97の話~紅炎~
「ステラはいるか」
ヴィンチェンツォの緊張した面持ちに、アデルは含みのある眼差しを向けた。
アデルが奥の間へステラを呼びに行っている間に、ヴィンチェンツォは一人礼拝堂で、重々しいため息をついた。
結局自分が動く羽目になるのか、と煮え切らない態度のバスカーレの姿を思い浮かべ、諦めにも似た境地に達していた。
時折、地下からのみをふるう音がかすかに響いてくる。
その音を聞き、もう一度ヴィンチェンツォは重いため息をついた。
修道服を身に纏ったステラが固く口を引き結び、無言で頭を下げるやいなや、ヴィンチェンツォはさっさと本題に入ることにした。
「俺がここに来た理由は、おおかた察しがついていると思うが。お前の退団の件だ」
「何か、書類に不備でもございましたか」
「陛下も俺も、お前の退団を承認できないという結論に達した。直ちに復職せよとの陛下からの伝言だ」
「お断りします」
ステラは軽く息を飲み、そして大胆にも宰相閣下を睨み付けた。
ヴィンチェンツォは、その答えが返ってくるだろうことを想定していたので、今更驚きもしなかった。
「私では副団長に相応しくないと、団長もお考えです。それに、一度辞めた私が簡単に復職を許されるなど、他の団員にも示しがつきませぬ」
それにしてもここまで頑固では、バスカーレでなくとも思わず怒鳴りつけたくなる、とヴィンチェンツォは苦々しく思った。
ここで自分まで暴発してはいけない、とヴィンチェンツォは一呼吸置くために、側にあった椅子に腰掛けると、ステラを見上げた。
「俺たちの見解はこうだ。団長とロメオだけでは騎士団をまとめられない。あのままではいずれ、騎士団解散という前代未聞の展開になるだろうな。使えない騎士共に用は無い」
「それほどまでに、目も当てられぬ状況とおっしゃるのか」
わずかではあったが、ステラの固い表情に変化が現われたのを、ヴィンチェンツォは見逃さなかった。
少々大げさな言い方ではあるが、ここは大いに利用させてもらおう、とヴィンチェンツォはことさら不機嫌そうな顔をしてみせる。
「ここだけの話だが、最悪、お前が復帰せぬのであれば、軍務省のフェルディナンド様をオルドから呼び戻して、新しい騎士団を設立してはどうかと陛下がおっしゃっている。当然今までの奴等はくびだ」
そんな、と青ざめかけるステラに、ヴィンチェンツォは極めて冷徹に言った。
「辞めたいお前には関係ない話だな」
黙りこんでうつむいているステラに、ヴィンチェンツォは真面目な顔をして言った。
「聞いてもよいか。お前が騎士団に入りたかった理由は何だ。それすらも、今はもうどうでもよいことなのか」
「私は、高尚な思想など持ち合わせてはおりません。ただ、子どもの頃からの憧れの方のそばにいたいと思っていただけです。所詮私も、俗物なのです」
ステラは耐えかねたように唇をかみ締め、それからゆっくりと何度も深く息を吐いた。
「普通の人間であれば、誰だって下心で動いている。俺が聞きたいのは、何故そんな簡単に諦めるのかということだ。俺はお前に、誰よりも団長に近い場所を与えた。それを充分に活かすこともできぬまま騎士団を去って、それでお前は満足か」
いいえ、と涙声になるステラを見上げ、ヴィンチェンツォは静かに言った。
「お前が深く傷ついたのは俺もわかっているつもりだ。正直俺も、何故団長がお前の申し出を断ったのか理解できない。お前は新しい生き方を見つけたと自分に言い聞かせているかもしれないが、それは違う。何より、お前の居場所はここじゃないはずだ。酷だとは思うが、俺はお前に、騎士団に戻って欲しい」
やっと言いたいことが言えた、とヴィンチェンツォは思わず気が緩みそうになるが、何度も涙を拭うステラの様子に、まだ終わってはいない、と気持ちを引き締めるように深呼吸をした。
「団長も、本気じゃなかった。それをわかってくれるか。お前は、団長に必要とされてないと思い込んでいるようだが、逆だぞ。可愛さあまって、憎さ百倍にも数万倍にもなってしまったのだと思う」
どうでしょうか、と言いつつも、ほんの少しだけ笑みを見せたステラに、どうやら勝算ありのようだ、とヴィンチェンツォは最後の仕上げに取りかかる。
ヴィンチェンツォは上着の内側に手をやり、そっと封書を差し出した。
「陛下から団長宛てだ。これを持って、詰所まで行って来い。…行けるか」
封書を胸に抱きしめ、ステラは「はい」と小さな声で答えた。
「そんな簡単に諦めるなんて、ステラらしくないな。何度でも挑めばよいではないか。それでも団長が駄目だと言うのなら、俺が引き取ってやってもいいぞ。もれなくうるさい小姑がついてくるが」
