100の話~恋~
聖誕祭を数日後にひかえ、王宮内の慌しさは、前年の比ではなかった。
「まだ骨もくっついてないっていうのに、本当に人遣いが荒いよね」
とふてくされながらも、渋々出仕するロメオだった。
そして今日は、ビアンカ達と打合せの為、どさくさ紛れに骨折していた踵を引きずりつつ、久しぶりに礼拝堂を訪れていた。
「あの頭の固い司祭様の首を縦にふらせるなんて、いったいどれだけ袖の下を掴ませたのかな。それでもことあるごとに、ちくちく嫌味言ってくるんだろ。神職の身で、度量が狭いというか、強欲っていうか、神官まで人手不足なんだねえ、この国って」
城下にある、大聖堂の見取り図を眺めながら、ロメオは頬杖をつき、ちらりとヴィンチェンツォを見上げた。
「俺は今回、何もしていないぞ。交渉は、全て陛下に任せた。言いだしっぺなのだから、それくらいはしていただかないと」
寝不足なのか、宰相閣下が必要以上に、何度もまばたきを繰り返すのが目立つ。
二人のやりとりを黙って眺めていたビアンカの表情が、わずかに曇る。
また聞きでしかなかったが、自分は歓迎されていないと、改めて思い知らされる。
「心配いらない。可憐なあなたを見れば、司祭様のがちがちに凝り固まった固定観念も、何処かへ吹き飛んでしまうだろう。あなたはただ一人の後継者なのだから、興味がないわけがない」
ビアンカの微妙な表情の変化を流すように、ヴィンチェンツォは事務的に言い放った。
「オルド教の巫女が正教会でお披露目など、気でも狂われたのか。無礼を承知で申し上げますが、争いの火種を撒き散らしているのは、他ならぬ陛下なのでは」
年老いた正教会の司祭は、これ以上はないというほど、顔中を皺だらけにして、若い国王に苦言を呈した。
「彼女は、オルド教徒ではありません。正教会の教えに基づき、聖オルドゥにお使えしておりますよ。…出自が巫女の直系だというだけで」
エドアルドは悪びれた様子もなく言い放ち、にっこりと微笑んだ。
「今更、巫女など誰も信じぬであろう。王都はともかく、オルドの民の神経を逆撫でしては、逆効果だと申し上げている。仮に人々が信じ込んだとしても、またもや巫女を奪われたと、暴れ出すのがおちなのではないのか」
「彼女は、新しい世代の巫女です。オルドもプレイシアもなく、あらゆるものを受け入れていた、原始オルド教に近いかもしれませんね」
一度だけです、後にも先にも、とため息をつきながら、最終的に了承した司祭の手を握り、大げさなまでにエドアルドは何度も固く握り返すのであった。
「あなたにも、是非巫女様の歌を聞いていただきたい。きっとあなたなら、その素晴らしさがわかるはずです」
最後まで、司祭は笑顔を見せることはなかったが、終始にこにことしているエドアルドのペースに巻き込まれ、後になってから「また陛下に甘い態度を取ってしまった」と苦笑いをしていた。
***
打合せが終わり、ヴィンチェンツォ達はそれぞれの仕事場に戻っていったが、「最後の仕上げを」と一人地下室に降りてゆくロッカの姿があった。
当然のように、猫がロッカの後ろに付き従い、優雅に階段を降りていった。
しばらくしてからビアンカは、ヴィンチェンツォが置き忘れたらしい革製の手袋を見つけ、慌てて追いかけるが、既に宰相閣下の姿は何処にも見当たらなかった。
諦めて礼拝堂に戻り、地下室にいるロッカのもとへと向かう。
地下室では、物音一つしなかった。
足音を立てず、ビアンカはそっと地下へと降りてゆく。
二体の彫像の前で腕組みしたまま佇むロッカと、足元の猫の隣にビアンカも並び、新しい息吹を吹き込まれた獅子と龍を見つめていた。
床に置かれた明かりが、二つの像を淡い光の中で浮かび上がらせ、祈りの間の情景を、一層神々しいものへと変化させていた。
