心労のあまり、一日寝室で過ごす羽目になってしまったが、いざ冷静になって自分の置かれた状況を分析してみると、もう二、三日ほど自室でうんうんと唸っていてもおかしくないのではないかとさえ思えてきた。


 何を置いてもまず最初に、ピアの度肝を抜いたのが、自分の目の前で生死の境をさ迷っている弟と、それに寄り添う、血に汚れて取り乱す修道女の姿であった。

 あの方は先日、大聖堂に姿をあらわしたオルドの巫女なのでは、と白い服を血に染め、魂が抜けたように放心している女性を、ピアは恐る恐る観察していた。


 ごく稀に、人の声に反応を見せることもあったが、今のところヴィンチェンツォは、まともな会話のやりとりを出来るほどに意識が戻っていない。

 ヴィンチェンツォが時折うわ言のように何かをもらし、それを受けて弟の名を呼びながら、はらはらと涙を流す巫女の姿に、ピアは思わず弟の胸ぐらを掴んで何発か頬を張りたい衝動に駆られたが、さすがに今のヴィンチェンツォにそのような余裕があるはずもないのは、いくらピアでも見てわかる。


 踊り場から、熟れた果実が薄く滲んだような空を見上げ、ピアは軽いため息をついた。

「ヴィンスはどうしている」

 ピアは黙って首を振り、階段の手すりにもたれかかったまま、窓の外を見つめていた。

「もう少し自分達が早く出発していれば、戦局はかなり違っていただろうに。申し訳ないことをした。ヴィンスにも、彼女にも」

 元夫のミケーレが、ピアの隣に並び、同じような格好で夕日を見上げている。


「久しぶりの再会が、このような混迷した状況で申し訳ない。もう少し情緒的であればよかったものを。仕方のないことではあるが」

 眩しげに夕日を眺めるミケーレの薄い茶色の瞳が、時折オリーブ色にくるくると変わる。

「嬉しくも楽しくもないこの状況で、いったい何を期待しろと」

 ピアの口調は、相変わらず冷たかった。


「あなたがオルドにいらっしゃるとは、離縁した時にお聞きしていましたが、今回の件とどう関係があるのです。何故あなたが、父と一緒に行動しているの」

 ピア、とミケーレは探るような表情でしばらくピアを眺めていたが、彼女の隙のない眼差しに、何とも居心地の悪い気持ちで支配されていた。

 だがここで引いては何も進まない、とミケーレは意を決して静かに口を開いた。


「私が非常に傷ついているのは、その様子ではご存知ないだろうな。あなたは先日から幾度となく『離縁』と口にするが、私はあなたと別れたつもりはない。私の話も聞かずに、あなたが勝手に飛び出していったのだ。私はオルドへ転属となってしまったし、そのままにしてあなたと話し合いの場を持たなかったのは、己の不徳だ。あなたの誤解を招いたのはわかっている。だが離縁する手続きなど、一切行った覚えがない。それも私の記憶違いだろうか」

 次第に厳しい口調になるミケーレの迫力に、ピアはいつしかうろたえていた。


「離縁状に署名して、私に送り返してきたこともお忘れなのかしら。どういった心境の変化か、私は知りたくもありませんが、人の弱った心につけ込むように、今までのことをなかったことになさるなど、あまりにも酷い仕打ちではありませんこと。何年も便りひとつ寄越しもせず、この期に及んで、どうしてあなたを信用できるの」

 精一杯虚勢を張るピアの言葉に、ミケーレは言葉に詰まりながらも、変わらないな、と一言だけもらした。


「今は、弟の容態が気がかりです。ですから私も、あなたのことを考えている余裕がありません。せいぜいその間に、父と口裏を合わせておかれるとよろしいわね」

 逃げるようにその場を去るピアの後姿に、ミケーレはあっけに取られていた。


 怒れるピアの気配が完全に消え去った後に、自室からこっそりと顔を覗かせたマフェイ・バーリ公爵であった。

 義父の姿に、ミケーレは憤怒の形相で振り返る。

「ピアは、完全に私を疑っているようですが。お義父上のお話とは、天と地ほどに違う解釈をしていますよ。離縁状とは何のことでしょう」

 ピアも恐いが、義理の息子のミケーレも大概恐い、とマフェイは弱りきった表情を一瞬だけ見せると、すぐさま何も言わず自室の扉を閉めてしまった。

 そして、内側からことりと錠前を下ろす音が聞こえた。

 どういうことだ、とミケーレは途方に暮れたまま、闇が広がりつつある空を見つめ、やがて諦めたように階下に降りていった。


 

***



 明くる日、いつまでたっても、一向に意識を取り戻す気配のない宰相閣下の様子をうかがいに、ランベルトやロメオ達が見舞いに訪れた。

 眠り続けるヴィンチェンツォはもちろんのこと、宰相閣下の寝顔を見つめたまま微動だにしないビアンカのやつれきった姿に、ランベルトは何と声をかけてよいのかわからなかった。


「ヴィンス様は、どう」

 と尋ねるランベルトにも答えず、ビアンカは寝台に横たわるヴィンチェンツォを焦点の定まらぬ瞳で見つめたままである。

「全然、休んでないみたいだけど。ちょっとでも寝たら。起きたら、案外ヴィンスがいつもみたいに元気になってるかもしれないし」

 とロメオが気休めの言葉をかけるが、ビアンカの反応は相変わらず皆無だった。


 困ったな、とロメオは、落ち窪んだ瞳で一点を見据えるビアンカの鬼気迫る姿に、軽くため息をついた。

「いっそのこと、ビアンカが全裸で添い寝したらどう。男の本能で目覚めるかもしれないよ」

 間髪を入れず、アデルがロメオの頭を力いっぱいはたく音が、部屋中に響き渡る。

「あんた馬鹿じゃないの。こんな時に、笑えないのよ」

 

