7の話~秘め事~
ビアンカは見ず知らずの男の腕の中から抜け出そうと、必死で身をよじった。
「あなたもフォーレ子爵のご帰国には、大変心を痛めていらっしゃるかと、心中お察し致します。私でよければ、代わりにいくらでもまた、お慰め致します」
甘いささやき声に、思わず首筋が寒くなる。
イザベラの浮気相手に遭遇するなどとは、なんと運の悪いことか。
またとか代わりとか言っていたが、要するにイザベラに捨てられた過去の男らしかった。
しかもフォーレ子爵と関係があった、とほのめかしているがはたして事実なのだろうか。
事情はよく分からないが、隙をみて愛人の座に返り咲こうという魂胆なのだろう。
ビアンカはすっかり混乱していたが、この男から一刻も早く離れたい一心で、ひたすら思考をめぐらす。
「離して頂戴。大声を出しますよ」
できれば穏便に済ませたい。
まさか自分はイザベラではないと告げることもできず、恐怖で震えながらも、精一杯ビアンカはイザベラのごとく虚勢を張った。
「他の方々に知られてお困りになるのは、あなたのほうでは?」
男は悪びれるふうでもなく、強引にビアンカの顎に両手をかけた。
本能的な嫌悪感を感じ、自由になっていた自分の手で力一杯男の顔を払いのける。
「いや!」
偶然にもビアンカの指が目に当たり、男は思わずうめき声をあげ、痛みで目を押さえた。
ビアンカは男の腕から這い出すと、無我夢中で扉に体当たりした。
廊下に飛び出すが右も左も分からず、一瞬迷う。
追いすがってきた男はなおも哀れな獲物を捕らえようと、ビアンカに腕を伸ばしかけた。
「二度とは言いません。今すぐ立ち去りなさい。でなければ人を呼びます。本気です」
ビアンカは後ずさりしながら低い声を絞り出し、男を睨みつけた。
「酔い覚ましに、あちらでお茶でもいかがでしょうか、タラント卿」
男は体を揺らし、霞のかかったような目で声の主を探した。
固い表情のまま、ビアンカはその場に居たもの全てに、険しい眼差しを向ける。
あの冬バラの庭にいた男だ。名前は確か……
***
「バーリ卿」
かすれた声で、タラントと呼ばれた男は呟いた。
ヴィンチェンツォ・バーリは後ろに2名の部下を従えていた。
若い二人の部下は、ビアンカよりは二、三歳ほど年上のように見えた。
部下も上司に習い、無表情のまま後ろで佇んでいる。
「今宵は少々お酒が過ぎたようですね。ということで、私はさっさとこの場を収めたいのですが、何か異論はおありでしょうか」
手を後ろで組んだまま、誰にでも無くヴィンチェンツォは冷たく言い放った。
お送りしろ、と部下を促すとヴィンチェンツォはビアンカに向かって更に一歩踏み出した。
一方のビアンカは二人の部下とタラントが遠ざかってゆくのを、放心したように眺めていた。
が、無言でビアンカを見つめる視線に気付き、戸惑いながらもお礼を言おうと口を開きかけた。
「運が悪いのか、趣味が悪いのか。自己分析はお得意と見える。結構なことですね」
皮肉を言われている、と理解したのは数秒経ってからだった。
ビアンカは何も言い返せずヴィンチェンツォを怒りのこもった目で見上げるが、それはイザベラとあろうという心と、もう一方ではビアンカとしての感情が入り混じっていた。
なんて失礼な男だろう。
王の秘書官だと聞いていたが妃に対して、随分とふてぶてしい態度を取る。
憮然とするビアンカの様子に、ヴィンチェンツォはしてやったりとばかりに含み笑いをもらすと素早くビアンカの手首を捕らえ、軽々と片手で締め上げた。
「これ以上陛下の顔に泥を塗るような真似を続けるのであれば、私にも考えがあるのですよ?」
「無礼者!脅迫されていると受け取ってもよろしいの?」
ビアンカは手首の痛みをこらえて、下唇をぎゅっとかみ締めた。
腕を振りほどこうにも体力は使い果たした後であり、相手にされるがままである。
残された武器は舌戦くらいだろうか。
「ここにあなたの居場所が無いことくらい、とっくにご存知であろう。よく覚えておけ。陛下に仇なすような害虫は一掃する。あなたは少々やり過ぎた」
ヴィンチェンツォは氷の瞳で凍てつかせるかのように、侮蔑の眼差しでビアンカを睨み返す。
かすかに震えているビアンカを見下ろし、ヴィンチェンツォは満面の笑みを浮かべていた。
ようやくビアンカの手を離すと、ヴィンチェンツォはくるりと踵を返した。
火照った自身の体を抱きしめながら、ビアンカはゆっくりと壁にもたれかかり、無礼な美しい男の後姿を見つめていた。
遠くからメイフェアの鮮やかな赤毛が近づいてくるのを見つけ、ビアンカは大きく深呼吸をした。