目をとじれば
目をとじれば、いつもそこには、おれの生きるべき世界が広がっている。
今日は何の夢だろう。
空を飛ぶ夢。それがいい。不思議なことに、夢の中では飛べることが当たり前だと思っている。それとも、水の中を泳ぐ夢もいいな。もう、夢の中のおれは、水の中で息を吸えるって覚えてる。
さあ、目をとじよう。ここからが、おれの1日のはじまりなんだから。
その日の夢は、ファンタジー世界の冒険者になる夢だった。
友だちと一緒に、夜の道を歩いていた。たしかあれは、ユウキだったかな。でも、途中からケントっぽくなってた。
そして、おれが提案した。歩くのは疲れるから、飛ぼうよ。と。そしたらケントは、そっか、飛べるんだっけ。といって、二人で笑いながら夜の道を飛んだ。灯りの方へ。
ーーそれは街の明かりだった。中世ヨーロッパの雰囲気の酒場。お金はある。銅銀貨しかないけどこれでいい。これから依頼を受けてたんまりと稼ぐんだから。
酒場の奥を見ると、綺麗な女性がこちらを見ている。
あの人、どこかで見たような。話しかけてみよう。
——そう思った矢先、目が覚めてしまった。まだだ。まだ夢に戻れる。頑張った。固く目をつぶって、さっきの光景を忘れないように——
「英理! いつまで寝てるの! もう7時過ぎてるわよ! 早く起きなさい!」
まだ戻れる。
だけど、少しずつ夢の光景は色を失っていった。銅銀貨も、夜の光も、あの綺麗な女性も——
「英理! いいかげんにしなさい」
布団は、母の手によって取り払われた。けたたましい朝日が、瞼の中に入り込んでくる。
——すべての光景は、完全に消え去った。
中学校へ向かう電車の中で、おれはまた目をつぶった。あの夢をもう一度見たかった。
でも、どんなに頑張っても、何もかもぼやけていて思い出せない。あれが、祐樹だったのか健人だったのか。そして、あの女性の顔も。
ただ、楽しかった。居心地が良かった。それだけが記憶に残っていた。
——キーンコーンカーンコーン
どかどかと、朝練が終わった野球部たちが入ってくる。教室内は一気に、むわっとした汗と汗拭きシートの臭いに変わった。
その中には佑樹もいた。一瞬目が合ったが、祐樹は友達だったことなど忘れたかのように、すぐに目をそらして自分の席に着いた。
はぁ。また、つまらない時間が始まった。
授業が始まっても、おれは、教室のドア側、一番後ろの隅っこで教室を眺めていた。
四角い箱。そう思った。
等間隔に並べられた、木とスチールでできた机。誰一人逃さない煌々と照らす真っ白なLED。写経させられているかと思うほど、びっしりと書き込まれていく黒板。
そして、生徒は同じ制服を着せられ、クラス一丸を強制される。
ここは、おれのいるべき世界じゃない。
目をとじればーー
「……理。……英理! おい、起きろ!」
はっ!
「ったく、お前、またか。終わったら、職員室へ来い。いいな」
目を覚ますと、そこにはまたつまらない教室があった。他の生徒が、蔑んだ目でおれを見ている。「またかお前か」と。
今回は夢、見なかったな。はぁ……。
「ーー返事は!」
「……はい」
ーー放課後。体育館の更衣室で、他の部員が素早く道着に着替え、防具を装着する中、おれは、ため息をつきながらゆっくり準備をした。
一礼して体育館に入るころには、時間前なのにみんな素振りをしている。ようやくおれが来ると、みんなは遅いぞとでもいうように睨みつけてくる。
そこへ、キャプテンになった健人がやってきて言った。
「英理……。お前、本気出せば強いんだから、もっと真面目にやれよ」
「……いや、おれは」
「はぁ。そんなんじゃダメだろ。いつまでも、子どもじゃないんだから。もっと、頑張んないと」
時間になると、みんなは素早く切り上げ、一列に並び正座をした。そこへちょうど先生がゆっくりと入ってくる。先生が前に正座をすると、キャプテンの健人が瞑想の合図をする。
目を閉じても、心は落ち着かなかった。また始まる。それしか考えられなかった。
瞑想が終わり、礼を終えると、なぜか今日に限って、先生がおれたちに問いかけてきた。
「今日、始まる前に素振りをした人は?」
素早く、ピシッと、全員の手が上がる。ーーおれを除いて。
「はぁ。お前か、英理。お前なぁ……。——やる気、あんのかぁああ!」
先生の怒号が飛ぶ。
「いいか、お前ひとりの行動は全員に波及するんだ! 剣道は個人競技なんかじゃない! 分かったか!」
「……はい、すみません」
「すみませんじゃねえだろ! 分かったなら行動で示せ、いいな」
「……はい」
そう、返事をしながらも、心の中では疑問が渦巻いていた。
