108の話~命の抱擁~
「勇ましい発言は結構だが、今この状態で乱戦になり、ビアンカを取り戻せるとでも」
ヴィンチェンツォは腰に手を当てつつ、少し離れたところから様子をうかがっていた。
ウルバーノの言うとおり、お互いにぎりぎりの人数である。失敗は許されない。
「取引だ。今回、ここまで王都に打撃を与えておいて、お前の目論みもほぼ達成されたも同然だろう。だが、最後の詰めが甘かったな。どう考えても、お前がここから無傷でビアンカを連れ、オルドまで逃げ帰るなど不可能に等しい。包囲されるのも時間の問題だろう」
上目遣いに自分を睨んでいるウルバーノに対し、ヴィンチェンツォも同じような目つきで睨み返していた。
「ビアンカを返してくれたら、お前は見逃してやってもいい」
「人にものを頼む態度ではないな。こちらに人質がいるということを、お忘れか。まずはお前が、武器を捨てろ。後ろの騎士もな」
剣の柄を握り締めたまま、自分を真正面から睨み付けているヴィンチェンツォに向かって、ウルバーノは「は!」と侮蔑したような言葉を投げつけた。
「まだ己の立場がわかっていないようだ。巫女の腕の一本くらい、目の前で切り落としてもかまわぬが。どうする」
剣を抜き、ビアンカの目の前に突きつけるウルバーノの言葉は、脅しとは思えなかった。
朦朧としたビアンカの瞳に、時折鈍い光を放つ剣先と、ウルバーノのうす曇色の瞳が映る。
ビアンカはようやく意識を現世に呼び戻したかのように、唇をわななかせながら「やめて」と怯えきった声をあげた。
「ビアンカ、落ち着くんだ。大丈夫だ。あなたに、危害を加えさせるようなことは絶対にない。落ち着いて」
予想もしていなかった人物の声に、ビアンカは安堵しつつも、自分が今こうしてウルバーノと共にあることに混乱していた。
確かこの人から逃げようとしたはず、と記憶の糸を手繰り寄せながら、今にも自分の喉元に食い込みそうな剣先から目線を外し、少し離れたところにいるヴィンチェンツォにその視線を動かした。
「閣下」
「大丈夫だ。落ち着きなさい」
涙声になるビアンカに、ヴィンチェンツォは微笑み、力強い声で励まし続ける。
「先ほど、アデルもそう言っていたが、一向に援軍が姿を見せぬのもおかしいとは思わないのか。俺には、わざと見逃しているようにしか思えない。すなわち、こちらの巫女様に未練はないということなのでは。オルドの巫女を手に入れたはいいが、いまいち効果的な使い方をご存じないようだ。歌さえ歌えれば巫女の役目を果たすとでも。やはり、王都の方々はオルド教徒と聞けば即座に否定しがちなのは、二十年前と変わらぬようだ。単純に勉強不足とみえる。過去から、何も学んでいないということかな」
「仮にそうだとしても、このまま見過ごすわけにはいかない。彼女を無傷で、置いて帰れ。既に一人いるものを、二人も欲しいとは、欲深すぎやしないか」
「お前にしては、ずいぶんと消極的な交渉だな。ついこの前までは、俺の息の根を止めたくて仕方がなかったようだが」
「このままここで終わるか、命を無駄にせず、おとなしく撤退するか、早く決めろ」
ヴィンチェンツォの低い声が、闇に響く。
「俺がここで終わるなら、この女は道連れだな。その時は例外なく、お前も一緒だ。安心するがいい」
ビアンカの体を引き寄せ、勝ち誇ったような笑みを浮かべるウルバーノであった。
「残念だが、問答する時間も終わりのようだ。そろそろ、別れの時が迫ってきている。ここまで一人で歩いて来い。ゆっくりな。そこに剣を置け」
「閣下、いけません。この方が、約束を守るなど、ありえません」
酷いな、と笑い声をあげるウルバーノを睨み付け、ヴィンチェンツォは勢いよく剣を放り投げた。
「大丈夫だ。一緒に帰ろう。皆、あなたを待っている。…お前の条件はのんだ。早くビアンカを放せ」
剣先を今度はヴィンチェンツォに向け、ウルバーノはいまだ腕の中のビアンカを解放しようとしなかった。
焦りとともに、静かに時間が流れていく。
「もう一つ、お前達に教えてやろう。俺の計画で王都を破壊したと思っているようだが、違うぞ。いつかわかる時がくるだろうが、それまでお前らが生きているかは不明だな」
