105の話~緋色の舞~
紅い風が吹いた、と誰もが思った。
先頭をきって駆けてゆくランベルトを苦笑しながら眺め、ヴィンチェンツォは「続け」と鋭い声を発する。
ランベルトに続き、瑠璃達が敵兵めがけていっせいになだれ込んでいくさまを、クライシュは旗を肩に担いだまま、厳しい顔をして見守っていた。
鎖を解かれた狼のように、ランベルトが嬉々として斜面を駆け下りていく。
ランベルトの無駄のない、一閃目、二閃目と続く鋭く舞う刃にオルド教徒達は怯み、この紅い狂犬から逃れなければ、と恐怖に顔を歪ませた。
返り血を浴び、薄笑いを浮かべているランベルトと目が合い、絶望のあまり背中を向けて逃走する者もいた。
そんな哀れな獲物にでさえ、ランベルトは容赦なく後ろから切りつけると、再び狂人のように眼を見開き、「もう数がわからなくなっちゃったな」と周囲がぞっとする笑みを浮かべた。
ランベルトを見張っていろ、とヴィンスはおっしゃったが、あれをどうやって見張れというのか、とロッカは最初から投げ出し、自らのペースで次々と敵を葬り去っていく。
敵と味方の区別さえつけばよい、と長年の友人を見捨て、蜘蛛の子を蹴散らすように敵兵めがけて飛び込んでいった。
それにしても思ったより手ごたえがない、とロッカは不審に思いながらも、情けは無用とばかりに次々と目の前の敵を片付ける。
混戦する中に、ランベルトの猛り狂う姿を見つけ、ヴィンチェンツォは「ああなったら誰にも止められないな」と独り言のように言った。
そして暴走しがちなランベルトを懸念していたロッカも、奴といい勝負だ、と満足そうに二人を見つめていた。
圧倒的な強さを見せつける二人の周りからは、徐々に敵兵の姿が見えなくなっていく。
その一方で、小さな瑠璃を囲み、格好の獲物とばかりににじり寄るオルド教徒達がいた。
冷めた瞳で男達を一瞥すると、瑠璃の手から尋常ではない速さで、槍先が空を切る。
声を上げる間もなく、己の力を過信した敵兵が、小さな瑠璃によって一掃されていくさまを、ヴィンチェンツォは安堵して眺めていた。
「私も行きます。だいたい、ランベルトが旗持ちと決まっていたはずなのに、何故私が。私のルゥ一人で、あんなに頑張っているのに」
はらはらしながら、自分の妻を見守っていたクライシュは、とうとう耐えかねたように叫んだ。
「ちょっと、そこの君。これを持っていてください。落としたらいけませんよ」
すぐそばにいた王宮騎士団の若者に声をかけ、有無を言わせず強引に旗を押し付けると、クライシュは転げるように駆け出して行った。
クライシュは、瑠璃の背後に忍び寄る兵士を「邪魔です」と言いながらなぎ払い、妻の小さな体と背中合わせになる。
「あなたを一人にはしない。約束したでしょう」
「これくらい、余裕です」
瑠璃は、息をはずませている後ろのクライシュに、柔らかい声で言った。
バスカーレの両手に握られた長剣が、ランベルトに勝るとも劣らない速さで敵をなぎ倒していく。
鬼神、と王宮騎士団の部下達はバスカーレの初めて見る両刀に、思わず見惚れそうになりながら、必死で自分達も喰らいついていく。
あのような達人になるにはまだまだ修行不足だ、とステラは思いながらも、負けじと剣を振るう。
「余裕がなさ過ぎだよ。副団長が全員そんなことでどうするの」
ロメオはステラの頬についた血を眺めつつ、「僕はちょっと後ろで見てるよ」と言い残し、どこかへ消えていく。
軟弱な、と舌打ちするステラであったが、やがて見たこともない長弓を担ぎ、弓隊を率いるロメオを確認する。
「慌てなくていいから、確実にね。味方に当てたら駄目だよ。君らなら、楽勝だから」
こいつを信用するしかない、とステラは厳しい顔のまま、バスカーレの後を追っていった。
「俺もそろそろ行ってきます。動かないと、体が冷える」
一人取り残されることに少々の寂しさを覚えながら、「よろしく」とエドアルドはヴィンチェンツォの後姿を見送った。
「皆様、当たり前のことですが、お強い。盾も持たず、ひと太刀も浴びずにあのように…」
真横にいた指揮官が、引きつった顔で言った。
「盾などいらない。あの小さい人が、私達を長年徹底的に鍛えてくれたおかげでね」
演舞のような軽やかな身のこなしの瑠璃を指差し、エドアルドは満足そうな笑顔を見せた。
