107の話~呪縛~
ロメオは暗い抜け道をひたすら走った。
明かりもなく、何が飛び出してくるかわからない状況にあることも忘れ、ひたすらウルバーノを追い続けた。
誰も戻ってこないところをみると、まだ中にいるのか、来た道を捨てて立ち去ったのか状況はつかめずにいた。
ウルバーノにたいした事も言い返せず、このままで終わらせてたまるか、と、普段隠していた闘争心に火がついたのか、見えない光に導かれるかのように、まっすぐな足取りで隠し通路を駆け抜けていく。
ウルバーノの言ったことは、どこまでが真実なのかわからない。
最初は協力者だったと公爵様もおっしゃっていたし、アデルと面識はあったかもしれない。
奴の言うように、本当に二人は、親しい関係もあったかもしれない、ものすごくショックだけど。
でも今のアデルは絶対に、僕達を裏切ったりするはずはない。
絶対に信じない、と何度もうわ言のようにつぶやきながら、ロメオは地下室へ向かってひた走る。
ふと目を細めると、出口らしきところが、滲んだ明かりに浮かび上がっているようだった。
腰の剣に手をかけたまま、ロメオは足音を消すこともなく、徐々に近づいてくる明かりを目指す。
通路の終わりで足を止め、自分の背丈と同じくらいの彫像と並んだまま、ロメオは地下室をゆっくりと見渡した。
蝋燭はほとんどが燃え尽き、残された蝋燭さえも、命の最後のともし火のように、頼りなくゆらゆらと揺れて、壁に影を作っていた。
階段の横に、壁にもたれかかるように座り込んでいる女の姿があった。
修道服、どっち、とロメオは息を切らしたまま、ゆっくりとその人のそばに近づいてひざまづくと、うなだれたように目を閉じている女の顔を覗きこんだ。
動かないその人の頬に、そっと冷え切った手を触れてみる。
体は、まだ温かかった。
ロメオは震える手で、女の顔に被さった白いヴェールを取り払った。
明り取りの隙間から差し込むかすかな月明りの下、絹糸を思わせる細い銀色の髪がこぼれ落ち、ロメオは軽く息を飲むと体を抱き寄せ、その柔らかい髪に自分の頬を寄せた。
ロメオの耳元で、冷たい、とかろうじて聞き取れるようなか細い声がした。
「ビアンカは」
「ごめん、間に合わなかった。ごめん」
あなたのせいじゃない、と言いたかったが、アデルは痛む頭をロメオの肩に預け、ぐったりとしたまま目を閉じていた。
一瞬でも、諦めた自分が情けなかった。
何より、自分の弱さのせいで、助けられたはずのビアンカを、みすみす奪われてしまった。
強さが欲しいと絶えず願っていた自分は、あの頃から、結局何も変われていない。
だが、反省している時間さえも今は惜しい。
「追いかけないと。外はどうなっているのかしら」
今はまだ泣けない、とアデルは固い声でロメオに尋ねた。
「大騒ぎだよ。広すぎるし暗いし、まだ見つかってないみたいだけど。これだけ大勢で探してたら、あいつももう外には出られないだろう」
「悔しい。…私がこの手で、刺し違えておけばよかった」
「自分を犠牲にする価値なんて、あいつには無いよ」
わかってる、とアデルは声を震わせながら、いまだロメオの肩に自分の頭を預けていた。
まだ少し目眩がするようだったが、このまま人任せにするわけにもいかなかった。
やられっぱなしは一度で充分、とアデルは思い、「行くわ」と言うとゆっくりと立ち上がる。
「大丈夫なの。怪我は」
「思い切り首を絞められたのよ。へし折られないだけよかったわ」
底冷えのするような薄笑いを浮かべ、そして一瞬だけ悲しそうに自分を見ていたウルバーノの顔を思い出し、アデルは胸の奥から収縮するような感覚に、思わず胃を押さえた。
「やっぱり休んでた方が」
「冗談じゃないわよ。あいつに、吠え面かかせてやる」
