5.セミのぬけがらと迷子
くらげに泳ぎを教えるために私は海水浴場に向かっていた。最初は気まぐれにたどり着いた海水浴場だったが、3日目ともなると慣れた道のりだ。助手席には水着セットと浮き輪を乗せていた。浮き輪は以前夏祭りだかの景品で当てたが、1度も使わずにしまっていたものだ。浮き輪があった方が泳ぐとき安心するかもしれないと持ってきた。
子どもの頃、周りはみんな水泳を習っていて、私もそのひとりだった。小さい頃から泳げるのが当たり前だったから、初めて泳いだ日のことなんて覚えていない。どんな感じなんだろう。
脱衣室で着替えてから浮き輪を膨らませる。簡単に出来ると思っていたが、体力が衰えているのだろうか、なかなか膨らまなかった。浮き輪ってこんなにも肺活量がいるのか。ポンプを使っている人を横目に息を吹き込む。気がつけば、約束の時間を過ぎてしまっていた。
急がなきゃ。
くらげはスマホなどの連絡手段を持っていない。晴れたら、9時頃に、海の家で。それがふたりで交わした約束だった。浮き輪を手に海の家に向かう。くらげは、いなかった。
約束を破るような子には見えなかった。店内も覗いてみるが、見知った女の子の姿はない。
「あの子なら海に行ったよ」
この前レジにいた店員が声をかけてきた。掃除をしていたのか、箒とちりとりを持っていた。
「あの子水着のようだったけど泳ぐのかい? 足が悪いのに」
「え、足悪いんですか?」
「知らなかったのかい? あの子、足が悪いからいつも引きずってるじゃないか」
少しも気が付かなかった。だからこの前疲れたと言って動かなかったのだ。そういえば、セミのぬけがらを踏む時もゆっくりだった。あれは、足が不自由だったからだったのか。
(風鈴はくらげに似てる。足が1本しかないくらげ)
くらげとは自分のことだったのだ。
そういえば風が強いのに風鈴の音が聞こえない。軒を見上げるが、風鈴がなくなっていた。
「あれ、あそこにあった風鈴は?」
「ああ」
店員が手に持っていたちりとりを持ち上げた。
ちりとりの中にはガラス片が入っていた。
「昨日風で落ちたみたいでさ」
くらげが好きだった風鈴が粉々に砕けていた。なぜだか、胸騒ぎがした。
くらげのことを教えてもらったお礼を伝えて海に向かう。さっきまで晴れていたのに、空に雲が増えてきていた。泳げないと話していたから海に入ることはないと思うが、私はくらげが海にいる気がしてならなかった。
砂浜では多くの人が夏を楽しんでいた。ビーチパラソルがばたばたと騒がしくはためいている。小さな子はみな親といて、ひとりでいる子はいない。
「くらげならそこにいるぞ」
笑いながら男たちが声をかけてきた。指さす先では、クラゲが海岸に打ち上げられ、干からびている。人を探していると分からないのか。睨むと薄ら笑いを浮かべて謝ってきた。
「足が悪い女の子? そういえばさっき歩いてたよな」
人を探していると説明すると、笑っていた男の1人が呟いた。外見の特徴を聞くと確かにくらげだった。
「一人でふらふらと海の方行くからさ、気になったんだ。あれ、そういえばどこに行ったんだろう」
くらげが海に入っている。胸がざわざわする。泳げないのになぜ海に入ろうとしたのだろう。浮き輪なんて膨らませなければ良かった。先に海の家に向かえばよかった。後悔しても時間は戻らない。
私の表情をみて男が「大丈夫だよ」と励ましてくれた。そんな言葉も私の心には届かなかった。
海が怖いほど静かに流れていた。