驚くほどあっけない、と思いながらヴィンチェンツォは少なくなった敵兵を切りつけては突き進む。
これで終わりのはずはないんだ、ウルバーノは何処にいる、とヴィンチェンツォは周囲を確認するが、それらしき人影は見当たらなかった。
確信は持てぬが、この者達は捨石に等しいとさえ感じ、ヴィンチェンツォはエドアルドのもとへ引き返そうとする。
ヴィンチェンツォは、決死の覚悟で自分と対峙する若者を眺め、そのかたかたと震える剣先を怜悧な瞳で見据えた。
「ウルバーノは何処だ」
ヴィンチェンツォの問いに答えず、悲鳴にも似た声をあげながら、敵兵が剣を振り上げる。
何故そこで、無防備な体ではなく剣の柄に狙いを定めたのか、ヴィンチェンツォにもわからなかったが、瞬く間に武器を失った若者は衝撃を受けながらも、無傷で枯れた草原に倒れこみ、震えながら緋色の騎士を見上げていた。
「ここにはいないのだな。答えろ」
憎々しげに若者はヴィンチェンツォを睨みつけた。
「…そのうち、貴様にもわかるだろう。その頃には、手遅れだが」
その言葉に弾かれるようにヴィンチェンツォは踵を返し、エドアルドのもとへと一目散に走り出した。
***
今までに、誰も聞いたことがない轟音が城下町に鳴り響いた。
「何なのよ!」
と叫びながらアルマンドは思わず倉庫から飛び出した。
ほうぼうからあらわれた、商店街の店主や親方が一点を見つめ、石畳の上で立ちつくしている。
なんてこった、と膝をつく人々の目の前で、崩れ落ちていく水道橋と滝のように降り注ぐ大量の水にアルマンドは言葉を失い、両手を固く握り締めるのであった。
そんな馬鹿な、と目の前の光景に呆然とする人々の耳に、再び先程と同様の轟音が届き、思わず皆は身を伏せた。
おそるおそる目を開けると、月明りよりも激しい炎が遠くにあった。
「あれは…アカデミアが燃えてる」
誰かが呟く声を聞き、アルマンドは唇を震わせながらゆっくりと立ち上がった。
城下の一角から火の手が上がり、しばらくして王宮騎士団の詰所から煙のようなものが立ち上がるさまが、窓の外を眺めていたメイフェアの目にも、はっきりと映っていた。
「フィオナ様、火が」
メイフェアが指差す方向をフィオナは黙って見つめていた。
まだ新築して間もないというのになんてことを、とメイフェアは恐怖と共に怒りがこみ上げてくる。
見習い騎士の大半は、詰所で留守番をしていたはず、とメイフェアの頭に、エミーリオのはにかんだような笑顔がよぎった。
「皆を急いで集めてください。私達も、避難します。女官長と近衛団長を呼んでください」
わなわなと震えるメイフェアに向かって静かに言うと、フィオナは壁にかけてあった剣を手に取った。
「避難するって、どちらへ」
「私が誘導します、私と陛下しか知らない場所があるのです」
「ここは安全だとお聞きしましたが」
「いいから早く。今ならまだ、全員無事に身を隠すことができます」
泣きそうになるメイフェアを叱咤するように、フィオナは幾分張り詰めた声をあげた。
こんな危ない賭けをする陛下に、後でたっぷり恨み言を申し上げないと、とフィオナは思いながら、剣を腰に差した。
「ヴィンス、城下が」
斜面を上るヴィンチェンツォのところへ、ロメオが息せき切ってやってくる。
「伏兵か」
「砲撃を受けたらしい」
絶対に被害を出さないと言った言葉を守ることができず、もっと早くに戻るべきだった、とヴィンチェンツォは後悔の念に囚われる。
「お前は城下の状況を確認してくれ。私は王宮へ戻る」
エドアルドは指揮官に後を託し、素早く馬に飛び乗った。
「半分連れて行け。あらかた片付いたら、俺たちも戻る」
バスカーレは言い残すと、再び戦場へと戻っていった。
了解、と答え、ヴィンチェンツォ達はエドアルドに続き、急ぎ馬を走らせる。
どこかが燃えている、と煙の上がる方向を見つめ、頼りない月明りの下で目をこらしていると、白っぽい色の鳥がこちらに向かって飛んでくるのが見える。
やがてその鷹は主人を見つけ、笛を吹くロッカの肩に舞い降りてきた。
***
ざわつく女官達をなだめつつ、フィオナは「これで全員ですか」と大声をあげる。
どこかのほほんとして機敏さが足りない、と心の中で舌打ちしながらフィオナは苛立ちを隠し、あらためて声を張り上げた。
