8の話~晴れ間~
「全くどうかしてるわ、あの人達!全員地獄に落ちればいいのよ!」
ビアンカの自室に戻ると、多すぎる背中のボタンを外すのを手伝いながら、メイフェアは怒りあらわにしていた。
気恥ずかしさもあり、ビアンカの話した内容はかなり簡素化されていたが、それでもメイフェアの怒りを買うには充分の出来事であった。
落ち着く場所に戻れて安心したのか、ビアンカは知らず知らずのうちに、声も立てずはらはらと涙を流していた。
「もう大丈夫よ、あなたは何も悪くないし、ともかく無事で本当によかった」
メイフェアは友人を抱きしめ、何度もビアンカの背中を撫でてくれた。
この人が居てくれて、自分も本当によかったと思う。
自分一人だけであったら、耐えきれずにどうにかなってしまっていただろう、とビアンカは忘れたはずの涙を流しながら、唯一の心の拠り所であるメイフェアの肩に顔をうずめていた。
「報告は明日でよいそうよ。だからあなたも休んでね。本当にご苦労様」
ビアンカが落ち着くのを見計らって、メイフェアは優しく微笑んだ。
ありがとう、とビアンカはメイフェアの頬にキスをする。
先程までのビアンカの思いつめた表情は、いくぶん和らいでいるように見えた。
メイフェアの気遣いが、いつも以上に心に染みた。いつまでも落ち込んだ姿を見せてはいけない。
思い出したように、ビアンカは言った。
「そうそう、陛下がね、私の頬にキスしたのよ」
「なんですって!」
と、目を見開き、すばやくメイフェアもビアンカの頬にキスをすると、どうだ、と言わんばかりの表情をした。
「残念。そっちは子爵様だったの」
***
胸のつかえが取れないまま、ビアンカは悶々とベッドで何度も寝返りを打つ。
今日の不愉快な出来事はさっさと忘れて、早く元の生活に戻りたい。
ドレスを仕上げて、空いた時間で洗濯用の石鹸も作らないと。それから、院長様に久しぶりにお手紙を書こう。
なぜか、別れ間際のエドアルドの笑顔が頭に浮かんだ。あの笑顔だけは、よい思い出になりそうだ、とビアンカは思った。
それから最近メイフェアと一緒に読んだ異国の物語を思い出した。
今日の私はあの話の主人公みたいだったわ、と足浮き立つ思いをめぐらせる。
貧しい少女が魔法使いの力を借りて、舞踏会で王子とダンスを踊るといった内容だった。
あれは確かコーラーで流行っている物語で、子爵からのイザベラへの贈り物だったような気がする。
書物には興味を示さないイザベラから、メイフェアが奇跡的に嫌味ひとつ無しで譲り受けた物であった。
楽しい気分もつかの間、次の瞬間にはタラントが話していたフォーレ子爵の事を思い出し、ビアンカは苦々しく思った。
嘘か誠かはわからないが、そこらじゅうに浮気相手がごろごろしているなど、自分には理解の出来ない世界であった。
今日が陛下の笑顔だけで終わったのであれば、どんなに幸せだったろう、と改めて思う。
さんざんな一日だった、とビアンカは目を閉じた。
***
朝食が終わった頃、ビアンカはイザベラに呼び出され、昨晩の事件を説明していた。
なぜかイザベラの耳には既に入っていたらしく、イザベラは不機嫌さを隠さずにいた。
「まあ、起きてしまった事は仕方ないわね。それよりばれなかったでしょうね」
そんなことを聞かれても、他の人々がどう思ったかまではビアンカには知るよしもない。
無言で目を伏せたまま、「精一杯、努めさせていただきました」とだけ答えた。
イザベラはふん、と鼻をならしただけで、それ以上の追求も叱責もしなかった。
いつになくあっさりと解放されてビアンカは若干拍子抜けしたが、ねちねちと責められずに済んでほっとしていた。
昨晩の件は落ち着いたかにみえ、ビアンカは晴れ晴れとした気分で、外の洗い場に向かった。
イザベラの衣装を洗うのも、彼女の仕事の一つであった。
城の洗濯女に頼めばいいのに、とメイフェアは怒っていたが、高価で繊細な装飾が多い為、ビアンカが直接洗うようにと言いつけられていた。
久しぶりに暖かく天気のよい日で、早めに終わらせれば乾燥もどうにか間に合いそうであった。
一つずつ飾りの強度を確かめ、順番に袖の端から丁寧に洗ってゆく。
昨晩ヴィンチェンツォ・バーリにひねられた手首に痛みが残るせいと、冷たくなった井戸水のせいか、いつもよりも手際が悪いような気がした。
遠慮して外の洗い場に来たのだが、お湯の使える中の洗い場を借りるべきだったかもしれない。
頭のスカーフを外して手首にきつく巻き固定してみると、腕がかなり使いやすくなった。
何度かすすぎを繰り返し、端から絞り始める。
小さな吐息をもらしながらふと空を仰ぎ見る。
心が洗濯されるとはこのことなのだな、と眩しげに雲一つない空をしばし眺めた。
「手首が痛むんでしょ?手伝いにきたわよ」
隣でメイフェアが袖をまくりあげていた。
「ありがとう、少し手こずってしまっていたの、助かったわ」
「気持ちはものすごく分かるけど、気に入らない相手を力でねじ伏せようとするなんて、あの男も最悪よ」
ちぎれちゃう、とビアンカを慌てさせるほど、メイフェアは必要以上の力でドレスの裾を絞り上げる。
高価なドレスは明らかに、誰かの首の代わりに八つ当たりされているようだった。
壊さないようにやるから貴方はそこで休んでいなさい、とメイフェアは言うと、再びドレスと格闘し始める。
しまいには「この!この!」と罵声を浴びせながら脱水している。
「ご……ごきげんよう。いいお天気ですね」
やさぐれた顔のままでメイフェアは振り返ってしまい、しまった、と思ったが既に時遅しである。
声をかけた主の顔が引きつっていた。
高級女官にあるまじき姿を見られてしまい、「昨晩はお騒がせいたしました…」と動揺しながら答えると、メイフェアは心の中で涙を流した。
昨晩と同じく、ランベルト・サンティとロッカ・アクイラと名乗った二人並んで立っている。
「ストレス解消によさそうですよね、イヤ、変な意味はないですけど」
見てはいけないものを見てしまったようで、ランベルトも蜂蜜色の髪を振りながら、何故か動揺している。
「あなたも、イザベラ様の侍女ですか」
挙動不審になる二人を無視して、ロッカがビアンカに声をかけた。
はい、と消え入るような声で答え、ビアンカはひたすらうつむいていた。
昨日ヴィンチェンツォ・バーリと一緒にいた男達だ。