お笑いの原点とカリスマへの憧れ
イ: 学生時代からお笑いがお好きだったのですね。特に印象に残っている芸人さんはいらっしゃいますか?
社): 僕は学生の時からジュニアさんのトークライブを最前列で見ていたんです。 ああいう風に、その時のお笑い好きの少年が今の気持ちで聞いてくれているんだと思えば、多少失礼な質問も許されるかなと。ジュニアさんはめちゃくちゃ優しかったですよ。 他の大先輩だったら絶対ありえないですけど、あの日はなぜかすごく通じ合えた気がしましたね。
イ: 生まれ育ったご家庭はどのような環境でしたか?
社: 子供の頃からよく「偉そうだな」と言われていましたね。 親父はすごく真面目な保険会社のサラリーマンで、よく「勉強しろ」と言っていましたが、僕自身はどちらに似ているのか自分でも分かりません。 いわゆる昭和の時代によくあった、父親の権力が強い家庭でしたね。 親父がビール片手に枝豆を食べながら野球中継を見ている横で、専業主婦の母親がいる、そんな家庭でした。 街録チャンネルに出ている方々を見ても、僕は本当に恵まれた環境だったと思います。
イ: ご兄弟はいらっしゃいますか?
社: 弟が一人います。 ものすごくコミュニケーション能力が高くて、友達も多いですね。 中学から大学まで行っていて、バンドをやったりダンスの世界に進んだりしていました。 弟は性格がめちゃくちゃ良くて、誰とでも仲良くなれるタイプなので、家庭には何も問題がなかった気がします。
イ: 学校ではどのような生徒でしたか?
社: 小学校5、6年生の頃に、生徒会長、運動会の応援団長、騎馬戦の隊長など、全部やるような人気者でした。 弟は「中田の弟だから」と呼ばれて、講演も頼まれたりしていましたね。 サッカー部でもレギュラーでしたし。 授業終わりにコントを作って、放課後に教室の前で友達と披露したりしていましたね。 比較的みんなが僕の言うことを聞いてくれて。 授業中もよく発言していましたし、マラソン大会でも学年で1位を取るなど体力もありました。 勉強も特に苦手ではなく、塾にも通って成績も良かったですね。 勉強もできて生徒会長もできて、サッカー部のレギュラーでコントもやる、といった感じで、全てを全力でやっていました。
イ: 恋愛の経験はありましたか?
社: モテてはいたとは思うんですけど、自分がいいなと思う子は別の男子が好きだったので、特に恋愛に発展することはありませんでした。
イ: 学業も優秀だったのですね。転勤族のご家庭で、どのように勉強を続けていたのでしょうか?
社: 親父が熱心だったので、転勤で環境が変わっても困らないようにと常に勉強するように言われていましたね。 山口の国立の山口大附属中学に通っていて、受験も当然のようにやっていきました。
イ: サッカーではJリーグへの憧れもあったと伺いました。
社: 小学生の頃はJリーガーになれるのかなと思っていました。 山口県だとサンフレッチェ広島が近いんですけど、同じ小学校の同級生でサンフレッチェのジュニアユースに行った奴がいて、そいつはもうずば抜けていたんです。 「ああいう奴がJリーグに行くんだな、自分とは違うな」と思った時に、親父に「努力と才能、どっちが大事なんだろう?」って聞いたんですよ。 そしたら親父が「才能が大きいよな」って言ったんです。 結構残酷なこと言うなと思ったんですけど、じゃあ自分の才能は何だろうと考えた時に、勉強かなと思って。 勉強に打ち込んだ方が何か道が見えるかもしれないと思いました。
イ: 勉強はお好きでしたか?
社: 勉強が好きだと思ったことはないですね。サッカーは好きでした。 でも、やっぱりできる方が簡単なんですよね。だからサッカーをやるよりも勉強をやっている方が楽しい、というか勝てる勝負をしようという指針が、その頃からずっとありましたね。
お笑いへの転換点と「武勇伝」誕生秘話
イ: そのような中で、なぜお笑いの道へと進んだのでしょうか?
社: 高校1年の後半、スキー合宿で可愛い女の子を見かけたのが大きなきっかけです。 その子に気に入られたいと思ったんですが、勉強ばかりしていたので全く目立たないんですよ。 東大に行っても大学に行きたいわけじゃないし、勉強だけじゃダメだと思って。 その時、ちょうど2000年頃で、お笑いブームが来ていたんです。 親がたまにお笑い番組を見ていて、久々に見てみたら急にお笑い番組を漁り始めました。
イ: その女の子のために、お笑いを始めたのですね。
社: はい。その女の子とは同じクラスで、絶対に喋ってはいけないと決めていました。 だけど、数年しか経ってないので、友達とリハビリしなきゃと思ってお笑いをめちゃくちゃ始めたんです。 お笑いが楽しすぎて。「最高だなこれ。面白いし、かっこいいって言われると憧れるな」って気づいたんです。
イ: 彼女の反応はどうでしたか?