「ふたつに、別れたのですね」
「ええ、その分、手間も二倍でしたが」
「もうすぐですね」
ビアンカは一瞬、何を言われたのかわからなかったが、目前に迫った聖誕祭のことだとわかり、隣のロッカを見上げて微笑みつつうなずいた。
「ここで毎日、あなたの歌声を聞いていました。いつの間にか、自分も一緒に覚えてしまいました。それも終わりかと思うと、少々寂しい気も、いたします」
ロッカは、足にまとわり付く猫を抱き上げ、何度かその滑らかな背中を撫でつつ呟いた。
「先程の宰相様達のお話では、私は招かれざる人物のようです。自分で決めたこととはいえ、時々逃げ出したくなる思いでいっぱいです。人々からつぶてを投げられることも、覚悟しなければいけませんね」
言葉の内容とは裏腹に、いつもどおりの柔らかな声で呟くビアンカを見下ろすと、ロッカはゆっくりと首を振った。
「あなたの歌を聞けば、猛獣でさえ、あなたに平伏するのではないかと思うのです。自信を持ってください。きっと、うまくいきます」
はにかんだようにビアンカは笑い、ありがとうございます、と礼を言った。
そして、握り締めたままの手袋に気が付き、ロッカに手渡そうと真横の青年の顔を見上げた。
ふいに猫がロッカの腕から飛び降り、何かに導かれるように、おもむろに階段へと足を向けた。
二人は、階段を昇ってゆく猫の後姿を眺めていたが、ビアンカは思い出したように。これを、と言いかけながらヴィンチェンツォの茶色い手袋を差し出した。
ふいに、自分の予期しない引力を全身に感じ、ビアンカは軽い目眩のような感覚に囚われた。
ロッカが、いつもよりも近い。
形のよい薄い唇が、自分の目の前にある。
ガラスのような無機質な輝きを放つ瞳までが、すぐそばに感じるのは何故、とビアンカは不思議な空気に飲み込まれる一歩手前で、そのことに気付いた。
ビアンカの頬に片手を当てたロッカの赤い髪が、軽く首筋に触れた。
きれい、と徐々に近づくガラス玉の瞳をぼんやりと見つめていたが、自分の手の中にある手袋の感触にはっとしながら、ビアンカは無意識に肩を強張らせて顔を背ける。
その頬を優しい手つきながらも、強引に引き戻し、魔法がかかったような瞳で見つめ返す青年の姿に、ビアンカは呆然としながら、目を見開いているしかなすすべがなかった。
二人の唇が触れ合う瞬間、突然何かが砕け散る音が響き渡り、二人は階段の途中でこちらを凝視している、アデルとヴィンチェンツォの姿を見つけた。
申し訳ありません、とアデルが取り落とした明かりの残骸をおろおろと眺め、動かないヴィンチェンツォの背中から一歩遠ざかる。
空気が止まるとは、このことを差すのだろうか。
アデルは、ほの暗い地下室の中で、何をどうしたらよい、と今まで経験したことのない戦闘とは無関係の状況に、一瞬凍る。
ビアンカは誰とも目を合わせようとせず、その場に立ち尽くす人々を残したまま、風のように無言で階段を駆け抜けていった。
「片付けます、お手を触れないで下さい」
アデルは狼狽したまま、ビアンカの後を追うべきか迷いながらも、その場から逃れるように立ち去った。
ヴィンチェンツォは薄暗い部屋の中で、ゆっくりと自分にひざまずくロッカを見下ろしていた。
「申し訳、ございません。お咎めを受ける覚悟は出来ております」
「…お前、俺にあれほど釘を刺しておきながら、当の本人がそれではな」
顔を伏せたままのロッカに向かい、ヴィンチェンツォは静かに言った。
「そもそも、咎めるって何をだ。お前がビアンカを好きな気持ちを、何故咎める必要がある。…俺が、気付かないとでも」
「お怒りではないのですか。何故、そのように平然としておられるのです。自分は、あなたを裏切るような真似を」