本当にそうなんだろうか。頑張ることがすべてで、それ以外の人は価値のない人間なんだろうか。
みんなで笑って、楽しく生きるだけでは、ダメなんだろうか。
小学校のときは、あんなに毎日が楽しかったのに。健人とも、今では話もしない祐樹とも、いっぱい遊んでいっぱい笑った。ゲームを持ち寄ったり、サッカーをしたり。特に好きだった遊びは、冒険者ごっこだった。
ファンタジーのゲームに出てくる冒険者になって、3人でたくさん冒険をした。公園のテーブルとベンチは、おれたちの酒場だった。木の棒は勇者の剣や魔法の杖になったし、魔物や、時には魔王だって倒したこともあった。
授業中だって、次はどんな作戦でダンジョンを攻略するか、そんなことばっかりこそこそ話して笑っていたのに。
みんな、変わってしまった。頑張れ、頑張れって、何かに焦るように。もう、あの頃には戻れないんだ。そんなことを思いながら、一人家へ帰った。
ーーその夜、おれは空を飛んでいた。
青空を、自由に。心地よい風が、肌をなでる。白い小鳥たちがおれに合わせて、並んで飛び、時折さえずりを聞かせてくれる。
眼下には、日に照らされ煌めく小川。その続く先に森があり、蒼々と緑が茂っている。
遠くには、見たこともない街。海岸に沿って家々が並んでいる。
綺麗だ。ここでは、おれを叱りつける人もいない。誰もおれを蔑まない。ただ、おれを優しく包む柔らかい風と、光、そして自由があった。
目を覚ませば、すべて消えてしまうことは分かっていた。分かっていたはずなのに、朝目を覚ますと、おれは、虚しさに苛まれた。カーテンの隙間から差し込んでくる光は、どこか薄く感じられた。何の意味もない制服に着替えながら、さっきの夢を思い出そうとした。
でも、潮風の匂いと、自由だったという感触だけが残っていて、細かいところはすでに霞んでしまっていた。
学校では、また同じ1日が繰り返された。授業では、ただ黒板の文字を書き写し、寝たところを叩き起こされて、また職員室に呼ばれる。部活ではやっている振りだけして、叱られて謝る。ずっと、夢のことを考えていた。そうすれば、現実の時間はあっという間に過ぎる。
それからは、おれは、夜が来るのを心待ちにするようになった。布団に入って、目をとじる。その時間だけが、1日の中で唯一心が安らぐ時間だった。
次に見た夢では、おれは、水の中を泳いでいた。どこまでも透きとおる涼やかな水を、肌に感じながら。水中に、優しい太陽の光が差し込んで底を照らしていた。
水の中でもおれは、思いっきり息を吸った。湖の香りが全身に行き渡る。魚たちが規則正しく群れになり、大きな生き物のように泳いでいた。その中へ入ると、道を開けるように、輪になった。
おれは、魚よりももっと自由に泳ぎ回った。そのまま水面の上に出ると、そこには森があった。一気に温かい空気と、土や木々の香りが広がる。
その森の奥に、うっすらと道が見え、さらに奥には街が見えた。
その方角から、誰かの歌う声が聞こえた気がした。歌詞は聴き取れなかったけど、優しく包み込むような、そんな響き。
ここでは、頑張らなくていいんだ。
そう思った瞬間、街の方に、誰かが立っているのが見えた。白金の綺麗な髪をたなびかせてたたずむ女性。
どこかで見たような。歌に合わせて口元が動く。
静かに歌は止んだ。
もっと聞きたかったのに。
——その時、女性は何かを言った。声は聞こえなかったけど、口元の動きが
「エーリ」
そう言ったような気がした。
夢はそこで終わった。目が覚めても、あの街とあの女性の姿が頭から離れなかった。
だが、不思議なことに、その街は次の夜もまた同じ場所にあった。翌週見た夢でも、そのまた翌週に見た夢でも。まるで初めから知っていた場所のように、迷うことなく歩き回れるようになっていった。
あの角を曲がれば何の店があって、何を売っているか。そして街の真ん中にある酒場。その喧噪や酒のむわっとした匂いまで、はっきりと覚えていた。
酒場を過ぎれば、そこは広場になっていて、子どもたちが楽しそうに遊んでいる。大人たちはそれを微笑ましそうに見ている。おれが行けば、見知らぬはずの人々は「おかえり」と声をかけてくれる。子どもたちも寄ってきて「今日も遊ぼうよ」と話しかけてくる。広場の出店にはおいしそうな食べ物が並び、魚を焼く匂いに誘われる。
街は人々の笑い声にあふれ、誰かが弾く古い管楽器の音色がどこからともなく聞こえてくる。ここでは誰も、おれに頑張れなんて言わなかった。ただ、そこにいるだけで良かった。