社: 彼女の隣の席になって、ひたすら授業中に先生が言ったこととかを冗談にして笑わせたり、一年くらいかけて猛アプローチしました。 そしたら、ある日放課後に呼び出されて、「付き合ってください」と言ったら「ごめんなさい」と。 「あれ?何が起こったんだろう?」と思ったら、そのお笑いへの情熱だけが残っていたんです。
イ: それからお笑いに没頭されたのですね。
社: 受験勉強のノウハウがあったので、そのノウハウを使って、渋谷のツタヤのレンタルビデオコーナーのネタ番組を全部借りて、全部録音しました。 当時はMDの時代だったので、MDにぎゅっと詰め込んで、それをずっと聞いて、ネタを吸収していましたね。 親には「勉強しろ」って言われていましたが(笑)。
イ: 大学には入られたのですよね?
社: はい。大学受験の時に、国立は無理だなと悟って。 東大も無理だし、いきなり芸人になるのはリスクが高すぎる。 大学4年間は比較的自由が利くらしいので、その間に芸人を目指そうと思って。 親父が納得するであろう早慶上智だけを受験して、慶應に入学しました。
イ: 大学ではどのような活動をされたのですか?
社: 最初はテニスサークルに入ったんですけど、全くテニスに興味が持てず、イメージと違ったので辞めました。 そして、「やっぱりお笑いをやりたいね」と仲間と一緒にサークルを立ち上げたんです。 学園祭でライブをやろうと慶應の教室を借りて、他の大学のお笑いサークルも呼んでライブを開いたら、その日はもう圧勝でしたね。
イ: そして、あの「武勇伝」が誕生するわけですね。
社: そうですね。当時、ネタ番組は1分のものから2分のものまで時間がまちまちだったんです。 M-1のようなフォーマットが確立されるもっと前だったので、漫才は色々な話題をつないでいいという考え方だった。 品川庄司さんが「漫才は話題を変えられるから、どの番組でも出られる」とインタビューで言っていたのを見て、「これだ!」と。 ブロックをたくさん作って、組み合わせ次第で4分、3分、2分、1分の漫才ができるようにしようと思って、ガーッと10分くらいのネタを作りました。
イ: 初めて舞台で披露した時の手応えはどうでしたか?
社: 全然知らない大学の友達や、お客さんの前でやったら、一発でバーンとウケて! 嬉しすぎて、予定の5分を大幅に超えて10分以上やってしまいました。 相方にはアドリブで、練習したけどボツにしたネタも全部やったので、なんとか対応してくれて(笑)。 女子高生にも「サインください!」って囲まれて、昨日まで普通の学生だったのに、これはもう俺しかないと思いましたね。
プロの世界の厳しさと新たな挑戦
イ: その後、インディーズのお笑いライブにも出演されたのですね。
社: はい。学園祭の後、インディーズの芸人グループに入ってライブに出させてもらったんですけど、そこは全く違いましたね。 学園祭のお客さんは一番笑ってくれるし、みんなテンションが高いんですけど、インディーズライブの厳しさに相方も引いてしまって。 何も知らない芸人しか出ないライブなので、自分の出番も少ない。20人くらいのお客さんの前で漫才をやるんですけど、「これが芸能界だ!」って言われても、「絶対に違う!」と(笑)。 あれは現実を見ましたね。「うわ、これやばいぞ」って。
イ: 危機感を感じたのですね。
社: そうです。インディーズの主のような人も30歳くらいで、僕は20歳くらいだったので、「30でこれをやっていたらやばいだろう」という危機感がすごくて。 相方もいなくなったので、一度お笑いをやめました。 結局、大学卒業までの3年間くらいはそうしていましたね。 大学は授業の受け方が下手すぎて留年してしまいましたが(苦笑)。
イ: お笑いを休止していた期間は何をされていたのですか?
社: 大学2年生の時に彼女に振られて、しかも同じ仲間内の男の子に乗り換えられてしまって。 そのグループにもいられなくなって、すっからかんになって相方も失って。 それで、学校に行かなくなって、バイトに没頭するようになりました。 保険会社の自動車事故受付センターで深夜のバイトをしていたんですが、そこが肌に合ったんです。 深夜なので空き時間も多くて、大学生の同年代も多かったので、みんなとずっと喋っていましたね。 友達を増やしたかったのもあるし、面白いことを話せば買ってくれる人もいるという感じで。
イ: そのバイト先で、またお笑いへの情熱が再燃したのですね。
社: そうですね。ただ、相方を失ってネット掲示板などで探したんですけど、なかなかピンとくる人がいなくて。 その時、ミュージシャンのスガシカオさんが「プロになれるかどうかは人が決める」とおっしゃっていて。 「俺がプロだって言ってもお金を払ってくれるのは人だ」と思った時に、「俺が芸人になるかどうかを誰が決めるんだ?」と。 なぜか、僕は「コンビ」しか見えなかったんです。「お笑いっていうことで、俺が誰かを探すんじゃなくて、誰かが見つける。それができたら俺は芸人になれる」と。
イ: つまり、「誰かが見つけてくれる」と信じて、ひたすら面白い話を磨いたと。
社: その通りです。面白い話を持って、バイト先でとにかく喋りまくりました。 聞いてくれる人がいたら話しかけて、冗談を交えて話を聞かせて。 そうしているうちに、会話のパターンができて、盛り上がる下りができるようになっていきました。 深夜帯だったので、かなり盛り上がりましたね。
イ: そのバイト先で、藤森さんと出会ったのですか?
