106の話~仮面~
「遠いな。こんなことなら、正面から堂々と入るべきであったな」
ウルバーノの自嘲気味な声が響き、後ろにいた男がウルバーノの機嫌を取るような声を出す。
「それでも、王都のあちらこちらに爪跡を残すことができました。まずまずといったところでございますかな。お役に立てて何よりでございます」
「確かにそうだね。余計なことしないで、さっさと来ればよかったのに。おかげで僕は、間に合ったけど」
ウルバーノは暗闇で眉をひそめ、聞きなれない声の主を探す。
月に照らされひっそりと佇んでいる男の、派手な色合いの金色の髪と、生意気そうな碧い瞳には見覚えがあった。
「ロメオ・ミネルヴィーノ。久しいな」
「覚えててくれたんだ」
「あんたも懲りずに、ウルバーノなんかとつるんでたんだね。知ってたけど。あんたの独断?それともあの棺桶に片足突っ込んだような王様かな」
ウルバーノの隣にいる男が、気まずさを隠すように片手で自分の頬を撫でている。
フォーレ子爵の後任となった、コーラーの大使だった。
「だからさっさと片付ければよかったのに。エディがもたもたしてるからこんなことに。僕の苦労が水の泡になっちゃう」
ロメオはふてくされたように呟いた。
「で、あんた達は何処へ行こうとしてるの。まさかビアンカを探してるとか」
ウルバーノは悪びれる様子もなく、黙ってロメオを眺めていた。
「アデルとは旧交を温めあっているらしいな」
「お前には関係ないだろ」
脈絡もなく突然アデルの名を出され、ロメオは乱暴に言い返した。
「おめでたい男だな。お前のそのひねりのない思考回路は、昔から変わらないようだ。まだ気付かないのか」
剣を抜きかけたロメオの手が止まり、反射的にウルバーノを睨みつける。
そんなロメオの反応を楽しむように、ウルバーノは続けた。
「騙されていたとも知らずに、あの女に溺れたか。お前も含め、王宮内の出来事は逐一報告されている。アデルによって」
絶句するロメオに向かい、ウルバーノは陰湿な笑みを投げかけた。
「あれは俺の協力者だ。何の為にあのような行動を取っていたか、考えればわかりそうなものなのに。無理もない。徹底的にお前をたらし込めと言っておいたからな」
「嘘だ。アデルは、そんなことしない。僕達の、ビアンカの仲間だ」
この男は何を言っているのだろう。信じない、こいつの常套手段だ。騙されてはいけない。
動揺を隠し切れないロメオをあざ笑うかのように、ウルバーノはふん、と鼻先を鳴らす。
「信じるか信じないかは、お前の自由だ。お前に楽しんでもらえて何より。誰があそこまであの女を仕込んだと思っている。あのアデルをだ。いい女になっただろう」
「黙れ!」
ロメオの瞳が激しさを増し、怒りを込めてウルバーノに切りかかろうとする。
しかしウルバーノの同行者達によって行く手を阻まれ、その剣はウルバーノには届かなかった。
コーラーの大使に急かされ、ウルバーノは悠然とその身をひるがえした。
「そこでじっくり考えるといい。死ぬまでの短い時間でな」
口元を歪ませ、楽しそうに笑いながら去っていくウルバーノの後ろ姿を睨みつけ、ロメオは思わず絶叫した。
***
水道橋では、早くも応急処置が行われていた。
石工の親方衆や内務省の役人達が、ずぶぬれになりながら橋の下を駆け回っていた。
「弁解の余地もない。今は、復旧が先だ。こらえてくれるか」
自分も滴り落ちる水に濡れながら、ヴィンチェンツォは人々に向かって長い間頭を下げていた。
「問題ありませんよ。先ほど水門を閉じました。数日不便をおかけしますが、命がけで直します」
若い役人が気遣うように微笑み、お顔を上げてください、と言った。
幸いにも、砲撃のみで伏兵達は立ち去り、城下は人的な被害にみまわれることはなかった。
「よかったわ、略奪がなかっただけでもましよ。あいつら、何がしたかったのかしらね。これくらい、どうってことないわ」
アルマンドが濡れたヴィンチェンツォに「お着替えされたら」と声をかけるが、ヴィンチェンツォは黙って首を振った。
「あんまり落ち込んじゃだめよ」
アルマンドや親方衆の励ましの声にも、どことなく上の空で返事をする。
責められた方が、どれだか楽だったか。
信頼を裏切った自分に、優しくする必要なんかないのに、とヴィンチェンツォは自責の念にかられる。
けれど、自分が落ち込んでいては、周りに影響してしまう。
まだ終わっていない、とヴィンチェンツォは気持ちを切り替えて、次の場所へ向かう。
それから薄煙をあげる騎士団の詰所に立ち寄り、ヴィンチェンツォはこみ上げてくる悔しさをかみしめていた。
火は消えたようだったが、いまだにくすぶり続ける煙が辺りに立ちこめている。