「余計なものを持ってはいけませんよ。大丈夫です、少しの間、隠れるだけですから」
大広間に集められた女官達は不安そうに顔を見合わせつつも、いまだに状況が飲み込めていないようであった。
「ここから地下に降ります。外は、近衛が見張っていますから、とにかく中へ」
早く、と女官達に声をかけ、近衛兵と共に辺りを警戒するフィオナは、カタリナの姿が見えないことに気付き、何か嫌な予感がした。
「カタリナはもう行ったのでしょうか」
女官長のマルタが眉をひそめ、静かに首を振る。
「いえ、フィオナ様と一番最後に、とおっしゃっておりましたけど」
広間の入り口へ戻り、フィオナとメイフェアは、回廊に佇む近衛兵達を確認する。
メイフェアはぐるりと辺りを見回し、やがて淡い金髪の少女が遠くから駆けてくるのを安堵したように見つめた。
「すみません、忘れ物をしてしまいました」
何も持たずに、と言ったはずなのだけど、とフィオナは呆れ顔でカタリナを手招きする。
その時、カタリナの後方にゆらりとあらわれた人影に、フィオナの顔が一気に強張った。
「カタリナ、早く!」
緊張感のかけらもないカタリナは、不思議そうに振り返り、フィオナの視線の先にあるものを見つける。
胸に抱きしめた本が、カタリナの腕からするりと抜け落ちていった。
近衛でもない、見知らぬ男達。
驚きのあまりカタリナは、その場を動けずにいた。
近衛兵が数人、がくがくと足を震わせるカタリナのもとへと走り出した。
制止するメイフェアの声も聞かず、フィオナもカタリナへ向かって駆け出していく。
次々とあらわれる侵入者達を硬直したまま見つめ、カタリナは呆然と立ちつくしていた。
その中で、自分に向かって剣を振り上げる男がいる。
殺される、と思わず目を固く閉じたカタリナは、やがて自分の足元でうめいている声を聞いた。
溢れ出る涙で、視界が曇る。
カタリナの目の前には剣を握り、深手を負った侵入者を見下ろしている、褐色の肌をした男の姿があった。
カタリナの横をすり抜け、近衛の騎士達が侵入者達を追って突進していく。
すかさず、フィオナが崩れ落ちるカタリナを力強く抱き寄せた。
「ありがとうございます。お客人にまで、このようなご迷惑を」
「エドアルド様のお願いですから、聞かぬわけにもいきませんし」
帝国からやってきた客人は、剣を納め、泣きじゃくる少女の頭をそっと撫でた。
「間に合ってよかった。これに懲りて、少しは賢いご判断をされた方がよろしいですよ、姫」
ごめんなさい、とフィオナの腕の中でしゃくりあげるカタリナを呆れたように眺め、キーファは続ける。
「エドアルド様がご心配なさるのも無理はない。そのように能天気では、この世の中生きてはいけませんよ」
「あなたのような胡散臭い方に、お説教される筋合いはありません」
泣きながらもとっさに反抗するカタリナを、子どもだな、とキーファは一蹴する。
「気位だけは高いとみた。そのまま大人になったら、例の元お妃様のようになってしまうのかな。フィオナ様、今のうちにきちんと躾をしないといけませんね」
犬猫ではありません、と涙を流しながら口走るカタリナを、楽しそうにキーファは見つめていた。
怒るタイミングを逃してしまった、とフィオナは苦笑しながらキーファを見上げた。
「耳に痛い助言でございます。カタリナ、人の忠告は素直に聞くものですよ」
フィオナの名を呼びながら、メイフェアが近衛兵と共にやってきた。
「取り逃がした者達が、こちらには目もくれずにどこかへ消えていきました。その中に、ウルバーノ様の姿を見たという方がいらっしゃるのです」
「追わせていますが、なにぶん広い王宮内ですので…」
騎士が硬い表情のまま、頭を下げた。
「謝罪は後ほど。伯爵を探してください。誰か、礼拝堂へ向かってくれる者はいませんか」
はっとして顔を上げ、私が、と声を震わせるメイフェアに、フィオナは無言で首を振った。
「あなたには、女官達を頼みます。あなたがあそこへ行っても、何の役にも立ちませんよ」
うっすらと涙ぐむメイフェアの肩をそっと抱き、フィオナはその手に力を込めた。
「私が参りましょう。陛下も、こちらに向かっているようですし」
キーファは「では」と笑顔を残して部下を連れ、暗闇に消えていった。
早く誰か。ビアンカを助けて。
メイフェアは涙をこらえ、フィオナ達と共に広間へと戻っていった。