悪魔の微笑みだな、とステラは宰相閣下のにんまりとする顔を眺め、容赦なしにその言葉を叩き落とした。
「お断りさせていただきます、心の底から。そもそも、言う相手が違いますよ」
振られてばかりだ、とヴィンチェンツォは子どものような笑顔で楽しそうに言った。
「俺が嫌ならエミーリオもいるぞ。たまには年下もどうだろう。五年後には、王宮一の出世頭になっているはずだ」
そっちの方は考えておきます、とステラは答え、立ち去る宰相閣下の後姿に、深々と頭を下げて見送った。
「なんだか、ヴィンス様の良い様にされてる気がするけど。本当に大丈夫なの」
アデルは何か腑に落ちない、といった顔をしていた。
「わかりません。何もかもが、自分の未知の領域です」
ステラはそう言いつつも、ここ数週間の重苦しい雰囲気は消え去り、実にすっきりとした表情に変わっていた。
こんな晴れやかなお顔をしたステラ様を見るのはいつ以来だろう、と遊びに来ていたメイフェアが、無意識に涙ぐんでいた。
「ヴィンス様って、うまいのよねえ。何よりお優しいから、言うとおりに頑張ってみようかしらって気にさせられちゃうのよ。昔からそうだったわ」
「優しい、ですって」
メイフェアが目を見開き、ぶるぶると首を横に振るのを、アデルが意外そうに見つめていた。
「アカデミアにいた頃、密かに憧れていたのよ。ロメオが私に嫌なことを言うたびに、いつも助けてくださったの。今からでも遅くないかしら、行き遅れたら引き取ってくださるみたいだし」
珍獣を見るような目つきで、メイフェアがアデルを凝視している。
「思えば今まで、周りにろくな男がいなかったわ」
とアデルはふいに遠い目になる。
「…想像できませんわ。学生の頃は、まだ普通の人だったんでしょうかね。今は性格悪いのが思い切り顔に出てますよね」
メイフェアの言葉を受け、ステラがしみじみと礼拝堂の天井の装飾を見上げていた。
「閣下の目つきが悪いのは昔からだ。ただ、お優しかったのは今も昔も変わらないな。少々気が短いのが欠点だが。まあ、私もあまり人相が良いとは言えないから、閣下のお顔をどうこう評するのも無礼千万な話だ」
「性格はともかく、真面目なのが取り柄ですから、あの方は」
瑠璃が低い声で呟き、アデル達はうなずき合っている。
好き勝手に宰相閣下を評する女性達の横をすり抜け、ビアンカが春風のような足取りで、出口へと向かって行った。
「今の話、きちんと聞いていてくれてたらいいのだけど」
アデルは窓辺から、必死に駆けてゆくビアンカの背中を、いつまでも眺め続けていた。
自分を目指して近づいてくる足音に、ヴィンチェンツォが思わず振り返ると、ビアンカが息を切らして自分を追ってくる姿が目に映る。
「相変わらずの健脚だな。元気そうで何よりだ」
ヴィンチェンツォは立ち止まり、ビアンカが目の前に来るまで待ち続けた。
「少し距離があったので、今日は、とても苦しいです」
息をはずませ、ビアンカは途切れ途切れに言った。
「ステラ様のこと、ありがとうございました。これで、元に戻れるんですね」
「礼を言われるほどのことをしたわけではない。…と言いたいところだが、今回は気疲れしっぱなしだ。あのまま二人を放っておいたら、一生絶縁というはめに成りかねない。似た者同士、頑固だからな」
照れ隠しのように、憮然とした表情になるヴィンチェンツォだった。
「本当に、よかった。閣下のお力があればこそです」
「礼なら、むしろ陛下に言うべきだな。お暇なのか、喜んで首を突っ込んでくれた。あまり調子に乗って、かき回されるのは困るが」
はい、とビアンカは笑顔でうなずいた。
「それより、護衛はどうした。先程から誰一人姿を現さないが」
「交代に、行き違いがあったようです。でも、問題ありませんから、あの」
口ごもるビアンカを制して、ヴィンチェンツォは軽く首を振った。
「わかっている。今更咎めても仕方がない。怖い監督者がいないせいか、たるみ切っているな。騎士団解散も現実味を帯びてきたようだ」
すました顔でヴィンチェンツォが呟き、ビアンカが不安げな表情になる。
「嘘に決まってるだろう。だいたい、この時期に新しい騎士団など、無理がある。ステラが鵜吞みにしたのかどうかは知らないが、やる気になってくれたようで何よりだ」
送ろう、とヴィンチェンツォはビアンカをうながし、再び礼拝所へ向かう。
急に会話が途切れ、ヴィンチェンツォはぎこちなさを感じつつ、黙々と歩く。
お互い目を合わせることもなく、沈黙だけが二人を支配する。
木枯らしのような冷たい風が、足元の落ち葉をさらっていくのを、二人は無言で眺めていた。