詰所の半分以上が崩壊し、瓦礫の山と化していた。
「申し訳ありません。敵の侵入を許してしまいました。王宮の方々が、ご無事だとよいのですが」
張り詰めていた糸が切れたのか、エミーリオがすすだらけの顔をぐしゃぐしゃにして泣き出した。
混乱するエミーリオ達の前に、数十人の男達があらわれ、あっという間に地下道を抜けていったという。
地下道の入り口の鉄扉は外され、切られた鎖が草むらに転がっていた。
敵を追う事もできず、自分の身を守るだけで精一杯だった自分を恥じ、エミーリオ達はひたすらうなだれている。
「大丈夫だ。陛下たちも戻られている。こちらこそ、すまなかった」
震えるエミーリオを抱きしめ、ロッカが「無事でよかった」と何度も繰り返していた。
心苦しさと戦いながら、ヴィンチェンツォはエミーリオ達に言った。
「アカデミアもだ。医局の倉庫から引火して、被害が拡大してしまった。あそこはまだ、近づけるような状態ではない」
エミーリオのそばにいた少女達が再び泣き出し、ロッカは切なげに少女達を見た。
そうですか、とロッカの腕の中でエミーリオは呟く。
この子達の大切なものまで奪われてしまった。
自分は何をしているのだろう。
ヴィンチェンツォはぼんやりと、瓦礫の山を見つめていた。
ロッカが一生懸命、子ども達を励ますように「命あってこそです」と言う。
だがロッカのように、自分が労わりの言葉をかけるのは、許されないような気がした。
負傷者の手当てを、と言い残すと、ヴィンチェンツォも王宮目指して走り出した。
信じたくはなかったが、混乱に乗じて王宮へ侵入したとなると、目的はただ一つしか思い浮かばなかった。
あんな雑魚共に気を取られて、俺は何をやっていたのか。
「俺に付き合わず、ロメオと王宮へ戻ればよかったのに」
「自分は副官ですから」
ロッカの不安が限界なまでに膨らんでいるのが、言葉に出さずとも伝わってくる。
もし彼女に何かあったら、ロッカは決して自分を許さないだろう。
真っ先に、彼女のもとへ駆けつけることのできないこの身が疎ましい、と思ったのは何度目だろうか。
どうか無事で、とヴィンチェンツォは祈り続けるしかなかった。
***
何かがおかしい、とアデルは不審に思う。
先ほどまで、妙に騒がしかった外の気配が一変し、不気味な静けさを取り戻している。
「何かあったの」
と、アデルは外で警護している騎士の一人に声をかける。
「残念ながら、先ほどから連絡が取れません。何か起きたようですが」
騎士は申し訳なさそうに言うと、「様子を見てきます」と立ち去っていった。
アデルは礼拝堂の中に戻り、ビアンカはどこだろうと、と明かりを片手に巫女の姿を探す。
地下から人の声がする。
お祈りの時間だったかしら、とアデルは石段をこつこつと降り、そこで信じられない光景を見た。
必死でもがき続けるビアンカを捕らえる男達と、ウルバーノだった。
ウルバーノは龍の彫像に寄りかかり、無感動に「久しぶりだ」と言った。
「ウルバーノ様…」
「積もる話もあるだろうが、今日はビアンカを迎えにきた。お前も来るか」
アデルの苦痛に満ちた顔を、何故か嬉しそうに眺めるウルバーノがいる。
「馬鹿にしないで!ビアンカを放しなさい。この王宮から逃げ出せるとでも思っているの」
「人質がいる。あなた方もむやみに手は出せまい。それに、あっけなく侵入できた。肩透かしなほどに」
「その人数で、逃げ切れるわけがないわ。もうすぐ応援が来る。終わりよ」
「王宮の中は大混乱だ。実質、お前一人きりではないか。むやみに虚勢を張る姿も変わらないな」
「裏切り者のくせに。私を騙して、利用して。あなたのせいで、どれだけの人が傷ついたと思っているの」
「目指すところは同じだったはずだ。巫女を守る、確かに同じだろう」
「違うわ!あなたは、壊しているだけよ。お願いだから、ビアンカを放して」
「俺を見逃してくれないのか、アデル」
甘い声でささやくウルバーノから目をそらし、やめて、と叫ぶと、アデルは思わず耳を塞いだ。
「どうして、お二人は」
ウルバーノの話など、アデルの口から一度たりとも聞いた覚えがなかっただけに、二人のただならぬ雰囲気に、ビアンカは驚きを隠せなかった。
「昔の恋人だ」
「どいつもこいつも、調子いいことばっかり。あの時、あなたを殺しておけばよかったと、ものすごく後悔してるわ」
吐き捨てるようにアデルは言い、腰に下げた剣に手を当てた。
「これで最後よ。ビアンカを解放しなさい。どのみちあなたに、逃げ場はないのよ」
「やってみるといい。その剣を、この俺に振り下ろすことができるのであれば」
激高したアデルが剣を抜くやいなや、ウルバーノめがけて突きたてた。