「お前より力のある人間が黒幕だとでも言いたいのか」
「次に会う機会があったら、答えを聞かせてもらおう。むしろ、本人から直接聞けるやもしれんが」
じわじわと、ヴィンチェンツォから間合いを取り、後退していくウルバーノの姿に、ヴィンチェンツォの目が再び怒りで満たされていく。
動くな、と冷たく言い放つウルバーノが、月の下でこれ以上はないという喜びをたたえた顔で、ヴィンチェンツォを見つめていた。
この人は、最初から私を逃がすつもりなどないのだ、とビアンカは草むらに横たわるヴィンチェンツォの剣身を見つめ、拳を握り締めていた。
「…あなたはいつもそうやって、人を惑わせてばかり。心底、あなたには失望いたしました」
「行くぞ」
会話のかみ合わないウルバーノの最後の言葉が、ビアンカをうながし、ウルバーノに対する怒りを直接向けさせた。
「いいえ、私はここで、あなたとお別れいたします」
片目を押さえ、よろめくウルバーノの頬から、一筋の道を作って血がしたたり落ちる。
何が起こったのか、とウルバーノは呆然としながら、手のひらの血を眺めていた。
ビアンカが握り締める短剣には、同じように赤い血が付着している。
ビアンカの震える手から短剣が滑り落ちた。
「その妙に抱き心地の悪い衣の下に、牙を隠していたか。…いいだろう、ここで解放してやる。死体にしてな」
残されたもう片方の瞳でビアンカを凝視している、ウルバーノの血走った目と合い、ビアンカは弾かれたように駆け出した。
しかしそのいつもの子鹿のような足も、今日は思うように動いてくれなかった。
もつれて倒れ伏すビアンカを見下ろし、ウルバーノは悪鬼のような形相で剣を振り上げ、ビアンカの背中めがけて勢いよく振り下ろした。
そのウルバーノの視界に入ってきたのは、ビアンカのくすんだ白色の修道服ではなく、自分の手を染める鮮血と同じような色をした緋色の男の背中だった。
押し殺した声で一瞬だけうめき声を上げるが、ヴィンチェンツォは無言でビアンカを覆い隠すように抱きしめていた。
「そこをどけ。その女を、殺してやる。つけあがりおって」
ウルバーノの初めて聞く、その獣の咆哮にも似た絶叫を、ヴィンチェンツォの体の下で、ビアンカは震えながら聞いていた。
幾度もヴィンチェンツォの背中に向かって狂ったように切り付けるウルバーノめがけて、王宮騎士団の団員達が駆け寄ってきた。
ウルバーノの従者達がすかさず進路を塞ぎ、いっせいに剣を抜く。
いくつもの剣がぶつかり合い、怒号で辺りが満たされていく。
ヴィンチェンツォは、恐怖で叫び声をあげ続けるビアンカを落ち着かせるかのように、力強く抱きしめ返した。
顔の痛みと激しい怒りで我を忘れかけていたウルバーノは、自分の肩にまたもや違う痛みが走ることに気付く。
いつの間にか深々と肩に突き刺さっている矢を忌々しそうに一瞥すると、苦しげに引き抜いて、草むらに投げ捨てた。
牽制するように足元に幾つかの矢が刺さり、飛来してきた方向を見ると、そこでは薄い銀色の髪をした女が、馬上から矢をつがえていた。
その隣には、目の前でうずくまる男と同じ緋色の、二人の騎士がいる。
一人の騎士の肩から、猛禽らしき生き物が飛び立ち、こちらに向かってくるのが見える。
従者達は必死でウルバーノを制止し、「もう時間がありません」と急き立てた。
無理やり自分達の主人を馬に乗せ、一向は一糸乱れぬ動作で徐々にビアンカ達から離れて行った。
数人の騎士達がウルバーノ達を追い、駆け出していく。
その馬の足音を追いかけるように、複数のはばたく音がビアンカ達の頭上を通り過ぎ、やがて消えていった。
静寂に覆われつつあるその場所で、服が裂けて血まみれの宰相を抱きしめ、ビアンカは何も言えずに震えていた。
「ビアンカ、無事?」
馬の足音が近づき、アデルとロメオの声が聞こえた。
だがその声も、ビアンカの耳には届いていなかった。
立ち上がれないヴィンチェンツォを抱きしめたまま、嗚咽して座り込んでいるビアンカの姿に凍りつきながら、アデル達は慌てて二人に駆け寄った。