いつものアデルだ、とロメオはほっとしながらも、自分に向けられていた敵意とは違うものを感じとっていた。
それはやはり、特別な感情が憎悪に変わったからなのだろうか。
アデルの並ならぬ気迫がすぐそばから伝わってくる。
二人は、何を話したのだろうか。
聞きたいことが山ほどあった。
でも、ここで彼女に聞く話でもない。
けれど、今を逃したら自分はおそらく、二度と聞く機会もないだろうとロメオはわかっていた。
いつも、男なんて、と自分に攻撃的だったアデルの心は、半分はウルバーノに向けられたものだったのかもしれない、とおぼろげながらもロメオは感じていた。
気になることに変わりはないが、これだけアデルが怒っているということは、どうせろくでもないことなんだろう、とロメオは黙ってアデルの頭を何度も撫でていた。
「何よ」
「いつから元に戻してたの。全然、わからなかった」
ロメオはアデルの髪に、自分の顔を埋めるようにしてふわりと抱きしめる。
頭を覆い隠していたものが取り払われていることに気付き、アデルは自分を覗き込むロメオから顔を思わず背けた。
「何で勝手に見るのよ」
「だって誰かわからなかったし。…もしかして、びっくりさせようと思ってたとか」
「あんたの為じゃないわよ。そろそろ元に戻しても、いいかと思って」
綺麗だ、とささやくロメオに、アデルは怒ったように「当たり前よ」と言うと、階段に佇む人影に気付き、照れたように素早く身を離した。
「あれは」
二人には目もくれず、一直線に部屋の隅に横たわる小さな体に近づき、ロッカは動かない猫を見下ろしていた。
***
「自分達で把握できないような複雑な造りで、よくもまあ今まで無事に過ごしてこられましたね。全くもって言語道断です」
キーファは、進路を塞がれて手こずっているロメオと偶然出くわすが、加勢してあっという間に敵を蹴散らしてやった。
それにもかかわらず、「また貸しが増えたね」と言うキーファを無視して、ロメオは礼も言わずに一目散に駆け出していった。
キーファは、渋々地面に倒れ伏す男達を「何故私がこんなことまで」と文句を言いながらも器用に縛り上げ、少し休憩したい、と地べたに座り込んでいた。
「あなたにお願いしておいて、間違いはなかったようですね。おかげで、被害も最小限で済んでいるようですし」
キーファは呆れたように声の主を見上げ、「お帰りなさい」とだけ言った。
二人の姿を見つけ、近衛兵に連れられたメイフェアと女官長が、夜の寒さに身を震わせながら、こちらにやってきた。
「イザベラ様を逃がした者がいるようです。お部屋が、もぬけの空でした。…アメリア様も。それから…ビアンカの姿がないと、アデル様が伝令を」
歯をがちがち言わせながら、メイフェアがやっとのことで状況を伝える。
我慢なさい、とメイフェアを叱責する女官長は寒さをものともせず、毅然とした表情をエドアルドに向けた。
「というわけで、本当はあなたにもう一仕事お頼みしたかったのですが、そっちはどうやら手遅れになってしまったようです」
どことなく他人事のような反応を示すエドアルドに、キーファの頬が耐えかねたように歪んでいる。
「あなたは故意に、王宮内を手薄にしたのでしょうか。まるで『どうぞお好きに』と言わんばかりに」
そんなわけが、と反論するメイフェアに黙って首を振り、エドアルドは無意識に自分の頬を撫でていた。
「妃達を危険な目に合わせてまで、私はそんなことを目論んだりしない。…が」
「厄介払いと、後はなんですか」
キーファの暗闇で光る瞳と口調は、刺々しいままだった。
「そんなに私を責めないでくれ」
困り果てたように微笑むエドアルドに、キーファはいつになく真面目に言い返した。