しばらくの沈黙の後、ロッカがやっとのことで捻り出した言葉は、長年の友人に対しての後ろめたさだらけの言葉だった。
「何度も言わせるな。俺に、どうこう言う権利はないし、最終的に決めるのは、ビアンカだ」
ここまで混乱しているロッカは見るのは、いつ以来だろうか。もしかしたら、今日のロッカは、自分が今までに見たこともないロッカなのかもしれない。
「言い訳をすれば、魔が差したとしか」
ヴィンチェンツォは軽くため息をつき、ゆっくりと壁に寄りかかった。
「何も思わない相手に、お前が迫ったりするとも思えないしな。俺に遠慮はいらない」
一向に顔を上げようとしないロッカの赤い髪を眺めながら、ヴィンチェンツォの瞳は、言葉とは裏腹な鋭い光を放っていた。
「ただ、このような時期に、彼女の心を乱れさせるような振る舞いは、感心できない。今のビアンカは、この国の駒だ。彼女は駒に徹しようとしている、それはお前が一番よくわかっているはず」
はい、と短く答えるロッカの声が、暗い部屋にかすかに響く。
「少なくとも、今は自分の気持ちを抑えて、ビアンカを補佐してやってほしい。それが無理であれば、気持ちの整理が付くまで、彼女とは、会うな」
ヴィンチェンツォは、わかりません、と弱々しく呟くロッカを、完全に表情を消し去ったまま観察していた。
「今までのお前なら、難なく可能だったろうに。即答できぬほど、お前が自分を見失っているとは思えないのだが、それも無理になったか」
「長く、一緒に過ごしすぎました。毎日、ビアンカ様の美しい歌を一日中聞いて暮らし、自分は夢の中で生きていました。あれを誰かに手渡したり、ましてや失うなど、自分は、耐えられません」
ロッカは何度も頭を振り、両の拳を握り締め続けていた。
「お許しください。自分は何もわからず、あなたに酷い要求を押し付けました。今になってその苦しさが、この身に返ってきて、どうしていいのか、まるでわからないのです」
どこまでお人好しだ、とヴィンチェンツォは自虐的な気分になる。
やられて、やり返す、自分のその浅ましさと、その一方で純粋すぎる友人の心の揺れ動くさまを目の当たりにしながら、ヴィンチェンツォは悲しげに吐き出した。
「意外と、やってみると難しいんだ。でも、出来なくはない。そのうち、慣れる。手のつけられないほど燃え上がっていた感情も、どんなものだったかさえ忘れてしまうほどに」
「余裕ですね」
「そう見えるか。そうだとしたら、俺は昔の自分に戻ってしまったのかな。お前が望んでいたような、無慈悲な上官に」
柔らかい笑みを浮かべるヴィンチェンツォとは正反対なロッカがいた。
ロッカが上目遣いにヴィンチェンツォを睨みながら、ゆっくりと立ち上がった。
「そうやって自分を偽り続けて、いつまでも耐えられるとでもお思いか。…いっそ、罵倒されるなり、殴られた方が、自分は余程、辛い思いをせずに済みました」
「今度は開き直って八つ当たりか。お前、どうしたんだ。…いや、それも成長なのか…」
「あなたが、平気なわけないってわかっています!…それとも、絶対的な自信があるからなのか。腹さえ、立ちます。あなたのその見下したような態度に」
こんな顔もできるのか。
あのロッカが、憎々しげに、自分を睨んでいる。
「平気なわけないだろう!」
気が付けば、ロッカの胸元のスカーフをぎりぎりと締め上げ、ヴィンチェンツォは恥じらいも躊躇いもなく、大声を上げていた。
「今だって、答えが出ない。仮に今日、俺たちがここに現れなかったとして、ビアンカはお前を選んだかもしれない。…俺ではなく、お前のような優しい男だったら、彼女も俺を選んでくれたのかもしれないと、今までに何度か思ったこともあるんだ」
でも、もう遅い。
自分は、何ひとつ出来ることなど、ない。