103の話~苦悩する人々~
ロメオは、昼過ぎに詰所にあらわれたバスカーレを見るなり、ぽかんと口を開けていつまでも団長を眺めていた。
「ステラはどこだ」
「えーと、鍛錬場へ」
そうか、とバスカーレは呟き、あごに手を当て、しばらく浮かない顔をしていたが、やがて立ち上がり、どこかへと去ってゆく。
バスカーレと入れ替わるように、ランベルトが部屋に入ってくるが、驚きを隠せず、思わず「えっ」と叫ぶと、しばらくバスカーレの後姿を穴のあくほど凝視していた。
「あれはいったい…団長だよね?」
そうみたいだね、とロメオは気の抜けたような声を出し、自分の椅子に座った。
「なんだかいまいち、しっくり来ない…っていうか、何があったんだろう」
「そーかー?俺らが小さい頃、あんな感じだったなって今思い出したけど」
何度も首をかしげているロメオたちを見つけ、エミーリオが「どうなさいました」と声をかける。
「団長がね…団長じゃないみたいなんだ。ひげが無くなってしまった。いったい、どうしたんだろう」
***
稽古を終えて、ステラは詰所の入り口に急ぎ足で向かう。
体が冷え固まってしまう前に着替えよう、とステラは見習い騎士達に「風邪をひくなよ」と声をかけた。
ステラ、と聞きなれた声を耳にし、ステラはなにげなく振り返った。
この人は誰だ、とステラは見慣れぬ男性の顔をしげしげと眺め、そして自分の婚約者であり、上司であると気付く。
「団長、ですよね」
「そうだが」
「一瞬、どなたかわかりませんでした」
ステラは動揺しながら答え、思わずうつむいた。
「…似合わないか」
「いえ、そんなことはありませんけど。…着替えてきます」
ステラは素っ気無く言い、詰所の中へ駆け込んでいった。
全力で走り去るステラの後姿を眺めつつ、ヴィンチェンツォは執務室の扉に手をかけた。
中では、笑い転げているロメオたちがいた。
「のん気だな、毎日楽しそうで」
「お前、見た?団長のひげ」
「見てないが、それが何か」
「全部なくなっちゃったんだよ、もう別人かっていうくらいに、つるんとして」
たかがひげの一つや二つで、と言いかけたヴィンチェンツォは、のそりとあらわれたバスカーレの顔を見るなり、思わず吹き出しかけ、慌てて表情を引き締める。
「ほら、ね」
「俺は笑ってなどいない。驚いただけで」
「そんなに違和感があるのか」
憮然とした表情で、バスカーレが自分の席に座る。
バスカーレの顔をあらためて食い入るように見つめ、「何があったんです」とランベルトが言った。
「別に何も」
ロメオが机に足を乗せ、のんびりとした口調で言った。
「この前、二人で宴に出たあとから、何かおかしいよね。誰かに何か言われちゃったとか。あんたみたいなおっさんには不釣合いな、若くて綺麗なお嫁さんですね、とか」
「誰もそんなことは言っていない」
「まあ、いいじゃないの。すっかり若返ってしまって、びっくりしたけど、似合ってますよ。別人みたいに、爽やかな好青年じゃないですか。実はすごい童顔だったんですねえ」
ランベルトは、落ち込む団長を慰めるつもりでにこやかに微笑む。
みんなから酷いことを言われている、とバスカーレは傷つくが、ステラのぎこちない態度にも少なからず傷ついていた。
まるで、喜んでいない。
「ステラは変な顔をしていたが。似合わないのだろうか」
「大丈夫です、ステラだけと言わず、王宮中の女性が群がってきますよ」とヴィンチェンツォは投げやりに言う。
「ちなみに、アンジェラは何と言っていました」
「誰?って」
哀しみを背負い、再びどこかへ消えてゆくバスカーレであった。
そして戻ってきたステラに開口一番、「何があったの」と口々に好奇心いっぱい問い詰める人々である。
「やはり、私がいけなかったのだろうか。あのように様変わりしてしまうとは…ひげひとつ無くなっただけで、恐ろしいものだ」
「そんな大げさな…いいじゃん、別に。すっきりして、爽やかで。ステラだって、自分の旦那様が人から恐がられるより、好かれた方がいいでしょ。お似合いだよ」
ロメオの言葉が耳に入る様子もなく、ステラは何度も首を横に振っていた。
「団長の命のひげを、私の不用意な言葉のせいで失ってしまうなど…あってはならぬことだ」
わなわなと震えるステラを見つめ、ランベルトはかすかに眉根をひそめる。