「ヴィンス、しっかり。すごいことになってるな」
ロメオが、尋常でないヴィンチェンツォの背中の出血量に驚き、スカーフを外して傷口を押さえた。
傷は背中に無数に広がり、一枚どころでは止血に追いつきそうになかった。
「その様子じゃそれどころじゃないだろうけど、カプラから伝令が来たんだよ」
ロッカも自分の首からスカーフを勢いよく引き抜くと、大きな切り傷を押さえ、スカーフに赤黒い染みが広がっていくのを眺めていた。
「カプラで本日、コーラーとの武力衝突が断続的にありました。今も国境で睨み合っている状態です」
ウルバーノの置き土産か、とヴィンチェンツォは背中の痛みで激しさを増す、自身の呼吸音を聞きながら、何か言いかえそうとして薄目を開ける。
それもうまくいかないようだ、と諦めたようにヴィンチェンツォは再び目を閉じた。
「止血を。ビアンカ、しっかりして。手伝って」
アデルは強い口調でビアンカに向かって呼びかける。先ほど、ビアンカが自分にそうしてくれたように。
「私のせいで、こんなことに」
だが、アデルの呼びかけにも答えず、ビアンカは何度も「いや」と叫びながら肩を震わせていた。
泣き叫ぶビアンカのそばに近づいてくる、枯れ草を乱暴に踏み分ける足音に気付き、ロッカが思わず鋭い視線を向けた。
「ビアンカ。しっかりしなさい。その人を、死なせていいのか」
ビアンカの細い肩がびくりと動き、声のする方向をゆっくりと向く。
ここにいるはずのないその人の声に、ビアンカは今度こそ放心したように虚空を見つめていた。
「お父様…?」
ビアンカを見下ろし、軽くうなずく父親の姿が、月明りの下でぼんやりとしている。
何年も会っていなかった父は、少し年老いたように見えるが、間違いなく、自分の父親のデメトリの姿だった。
何もかもが夢のように思え、ビアンカは涙が零れ落ちてくる瞳を、何度もしばたいていた。
「どうしてここに…お母様は…」
「早くしなさい、泣くのは後だ。ジョナ、止血を手伝ってくれ」
久しぶりに会う娘を抱きしめることもなく、固い口調で矢継ぎ早に言い、父はヴィンチェンツォの手を取ると脈を計りはじめた。
「了解」
素早くひざまずき、ヴィンチェンツォの傷口を確かめた男が、顔を上げるとアデルに向かって怒鳴りつけた。
「アディ、お前もぼさっとしてないで手伝いなさい。話は後、今はヴィンス様を助けるのが先だ」
突然の父親達の登場に、初めは驚いて目を丸くしていたアデルだが、気を取り直したように、慌てて父の後に続く。
おとーさん?と小首をかしげていたロメオは、やがて直立不動の姿勢になり、オルド戦役の英雄と呼ばれた銀髪の男性を、畏敬の念を込めた瞳で見つめていた。
「彼の手を握ってあげなさい。意識が途切れないように、名前を、呼んであげるんだ」
ヴィンチェンツォ様、とビアンカが目を閉じたままのヴィンチェンツォに向かって呼びかける。
ビアンカの手のひらの中にある、ヴィンチェンツォの大きな手が、わずかに動き、ビアンカの声に反応しているようだった。
それも徐々に力は弱まり、やがてビアンカの手からも滑り落ちそうになるのを、ビアンカは必死に両手で握り締める。
「ヴィンチェンツォ様。目を、開けてください。私が、見えますか」
ヴィンス、とロメオやロッカが大きな声で何度も叫ぶのが聞こえる。
彼女の、魔法の鈴の音のような、不思議な声が聞こえる。
歌っている時もいいが、会話する時の少し低めの、澄んだ声も好きだった。
こんな時にビアンカが、自分の名を呼んでいる。
頑なまでに名前を呼ぼうとしなかった彼女が、ようやく自分の名前を、その唇から発してくれた。
これが最後のはなむけだとしたら、自分はつくづく、恵まれていない。
おそらく、前世でよほどの悪行を重ねた結果なのかとさえ、思えてくる。
目を閉じたままではあったが、ビアンカに向かって、ヴィンチェンツォは精一杯、微笑んでみせたつもりだった。
彼女の声や、他の人々の口々に叫ぶ声が遠くなる。
木々のざわめきに吸い込まれるかのように、やがてその美しい声は完全に聞こえなくなった。
~第四部終了~