「二人ともやめてください!」
ビアンカの声が、地下室に響き渡る。
アデルの片頬がぴくりと動き、ウルバーノに憎しみの眼差しを向けるが、その瞳はどこか精彩を欠いていた。
一瞬の隙を狙い、ウルバーノは怯んだアデルの細い手首をひねりあげ、剣を叩き落す。
乾いた音を立てて落下する剣を見つめ、アデルはその場に立ちつくしていた。
「どうしていいのかわからなくなったんだろう。簡単だ、ビアンカを俺に渡してくれればいい。お前にその気があるなら、オルドで待っているぞ」
アデルの唇が、かすかに動くが、何を言っているのかは聞き取れなかった。
「ヴィオレッタ様、逃げてください!」
ビアンカが、放心状態のアデルに向かって懸命に呼びかける。
ウルバーノが無表情のまま、アデルを壁に押し付けた。
首を強く絞められ、アデルは必死でその手を振りほどこうとする。
「お前を殺したくない。それはお前も、同じだろう」
言葉とは裏腹に、ウルバーノから発せられる隠しようもない殺気が、アデルをじわじわと蝕んでいく。
かつて数え切れないほど触れ合った唇が、再び自分の唇に触れるのを最後に、アデルは急激に意識を失っていった。
「ヴィオレッタ様!」
泣き叫ぶビアンカの腕を掴み、ウルバーノが何事もなかったかのように歩き出す。
「どうしてこんなことを。何の為に私を、巫女を利用するのですか」
「母君がオルドであなたをお待ちだ。一日も早くあなたに会いたいとおっしゃっている。私はその言葉を受けただけ」
「嘘です、ウルバーノ様のおっしゃることは、全て嘘です。私はあなたを信用していません」
「あの男に感化されたか。奴が何を言ったかは知らぬが、全て奴の主観でしかない。そもそも、あいつは私を嫌っていたからな」
「あなたのように卑怯な手を使う方を、どうして信用できましょう。ヴィンチェンツォ様は、あなたのように後ろ暗いところなど何一つありません。あの方は、立派な方です。あなたとは違う」
抵抗し続けるビアンカの両手を掴み、見下ろすその瞳に、怒りが満ちていく。
いつだって、あの方に嘘はなかった。言わないことはたくさんあったけど、嘘をつかれたことはただの一つもなかった。
それに引きかえ、自分はどうだったのか。
あの方と同じくらい、本音で向き合えなかった。
嘘にまみれているのは私の方だった。
「あなたは何も知らない。あなたの知らないところではあの男も、身の毛もよだつような悪人っぷりだ」
違います、と叫ぶビアンカの声が引きがねとなったのか、階段の上から唸り声を上げていた猫が、主人のもとへと走ってきた。
突如襲い掛かってきた猫に足を噛みつかれ、思わず顔をしかめると、ウルバーノは忌々しげに猫を睨みつけた。
「畜生が」
なおも必死で食いつく猫を振りほどこうと、ウルバーノは半ば強引に足ごと壁に叩きつける。
「やめて!」
ビアンカの悲痛な叫び声が地下室に響き渡る。
猫はずるりと床に落ち、やがてぴくりとも動かなくなった。
凍てつかせるような瞳で猫を見下ろしているウルバーノは、自分の知らない男だった。
かつての恋人を虫けらのように扱い、喜びの笑みさえ浮かべている。
自分の知る従兄弟の面影は、もはやどこにもない。
それも、自分が気付かなかっただけで、所詮は作りものの仮面であったのか。
ビアンカの心には、身内であるという意識から、いまだウルバーノに対するわずかな信頼が残っていた。
それもいつの間にか、風にさらわれた砂のように何処かへ消え去っている。
「あなたは、最低です」
ほめ言葉だな、とウルバーノはビアンカの耳元でささやいた。
「少し静かにしていただこうか。手荒な真似はしない」
ビアンカの頬を伝う涙を自分の手で拭うと、ウルバーノは顎をとらえ、ふところから取り出した何かを強引に流し込む。
咳き込むビアンカの唇を自らの唇でふさぐ。
琥珀色の瞳が一瞬濃い色合いに変わったかのように見え、ウルバーノはゆっくりと唇を離すと、艶然とした笑みを浮かべた。
「あなたには少々強すぎるかな。その快楽に、しばらく身を委ねているといい」
禁制品、とビアンカは呟きながら吐き出そうとよろめくが、またもやウルバーノに唇をふさがれる。
この男の唇ほど罪深いものがあっただろうか。
惑わせる言葉を紡ぎだし、貪り、人心を操る。
私はこんなところで、この男の言いなりになど、ならない。
ビアンカは自由の利かなくなった体を引きずり、けんめいに歩き出す。
世界が回る、鼓動がいつもと違う、とビアンカはよろめく体を壁に預けた。
自分を追うわけでもなく、ウルバーノは黙ってその様子を観察している。
徐々に混濁していくビアンカの意識の中で、ウルバーノの瞳は例えようもない喜びを含んだ残虐な輝きを放っていた。