「いいですか、友人として言わせていただくと、あり得ないことだらけです。この城も、取り巻く状況も環境も、あなたはどこか投げやりにさえ感じます。私がこの国の王であれば、こんなふうにはしない」
「お説教なら、後でいくらでも聞きます。ですが今はまだ、行方不明の人々を探し出し終わっていない」
「わざと、見逃したようなものではありませんか。先ほど、ロメオが必死の形相で礼拝堂に向かっていきましたよ。可哀想に。あなたの思惑を知っていたら、アデルもロメオも、どれだけ怒るでしょうかね」
「彼女は平和の象徴としてこの国に君臨し続けると、私が思っていることに変わりはない。ただ、あがき続けてもどうにもならなくなった時、最後の自分の身の施し方は、彼女も覚悟しているんだ。だから、これでいい」
いいわけない、と初めて聞かされた話にメイフェアは愕然としながら、エドアルドの青い瞳を見つめていた。
普段見慣れている、王らしからぬ人懐こさをたたえた瞳は、どこへ行ってしまったのだろう。
「ビアンカは、このまま見殺しにするんですか」
自分をこんなあからさまに睨みつけてくる者も滅多にいないな、とメイフェアの燃えるような赤い髪を眺めながら、エドアルドは場違いな笑みをもらす。
「そうは言っていない。見つかれば、助け出す。駄目だったら、またその先すべきことが、彼女にはあるんだ。どちらに転がってもいいように、道はいくつも用意しておいた」
「道ですって。陛下が思うほど、ビアンカは器用な性格ではありません」
「そうだな。それでも、彼女に出来ることがあるんだ。いや、彼女にしか出来ないと言った方が正しいか。無駄に抵抗せず、ウルバーノに服従するふりをして、オルド教徒を内部崩壊させるというのも彼女の選択肢の一つなんだよ。むしろ私にとっては、その方が都合がいい」
メイフェアの語気が強まり、彼女は怒りをあらわに叫ぶ。
「ですから、ビアンカはそこまで出来るような子じゃありません!」
「わかっている。あくまでも、絶望の底での、話だよ」
「どうしてビアンカが、全てを背負わなくてはならないのですか。では、陛下は何をされるんです。ビアンカが絶望の底にいたのなら、あなたは王として、何をしてくださるの」
「何故私が。彼女一人の為に、自分まで底に落ちる理由もない。私はそんな状況でさえも、残された者達を導く役目があるのだから」
正論だけど、どこか違う。
私にはわからない、とメイフェアは頬を伝う涙を乱暴に袖で拭った。
「閣下は…宰相様は、このことをご存知で?陛下に同意してらっしゃる?」
涙を流しながら王に詰め寄るメイフェアを制し、女官長のマルタが何度も首を振る。
「ある程度は。だが奴の場合は、私の認識とは別のところにあるかもしれないな。何しろ、あいつは私に内緒であれこれやってくれたりするのが得意だから。特にビアンカが絡むと我を忘れ、上に立つ者としては危ういほどだったのは、あなたもよくご存知であろう」
その言葉が好意的な皮肉なのか、あるいは悪意を含んだものなのか、メイフェアには判別しがたかった。
「私は、陛下と宰相様は、これ以上はないという程の心の結び付きがあるのだと思っていました。でも今の陛下は、宰相様ですら信用しておられないような口ぶりです。では、陛下はいったいどなたを信じていらっしゃるの。…私には誰一人、信用に値しないとおっしゃっているようにしか聞こえません」
エドアルドは答えなかった。
彼女を連れて行きなさい、と素っ気無く女官長に命令すると、エドアルドは踵を返して自分の執務室へと向かう。
彼女の質問は、全くもって愚問でしかなかった。
何故なら、とうの昔に自分は、絶望の淵から長い間この国を見上げているのだから。