「だから何がそんなに嫌なんだよ。あっ、そうか、熊みたいにもっさりしてる方が好みなんだっけ」
「ひげがあってもなくても、団長は団長だ。私の心は、揺らぎはしない」
真面目な顔できっぱりと言い切るステラを見つめ、ロメオは「清々しいくらいの、のろけっぷりだね」と言った。
エミーリオはにこにこしながら、ヴィンチェンツォにお茶のおかわりを勧める。
世間の緊迫した雰囲気とは別世界のような、こいつらの低次元な会話はどうしたものだろう、とヴィンチェンツォは黙って彼らのやりとりを聞いていた。
そうだ、とステラは思い出したように呟き、「ちょっと礼拝所まで行ってくる」と身支度をする。
「ビアンカ様なら、あっという間にひげが甦る秘術などをご存知かもしれぬ」
では、と勇み足で去ってゆくステラに向けて、「幸せそうで、いいよねー」と、まるで祝福しているようには聞こえない、心のこもらない言い方でロメオは送り出した。
「それにしても、ステラは何を言ったんだろう。よっぽどのことがないと、団長だってひげを剃らないと思うんだけど」
ランベルトは腕組みしたまま天井を見上げる。
さあね、とロメオはあくびをしながら呟き、「面白いネタが途切れなくて、あの人たちは本当に面白い」と言った。
ヴィンチェンツォはお茶の香りを嗅ぎつつ、ゆったりと足を組みなおした。
「そうやって他人を馬鹿にしていると、痛い目を見るぞ。お前みたいな猫毛は、将来的に薄くなるっていう統計があるんだ。身に覚えはないか」
そういえば、とロメオははっとして、母方の祖父や父の寂しげな頭髪の様子を思い浮かべる。
自分も最近、額の辺りが微妙に…。
「僕も…ちょっと行ってこようかな」
立ち上がり、外套を手に取るロメオを哀れみの眼差しで見つめながら、ランベルトは
「そんなものが世の中にあったら、はげで悩む人はいないと思うけど」と言った。
「お前も他人事だと思うなよ。そういうくるくるした髪も、危険だって知らないの」
え、とランベルトは大きな瞳を見開き、「そうなの?そうなんですか」とヴィンチェンツォに尋ねる。
俺が知るか、と呆れて言い捨てるヴィンチェンツォを振り返りながら、ロメオは「まさか自分だけ大丈夫だなんて思ってないよな」と恨みがましい目つきで見つめた。
「父がふさふさしているから、たぶん俺も大丈夫なんじゃないのか。そもそも俺は、はげる前に過労で死ぬと思うから」
優雅な手つきで器をテーブルに戻し、ヴィンチェンツォは涼しい顔をして言った。
「ここは平和だな。それもいつまで続くやら」
エミーリオは軽い吐息をつくヴィンチェンツォに、メイフェアから届けられた焼き菓子を勧める。
「でも、こうしてヴィンス様とお茶を飲むのも、久しぶりですね。たまには、のんびりなさらないと。…いつも思うのですが、毎年聖誕祭の準備で慌しくて、ヴィンス様のお誕生日のお祝いをする暇もないので、残念です」
「今更そういう年でもないし。むしろ自分の年など、忘れたいくらいだ」
ここは暖かいな、と呟くと、二人だけになった日当たりのいい部屋を見渡し、ヴィンチェンツォはゆっくりとお茶を口に運んだ。
***
「確かに、そのようなお薬があるのは知っています」
あるのか、とほっと胸をなでおろす男二人と、女性が一人である。
「ですけど、実際にそのような薬を用いて、髪が甦ったという実例は、見たことも聞いたこともありません。残念ですが、効き目が実証されていないということは、効かない、という証拠なのでは」
「そうよね、医局でもそんな薬を開発してるなんて話、聞いたことないわ。流行病の薬で、毎年精一杯なんじゃないかしら」
アデルはアカデミアに併設されている医局を思い浮かべ、無意識に腕を組む。
ビアンカは、がくりと肩を落とすステラを不思議そうに見上げた。
「でも、バスカーレ様の場合は、おひげでございましょう。自然と抜け落ちたわけではなく、ご自分の意思で剃ってしまわれたのであれば、そのうちすぐにまた生えてくるのではありませんか?」
「今すぐ、がいいのです」
そうなのですか、と面食らったようにビアンカは呟き、いつものように秘伝の書を開く。
隣の瑠璃が本を覗き込み、「野カンゾウの根と、ベリーの…木?皮?残念ながら、ここにはありません」と無情に言う。
「今すぐじゃなくていいから、用意が出来たら、作っておいて。お礼はなんでもするから」
