99の話~Obsidian Night~
ステラと手を繋ぎ、詰所に戻ってきたアンジェラを見つけ、マグダがすかさず駆け寄る。
「今日は朝からお父様と一緒だと聞いて。…あなたも酷いわ、アンジェラはもう、こちらには来させないと言っていたではないの」
「いや、アンジェラがみんなと遊びたいと言って。たまにはよいではないか」
バスカーレが取り繕うような笑顔を見せ、困ったように返答した。
慌てて外套を巻きつけるステラのあられもない姿に、マグダが目を丸くしている。
「ステラ、すごかったんだよ。すごく強いの。私も、ステラみたく騎士になるの!」
「…なんですって」
笑顔で言うアンジェラの顔を、わなわなと震えながらマグダが見つめていた。
「冗談ではないわ。騎士なんて、とんでもない!アンジェラ、お母様と一緒に行きましょう。あなたも、いつまでも返事を引き延ばしていないで、はっきりさせてちょうだい!」
「落ち着け、子どもの言うことではないか。俺も騎士にしようなどと思ってはいない」
「今すぐ、ここを離れるわ。アンジェラを連れて。あなたが決められないなら、私が決めます」
相変わらず勝手な、とアデルが軽蔑したようにマグダを見つめている。
「お前の気持ちはありがたいが、アンジェラはここで今までどおり、俺と暮らす。何も問題はない。会いたかったら、いつでも会いに来るといい。…今のご主人を大事にな」
話が違うわ、と大声を上げるマグダを、バスカーレがさえぎった。
「俺は、アンジェラを手放すとは一言も言っていない」
「こんなところに、いつまでも置いておきたくないのよ!」
二人は睨み合い、アンジェラは思わずステラの手を強く握り返した。
あのう、とアデルの後ろに隠れるように立っていたビアンカが、おそるおそる声を出す。
「私は、生まれた時から各地を旅しておりました。子どもの身では、想像以上に旅は過酷なものです。いつか、母君と旅をされるのもよい勉強になるかと思われますが、今ある環境で生活してゆくのが、アンジェラのためになるのではないかと…」
弱々しい声のビアンカを不機嫌そうに見やり、マグダは悲しげに首を振る。
「あなたに何がわかるの。わかるわけないわね、あなたのような若い方に、母親の気持ちなんて」
所在無さげにうつむいているビアンカの肩を、おもむろに抱き寄せると、アデルがつんと顎を上げながらマグダを再び睨みつけた。
「自分のお腹を痛めた子を置いて、さっさとよその男のところに逃げ出す人の気持ちを理解しろとおっしゃられても、ねえ」
ヴィオレッタ様、とビアンカがアデルの袖を引き、怯えたように小声でささやいた。
「確かに犬猫ですら、育児放棄となる場合も多々ありますから、そのように本能的にお暮らしのようでは、畜生と同格だとしても、何ら不思議はないのかもしれないわね」
「ヴィオレッタ様!」
口撃を緩めようとしないアデルを諌めるべく、ビアンカが珍しく大きな声を出した。
「何なのです、先程から。巫女様のお付きとは思えぬような、下卑たお言葉。理解していただこうなどとは思ってもおりません。特にあなたのような、何も知らぬ小娘などに」
マグダは負けじと二人を睨み返すと、さあ、と再びアンジェラに向き直る。
アンジェラは、すぐそばで喉をごくりと鳴らすだけの父親に目をやり、そして隣で姿勢を崩さずに微動だにしないステラの腕に、思わず無意識でしがみついた。
「わかりません。私も、ビアンカ様達も、お腹を痛めた奥様の気持ちと同じにはなれません。…ですが、団長の気持ちは、わかります。アンジェラをお一人で慈しみ、守ってきた団長の気持ちは、私にはわかります。ほんの数ヶ月しかおそばにおりませんでしたが、団長とアンジェラの絆の深さは誰にも邪魔できぬものだと、ご要望があらばいくらでも、神の御前で証言いたします」
腕に、しびれるような重みを感じながら、ステラはゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
いつの間にまた、この子は重くなったのだろう。
突然の発熱の知らせが届いても、一向に帰宅しようとしないバスカーレに、半分怒りながら無理やり帰らせることもあった。
アンジェラの機嫌が悪いと聞けば、明日は私がお相手いたしましょうと気遣う日もあった。
思い出せばきりがないほど、二人と過ごした日々は、たった一年とは言えど、実に濃密な日々だった。
初めて二人に出会った日も、昨日のことのように思い出せた。
まだ数歩しか歩けぬアンジェラを大きな腕に抱く姿は、幻の父と自分を妄想させるには充分なほど、眩しすぎた。
「お願いです、団長を一人にしないで下さい。アンジェラがいなくなったら、団長は一人ぼっちになってしまう。そうなったら、団長は何を頼りに、今後生きていけばよいのですか。…お願いです。二人を、引き離さないでください」
そう言いながらステラは、いつの間にか涙を流している自分に気が付いた。
これはきっと、疲労が極限に達しているからに違いない。そうでなければ、これほどまでに感情を垂れ流す自分など、あり得ない…
ステラ泣かないで、とアンジェラがステラの顔を覗きこむが、ステラは完全に自分の顔を覆い隠し、ひたすら嗚咽していた。