一方で、教室の記憶は、日に日にぼやけていった。担任がどんな顔をしていたか、思い出そうとしてもなんとなくしか分からない。健人と最後に何を話したかも、もう覚えていなかった。定期テストの結果も、部活で怒鳴られたことも、すべてが遠い昔に見た夢のように、記憶が霞んでいった。
学期が変わっても、それは変わらなかった。気づけば夏が終わり、教室の外は秋の装いに変わり始めていた。英理はそれを、特に驚きもせず、眺めていた。今が何曜日で、どれくらいの時間がたったのか、そんなことはどうでも良くなっていた。
日中は、ずっと夢のことばかり考えていた。今日はどこに行ってみようか、街の外を見に行ってみようか。そんなことばかり。教室の机の感触も、竹刀の重さも、母親の作るご飯の匂いも、思い出そうとするとぼやけている。
かわりに、街の市場で食べた料理の味や、店主との会話、子どもたちと何をして遊んだか。広場に植えられた花がどんな形で、何色だったかも、鮮明に思い出せた。
ケントも来ればいいのに。エーリはそう思った。でもすぐに、あれ? ケントって、誰だっけ。
それ以上は考える必要はなかった。
それからのエーリは、目を覚ますたびに、それがどちらの世界なのか、すぐに分かるようになった。身体の感覚が教えてくれる。息苦しい方か、穏やかな方か。それだけだった。
ある朝、目を覚ますと、そこには狭い机が並んでいた。誰かが、自分の名前を呼び、どこかに来いという。英理は、ただ頷いて、それをやり過ごした。長くは続かなかった。まばたきする間もなく、景色は切り替わった。
ある日、エーリは目を覚ました。
瞼を開けると、そこには見慣れた教室の天井があった。LEDの白い光、無機質なチャイムの音、同じ黒い服を来た人々。遠くで、誰かが自分を呼んでいる。すべてが色褪せた写真のように、遠い記憶のように感じられた。ただ、惨めな気持ちだけが、どんよりとのしかかった。
ああ、またあの夢か。エーリは思った。大丈夫、目をとじよう。
そしてまた、目を覚ました。
瞼を開けると、穏やかな光が優しく差し込んでいた。心地よい澄んだ風が肌を撫でる。煌めく湖。森から続く一本道の先には、今日も同じように街がある。すべてが当たり前のようにそこにあった。
——ああ、また、今日が始まる。
今日はどこに行こうか。そんなことを考えながら、いつもの歌声の方へと向かう。ただ、穏やかな気持ちが、温かく包み込んだ。遠くで誰かが「英理」と呼んでいる気がした。どこかで聞いたことのあるような声。でも思い出せないでいるうちに、それは聞こえなくなった。
かわりに聞こえるのは「エーリ」と呼ぶ女性の声。その女性と笑いながら街を歩く。いつものように。ここで過ごした穏やかな日々は、色褪せることなく、鮮明に残っている。
広間に行けば、子どもたちが寄ってきて、おれを慕って話しかけてくる。大人たちも、出店の人たちも。ここでは誰もおれを攻めたりしなかった。ありのままを見てくれた。
時々、嫌な夢を見ることがある。四角い部屋に閉じ込められて、変な黒い服を着た同い年の人たちの前で叱りつけられている夢。狭い机に向かって、意味の分からない記号の羅列を、ひたすら書き写している夢。竹でできた剣で訓練し、怒号を浴びせられる夢。ため息、舌打ち、蔑むような目。息の詰まるような、居心地の悪い夢。
でも、エーリはこの夢を終わらせる方法を知っていた。目をとじればいい。そうすれば、また穏やかな1日が始まる。目を覚まして、おれはほっとする。
——夢でよかった。
そう思って伸びをする。目を覚ませばすべてが消える。嫌な気持ちも、息が詰まるあの場所も。
前は、夢に戻るために必死になっていたっけ。そう思うと、なぜだか笑ってしまう。
穏やかな気持ちでいても、あの夢を見ることがある。でも、エーリはもうそこから逃れる方法を知っていた。
大丈夫。目をとじれば——
目を覚ますと、そこにはまた、いつもの街がある。街のほうから、白金の髪の女性が手を振っていた。行くと、彼女は、おれを見てニコッと笑った。
「おかえり、エーリ。さあ、行きましょう? 今日はどこへ冒険に行く?」
おれは、穏やかに笑って応えた。
「今日は、街の外に行ってみよう」
おれは、長い長い夢を見ていたような気がする。おれが必要とされない、つまらない夢。でもそれも、目覚めてみれば、色褪せて消えていく。
もう大丈夫。目をあければ、ここには、おれの生きるべき世界が広がっている。
END
最後までお読みいただき、ありがとうございました。このお話は、自分が中学生の時考えていたことを元に書いてみました。
もし、同じようなことを考えたことがある方がいたら、感想で教えていただけると嬉しいです。
今回は読み切りとして書いてみました。時間があれば続きも書いてみたい……。