「私ごときで、お目覚めになるのでしたら、この身も惜しくはありません」

 それまで貝のように口を閉ざしていたビアンカが突然口を開き、一同は驚愕の眼差しを巫女に向けるが、その人の目は本気だった。

「駄目だよ、そんな簡単に自分を安売りしたら。冗談に決まってるだろ」

 でも、と涙ぐむビアンカの肩をランベルトが労わるように、慌てて抱き寄せた。

「そうよ、こんな馬鹿男の話を真に受けてどうするのよ。そんな簡単に目覚めるなら、今頃とっくに起きてるわ」

 だよね、とロメオが自分の発言を棚にあげ、呆れたように呟いた。


 ビアンカには、エドアルドからの伝言を伝えねばならなかったはずであった。

 しかし想像以上のビアンカの痛々しさに、この場にいた誰もが、とてもそのような話をする気にはなれなかった。

 アデルはビアンカをそっと抱きしめ、「無理をしないでね」と言うのが精一杯だった。


「どうしよう、あれじゃ全然使い物にならない」

 三人はビアンカと別れ、広い公爵邸の廊下を歩いていた。

「無理ないわよ。自分は誘拐されそうになるし、とどめに目の前でヴィンス様が殺されそうになったんですもの」

 美しい顔を曇らせ、アデルはしんみりとした口調になる。


「それよりさ、せっかくだから、ちょっと二人で王都を散歩して帰ろうよ。アデルも滅多に外出してないだろ。たまには息抜きしようよ」

 駄目よ、とアデルは即座に返答し、すたすたと出口に向かって歩いていく。

 俺は仲間はずれなのか、とランベルトは二人の背中を見つめ、悲しげにしょんぼりとしていた。

「忙しいのよ。早く帰って瑠璃様達を手伝わないと。もしビアンカが戻ってきてくれたら、と思ったけど、あの様子じゃ当分無理だし、私達だけでも頑張らないとね」

 そう言う自分だって辛いだろうに意外と前向きだ、とアデルの力強いすみれ色の瞳に、ロメオはほんの少しだけ救われたような気がした。

  

 アデル達が去った後、デメトリ・マレットがヴィンチェンツォの寝室を訪れ、自分を一度も見ようとしない娘の態度に困惑しながらも、厳しい口調で語りかけた。

「国王陛下に、謁見する機会を設けていただいた。私のような、存在しないはずの人間に対しても、陛下は寛容でいらしたよ。…陛下からお前に、言づてがある。落ち着いたら、王宮に戻るように、と」

 ビアンカは何も言わず、ヴィンチェンツォの寝顔を見つめていた。

「ここにいても、何も変わりはしない。残念だが、このまま目覚めないという最悪の事態もありうるんだ。お前にはお前の、務めがあるだろう。お前が自分の立場を放棄しているとまでは言わないが、それを忘れてはいけない」


「いくら意識がないとはいえ、ご本人の目の前でそのようにおっしゃるなど、あまりに無礼ではありませんか。私は、戻りません。ヴィンチェンツォ様は、必ず元どおり、お元気になられます。ヴィンチェンツォ様は、こんなことで命を落としたりはなさらない。私は信じています」

 相変わらず、父親を一向に見ようとしないままであったが、ビアンカが怒りを込めた口調で、静かに言った。


「その気持ちは大切だが、何よりお前は、巫女だろう。他にいくらでも、為すべきことがあるのではないのか。あれからこの国がどのような状況にあるのか、お前は少しでも考えたことがあるのか」

「大切な人を守ることができずに、何が巫女なのです。私にはわかりません。わかりたくもありません」

「巫女が守るのは、一人の命ではない。その他大勢の支えになるのが、お前の務めだ。それがわからぬわけでもなかろう。帰りなさい。今すぐ、王宮に」


「嫌です。帰りません」

 デメトリは窓辺に腰掛け、ビアンカの後姿に向かって話しかけた。

「その心を否定する気はない。だが今のお前は、そこいらの町娘とはわけが違う。それくらい、わかるだろう」

「わかりません!」

 頑なまでに父の言葉を否定し続け、ビアンカは何度も首を振る。

 堪忍袋の緒も切れかけている、とデメトリは耐えかねたように立ち上がり、ビアンカの真後ろに乱暴な足取りで歩み寄る。


「ここに、ヴィンチェンツォ様のおそばにいて、何がいけないのですか。私はもう二度と王宮へは、礼拝堂には戻ることはありません。そう陛下にお伝え下さい。巫女など、そもそもこの世に必要のないものだったと、私は悟りました。ウルバーノ様が、そう私に教えてくださったのです」

 自分はおろか、全てを拒絶するような激しい言葉がビアンカの口から発せらる。

 デメトリの記憶の中の、いつも素直だったはずの娘の変わりように、父はただ愕然としていた。


「それは違うな」

 ビアンカとデメトリは自分達以外の者の声に驚き、まさか、と寝台でかすかに身じろぎするヴィンチェンツォを凝視していた。

 うつ伏せのまま眠り続けていたヴィンチェンツォがゆっくりと目を開け、ほんの少し頭を持ち上げるやいなや、「首が痛い」とうめくように言った。

 




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