ステラの気持ちを考えると、確かに残酷なのはわかっている。
自分自身ですらいまだに、この女性を目の前にすると、心の中でさざ波が立つのを抑えるべく、足掻き続けているのだから。
***
「僕は嫌だよ。陛下の勅命とはいえ、よくもまあのこのこと帰ってこれたもんだよね。それに、皆が納得するかなあ。皆が諸手を挙げて歓迎してくれるとでも思ってるの」
ロメオは机に足を乗せ、気だるそうに爪を磨いていた。
ステラは拳を握り締め、今すぐこの男の頭上に思い切り振り下ろしたい、と殺気立った目で睨みつけている。
まあまあ、とバスカーレが二人をなだめ、顎髭に手を当てる。
「では、ロメオはどうしたら納得するのだ。お前の言い分も、ある程度考慮しよう。所詮は団体生活だ。和を保てぬようでは、意味がないからな」
バスカーレは困ったような視線で、二人の顔を交互に見た。
「そうだね。要するに、どちらが副団長にふさわしいかってことでしょ。カードで勝負でもする?」
「お前、人を馬鹿にするのもいい加減にしろ。勝負というからには、武器を持て。私より弱い人間が副団長など、それこそ誰も納得しないぞ」
ステラは机に手を置き、思い切り目を吊上げてロミオの顔を覗きこんだ。
ちょっと待って、と思わず手を止めたロメオに、ステラが挑発的な眼差しを向けた。
「まさか自信がないのでは」
「そんなわけないだろう。僕はそんな野蛮な真似はしたくないだけで」
ロメオは慌てふためき、足を下ろして椅子ごと後ずさる。
「仮にも、騎士の称号を持つ身であろう。まさか、それも金で買った称号か」
ステラの見下したような言い方に、ロメオは思わずかっとなって言い返した。
「実力に決まってるだろ!いいよ、そんなに言うなら君こそ、痛い目見ても知らないよ」
「いいだろう。俺が立ち会う。陛下にもその旨伝えよう。二人とも、表へ出ろ。少し時間をやろう」
バスカーレは静かに言うと、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
扉に耳を当て、盗み聞きしていたランベルトが焦りながら、急げ、とエミーリオを使いに出させる。
「どうしたの、エミーリオは何処に行ったの」
ランベルトに肩車をされていたアンジェラが、全速力で走り去るエミーリオを不思議そうに見つめていた。
「俺たちも急がないと。大変なことになった」
そう言いつつもランベルトは、自然と口元が緩くなるのを我慢できそうになかった。
***
詰所の鍛錬場に、野次馬がわらわらと集まり、事の成りゆきを見守っている。
ランベルトからの一報が届き、ヴィンチェンツォはもちろんのこと、何故かエドアルドやフィオナ達までが見物しにやってきていた。
「もう締め切りの時間だよ、賭け忘れた人はいないかな」
ランベルトは元締めになり、集まった人々に声をかけている。
「いいんですか、あれ」
呆れたように、メイフェアがため息をつく。
「いいんだ。陛下も参加してるから。俺も一口賭けたぞ」
ヴィンチェンツォが腕組みをして、無言で睨み合うロメオ達を見物していた。
「面白いことになってきたね。私の計算以上に」
エドアルドは楽しげに言い、フィオナとカタリナに微笑みかけた。
「ステラ様ー」
「ステラ頑張ってー」
他の見習い騎士達に混ざり、カタリナとアンジェラが大きな声で声援を送る。
ステラは無言で槍を握り締めた手を高く挙げ、場内で歓声が沸き起こった。
「ステラの方に分があるかな。お前も、彼女に賭けたんだろう」
エドアルドは、隣にいるヴィンチェンツォに声をかける。
「そうですね、意外とロメオも人気ですよ。どっちが勝っても、俺は損しないし、むしろ儲けが出るからいいんですけど」
通りがかったランベルトが、集計表を眺めながら満足そうにうなずいている。
「こういう時だけは、仕事が早いな。今までの負けの分を、回収できそうか」
ヴィンチェンツォの皮肉混じりの賛辞も気にとめず、ランベルトは浮かれた声で言った。
「そりゃあもう、みんな喜んでお祭りに参加してくれてるし」
言い終えてから、自分を上目遣いで睨んでいるメイフェアの視線に気付き、ランベルトはしまった、と思った。
「負けって、何。何をいくら負けてるのかしら」
いや、その、と口ごもるランベルトを眺め、ヴィンチェンツォは「こっちでも試合が始まってるぞ」と言った。
「あんた、給料少ないって言ってるけど、そうやって無駄遣いしてるからじゃない!だいたい勝てもしないのに、どうしてそうやって懲りずに賭け事するのよ!」
怒りを爆発させるメイフェアを、ランベルトはなだめすかそうと必死になり、「ほら、もう始まるよ」と怯えた声で言った。