そんな、と浮かない顔をするビアンカに、ロメオとランベルトが、もみ手をせんばかりの勢いで詰め寄った。
「そうね、最初に人体実験をこの人たちでやってみるのもいいかも。うまくいったら大量生産して、一儲けするのも楽しそうだわ」
「余計にはげあがったら責任取れませんけど」
愉快そうに笑うアデルに向かい、ビアンカは真剣な口調で言う。
余計にって何だよ、とロメオは不安げに巫女を見た。
「そうだ、あいつ!ちょっと毛を剃って、そこに毎日塗ってみるのはどうだろう」
窓辺に座り、日向ぼっこをしている猫を指差し、ロメオがしたり顔でうなずいている。
「猫で実験するくらいなら、ロメオ様たちに人柱になっていただきます」
冷たい眼差しで自分を見据える巫女様の顔が、今までになく恐い、とロメオは思った。
噛んじゃっていいわよ、とアデルが猫に向かって話しかけている。
「壊滅的に毛根が死滅した状態から実験してみないと、なんとも言えませんが…」
「だからそうなる前に、どうにかしたいんだけど」
口々に言うランベルトとロメオを交互に見ると、しばらく考え込んでいたビアンカは、やがてゆっくりと首を横に振った。
「やはり、そのように危険を冒してまで使用するべきではないと思うんです。どうにもならなくなったら、改めてご相談ください。その時にまた、私も考えますから」
***
やはり、自分が軽率だったようだ。
ビアンカの言うとおり、薬で毛根が甦るのであれば、この世にはげた人間などいない。
そうだ、いっそのこと、頭髪がなくなってしまえばよいのだ。
それならきっと…。
自分は今、とんでもないことを考えていた、とステラははっとして、とぼとぼと厩屋の外を歩いていた。
「遅かったので心配していた。用は済んだのか」
バスカーレの声にぎくりとし、ステラは慌てて「いえ、大丈夫です」とそっぽを向いて言い訳をする。
「…何故こちらを見ないのだ。そんなに、嫌か」
「嫌といえば嫌です。…いえ、似合っていないというわけではなく、その」
「なんだ、はっきり言え。今更、傷ついたりしないから」
ステラはためらいながらも、大きく深呼吸をしてから、突然バスカーレを睨みつけた。
その眼光の鋭さに、バスカーレは一瞬たじろぐ。
「だって、そんな、いかにも雅な貴族風のお顔をされては、心配になるではありませんか!」
うん?とバスカーレは首を傾げ、困惑しながらステラを見つめていた。
「ですから、悪い虫がついたら困ると申し上げたのです!そんな綺麗なお顔をされては、私は、つまらないことで、嫉妬してしまうから」
そんなことで、と驚くバスカーレを見上げ、ステラは精一杯の勇気で、その美しい顔を見つめた。
「俺は、お前が『痛い』って言うから、やはりない方がよいのかと」
「確かに痛いです、言ってみれば、たわしで全身を洗浄されるような感覚ですが、それも団長です!私はそれでいいのです!」
声がでかいぞ、とバスカーレはうろたえながら、きょろきょろと辺りを見渡し、涙目になるステラを笑いながら抱きしめた。
いったいどれだけすごいんだ、とロメオは茂みの間から顔を覗かせつつ、小声で隣のアンジェラにささやいた。
「アンジェラ、ああいう大人を、バカップルって言うんだよ」
「仲良しさんがバカップルなの?」
そうだね、とため息まじりのロメオに、アンジェラが嬉しそうに「バカップルだー」と言う。
そして思わずくしゃみをしそうになり、慌てたロメオに「ここじゃ駄目だよ!」となだめられる。
可愛らしいくしゃみが辺りに響き、やがてがさごそと茂みが動くのが目に入る。
「ずいぶんと大きな猫がいるものだな」
そうですね、とステラは呟くが、相変わらず恥ずかしそうに目を伏せたままだった。
「ほんと、どうでもいいことで大騒ぎして、馬鹿じゃないの、あの人たち」
バカップル、と楽しげに繰り返すアンジェラと手を繋ぎ、偵察から帰ってきたロメオである。
「お前らもな。いつまで経っても、一向に打合せが始められないのだが。いつまで待たせる気だ」
早くしないと日が暮れる、とヴィンチェンツォは苛立ったように低い声で言った。
「そうでしたっけ、遊びに来てたんじゃないんですか」
残っていた焼き菓子をほおばりつつ、ランベルトがのん気に言う。
そんなランベルトを悲しげに見つめ、ヴィンチェンツォは何度もまばたきをした。
「お前らは、本当に平和でいいなと、心底思うぞ」