「わたくしからもお願いいたします。この子は、わたくし達にとっても、掛け替えのない国の宝でございます。必ず、皆でお守りすると約束します。…ですから、わたくし達に、お預けくださいませんか」
音もなくあらわれたお妃の姿に、その場に居合わせた者は改めて、いっせいに膝をついた。
「お久しぶりでございます。わたくしが後宮に上がったばかりの頃、マグダ様にはお世話になりました。息災のようで、何よりでございます」
自分よりほんの少し年上の女性に敬意を払い、フィオナは花が風にそよぐように、ふわりと挨拶をした。
マグダは突然のフィオナの登場に狼狽していたが、懐かしさと、緊張の入り混じった表情でお妃の美しい笑顔に微笑み返した。
「…それから、こちらの巫女様はわたくしなどより、遥か高位におわす方にございます。巫女様の言葉は絶対なのです。プレイシア及びオルドの民として、それを、お忘れなきよう」
フィオナの予期せぬ発言に、ビアンカはうろたえていたが、居ずまいを正す周囲の人々の姿に合わせるかのように、わけのわからぬまま、無言でマグダを見つめていた。
「何処かで、王都のお話をされる機会がありましたら、是非皆様にお伝えくださいませ。オルドの巫女様は、戦を望まないと。そしてわたくし達も。そう言って、人々に伝えてください。子ども達の笑顔が失われぬように、わたくし達は全力を尽くします」
その場に泣き崩れるマグダに寄り添い、フィオナは何事か耳元でささやいていた。
二人の女性の姿を遠巻きに眺め、わずかに震えているビアンカの手を握り締めてアデルは呟いた。
「ごめんなさい、どちらが年上だかわからないわね…」
***
再び騎士団の制服に身を包んだステラは、暗闇に浮かぶ星々を見上げていた。
今日は、様々な出来事が嵐のように通り過ぎた。
これくらいで疲れを感じるようではまだまだ、と一番明るく輝く星を見つめ、ステラは大きく深呼吸をした。
「そろそろ帰りなさい。明日もあることだし」
一番安心する声。
振り返るステラの顔はまだ少し緊張していたが、笑顔を見せることには成功したようだ、と自己採点する。
深々と頭を下げ、ステラは詰所へと足を向ける。
「ステラ、少しよいかな」
「何でございましょう」
わかっているくせに、今更知らないふりをする自分は、どこにでもいる浅ましい女の一人だ、とステラは自嘲的になる。
「ありがとう」
バスカーレはステラの黒曜色の髪に手をやり、やや乱暴な手つきでぽんぽんと叩く。
ステラは枯れた足元の雑草を見つめつつ、されるがままになっていた。
「俺は自分に、自信がなかった。本当は女親であれば、アンジェラの人生も違ったのかもしれないと、正直マグダが去ってから、思わぬ日はなかった」
ステラは黙り込んだまま、乾ききった何かの葉をぼんやりと眺めていた。
「…それでもよいのかもしれないと、今日初めて思うことができた。ステラのおかげだ」
「私は何も」
やっとのことで声を出し、ステラはその隙にバスカーレから逃れるように体をよじる。
「ビアンカ様のような物言いをする。よいのか悪いのかはわからぬが、月日の移り変わりを感じるな。ほんの少し離れていただけなのに、不思議な気分だ。俺の知っているステラと、今までに見たことのないステラがいる」
そうおっしゃる団長も、いつもとは違うのは何故なのだろう、とステラは見えない不安を感じ、思わず早口になる。
「久しぶり、でございますから、少々の違和感を感じることもございましょう」
逃げるように歩き出すステラの細い手首を捕らえ、バスカーレは力強く自分の胸元に引き寄せた。
「まだ、間に合うのだろうか。そればかり考えていた。もしかしたら、心底俺に愛想を尽かしたかもしれぬと思いながら、それでも都合よく、いまだに俺を信じてくれているのかもしれぬとも思い悩み…」
何が言いたいのかさっぱりわからない。いや、わかってはいるものの、期待しすぎて空回りするのもたくさんだ、とステラは一瞬投げやりな気持ちになる。
けれど、今日初めて目を合わせてくれた、と自分の瞳を覗き込むバスカーレを見上げ、ステラは最後の力を振り絞って、呟いた。
「…今日は疲れすぎているので、あまり深読みする頭も残っておりませんが…こうしていることに、自分は幸せを感じます」
バスカーレの胸元に頭をこすりつけ、ステラは背中にまわした腕に、柔らかく力を込めた。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
そう言いながら、バスカーレも自分の腕の中にいるステラを抱き寄せ、ややあってから強すぎはしないだろうかと、遠慮がちに腕を緩めた。
***
「アメリアの最後の手紙では、巫女の件に関して緘口令が布かれたようであったが。…その割には驚くほどの早さで、若い巫女の話が広まっているな。国王も二枚舌がお得意と見える」
ウルバーノは受け取った封書の中身を確かめつつ、誰にともなく言い放った。
「奴等は先手を打ったと思い込んでいるようだが、一泡吹かせてやるのも、また一興。何より、本物の巫女はここにあり、と名乗りを上げるのも遠くない。むしろこちらが遠慮しているともつゆ知らず、しばらく奴等の能天気ぶりを観察するのも、暇つぶしになるやもしれぬ」