***
自分の腕の中で、わずかに目を開けたビアンカを見下ろし、ウルバーノは薬が少々足りなかったようだ、と自嘲的な笑みをもらす。
「お早いお目覚めだ」
一生懸命辺りを見回そうとするが、目だけしか動かせないビアンカをおかしそうに眺め、ウルバーノは一層馬の速度を上げた。
「もうひとつ、と言いたいところだが、さすがに短時間で何度も飲まされては、あなたの体も持たないだろうな。残念だ」
ビアンカは何も答えられず、全身から力が抜けたまま、徐々に遠ざかる明かりを見つめていた。
あれは、王宮だろうか。
今ならまだ、それほど遠くではないはず、とビアンカは何度か震える両手を軽く握ったり緩めたりを繰り返しながら、ウルバーノの様子をうかがっていた。
そして動かない自分の体に、最後に鞭打つかのように、突如自分を抱きかかえたウルバーノにありったけの力を込めて体当たりし、馬上から身を投げ出すビアンカがいた。
二人の体が宙に浮き、気付いた時には、不意打ちをくらったウルバーノの体は、暗い地面に叩きつけられていた。
顔に似合わず、結構な命知らずの女性のようだ、とウルバーノは苛立ちながらも、何故かこみ上げてくる高揚感に、自然と不思議な笑みが顔中に広がっていく。
ウルバーノが暗がりの中で目をこらすと、痛みを必死にこらえて起き上がろうとするビアンカの白い服が目に入る。
「逃げられやしない。その弱った体で、私から逃げられるとでも」
ビアンカは、自分を見下ろすウルバーノの灰色がかった瞳を睨みつけるが、逃げ出す間もなく、自由の利かない体を再びウルバーノの腕の中に閉じ込められた。
魚網の中で無駄に暴れる魚のように、ビアンカは弱々しい力でびくともしないウルバーノの体を精一杯押し返す。
ビアンカは力の限り抵抗したつもりでも、傍目には今にも倒れそうな青白い顔で、立っているのもやっとのようにしか見えなかった。
ウルバーノはお早く、と戻ってきた従者達に促され、ぐったりとしているビアンカを抱えあげようとした時、血に飢えた獣の視線を感じる、と思った。
自分達以外の生き物の気配に、ウルバーノは再びその灰色の瞳に、生気を宿らせる。
「逃げられないのはお前の方だ。俺の中に、二度目という文字はない」
「楽しく騎士団ごっこに興じていると思っていたが、つまらなすぎて飽きてしまったか。もう少し骨のあるので遊ばせてやればよかったかな」
緋色の騎士を頭から足の隅までじろじろと眺めると、ウルバーノは挑発するように鼻でせせら笑う。
今にも全身から火を噴き出しそうにお怒りだ、とヴィンチェンツォの凄みのある視線さえも軽く流し、ウルバーノはビアンカを抱いた腕に力を込める。
「お前にしては上出来だな。あれだけ手駒を抱えて、正直うらやましいくらいだ。そんなにお前はお偉いのか。その才能を正しい方向で活かせればよかったものを」
今すぐにでもウルバーノに飛びかかり、無理やりビアンカを奪い返したい気持ちを必死で抑え、ヴィンチェンツォはどこか奴にほころびはないものか、と慎重に観察していた。
「相変わらずの勘違いというか、お前の私に対する過大評価には恐れ入る。私にオルド教徒を動かすような力などない。せいぜい一石を投じるのが私の役目。決めるのは、実際に動く人間達だ。そこが、お前達と違う。だいたい、お前達は効率が悪い。だからいつまでたっても、人材不足なんだ。お前らが無能なだけだ」
ウルバーノの辛辣な口ぶりに腹を立てることもなく、ヴィンチェンツォはややあってから「初めて、意見が合うな」と静かに言った。
「残念だ。来世では、貴公のそのよく回る舌と頭を社会に還元できるよう願っている。ビアンカを返してもらえなければ、今日にでもそうなるということを、覚悟しておけ」