社: はい、本当に自然な出会いでした。藤森がいる日はとにかく現場に行くのが楽しみで、安心できるから、彼の話を聞くのが楽しみでした。 彼も最初は就職を考えていたみたいなんですが、俳優やアイドルになりたいという思いもあったみたいで。 そんな時に、大学の学園祭でやった漫才に似たものを僕が「めちゃくちゃ面白いじゃん、こんなこと俺とやろうよ」と誘ったんです。
イ: そこでコンビ結成に至ったのですね。
社: ええ。彼はそこから僕のMDを全部聞いて、通信教育みたいな感じでネタを吸収していきましたね。 「今日はこの人の漫才を聴きます」と言って、一本ずつ聞いて、とにかくネタを聴かせまくりました。
イ: 学園祭以外にもライブに出られましたか?
社: はい。学園祭でのウケるイメージだけで判断されたくなかったので、一番厳しい現実を見なければいけないと、吉本の飛び込みライブにも行きました。 阿佐ヶ谷のバトルライブみたいなところで申し込んで、練習して出たんですが、これが結構ウケたんです。 何回か出るうちに、「いけるかな」と手応えを感じて。
イ: そして、吉本興業に所属されたのですね。
社: はい。吉本に所属して、キラキラした雰囲気も感じましたね。 自分たちの業績を頻繁に確認したりしていました。「5年で早くて5年」と言われる世界だったので、その時はもう腹を括って「やりたいことをやるぞ」という気持ちでしたね。 最悪何年までだったら棒に振ってもいい、という覚悟もありましたが、途中で「いけるな」と思ったから続けられたんです。
イ: 慶應大学のご出身という学歴は、お笑いの世界で何か影響がありましたか?
社: 吉本に入ってからは、学歴はほとんど出せませんでしたね。 「武勇伝」というネタの方がデカすぎて。 ただ、裏では「慶應と明治の高学歴コンビらしいぜ」という話はあったみたいですけど。
イ: 「武勇伝」のネタはどのように生まれたのですか?
社: 吉本に入る前に、半年かけてネタを15本くらい作りました。 本を読んだり、ものづくりをしたりしながら、夜な夜な相方と練習して。その15本の中に「武勇伝」の元ネタがあったんです。 最初は「〇〇が凄いよ」という感じのタイトルで、架空の武勇伝を僕が言って、それを相方がとりあえず受け止めるという列型のネタでした。
イ: 試行錯誤があったのですね。
社: 最初はもうちょっとちゃんとした漫才をやってたんですけど、全然手応えがなくて。 「上手いね」くらいのリアクションで、「これじゃダメだ」と。 漫才は上手くなるまですごく時間がかかるので、「時間かけてやってられないぞ、どうする?」となった時に、藤森が「これやってみようよ」って、あのネタの原型を提案してきたんです。
イ: 周りの反応はどうでしたか?
社: 「君らの漫才はうまいけど、まだ掛け合いになってない」とか、「大喜利を自分でやって訂正してるだけだ」とか言われて。 掛け合いが課題だなと思っていた時に、「これ、この前の授業、楽になるんじゃない?」と藤森が言ったんです。 「いや、でもやってみようよ」と言われて、思い切ってやってみました。 怒られるだろうなと思っていたら、厳しいコーチがネタをやっている最中にペットボトルを眺めて、全然できてないという圧をかけてくるんですが、そのコーチがペットボトルを持ち始めた時にスッと立ち上がって、「俺の初めての『ええな』や」って言い出したんですよ。
イ: それはすごい反応ですね!
社: 「これ、もうちょい工夫したら笑い飯みたいになれるんじゃないかな」とまで言い出して。 「すごい、初めてハマったぞ」ってなって、これを鍛えようと思って、あの武勇伝を徹底的に作ったんです。 そうしたら、どんどんあの走ってるような、リズムに乗った調子ができてきて。 「ヒップホップみたいだ」とまで言われるようになって、笑い待ちをするために「武勇伝、武勇伝」というジングルやメロディを入れてみようとか、色々試しました。
イ: そのネタで、M-1グランプリの1回戦を突破されたのですね。
社: はい。ある日の授業で、その完成したネタをやったら同期がバーッと笑ってくれて。 先生も「分かった。今年ナンバーワン、お前らやってんだよ、漫画みたいだ」とまで言ってくれて。「行ってこい、多分準決勝くらいまで行くぞ」って言われたんです。 そのM-1の1回戦は、通過順位が1位からでるらしいんですけど、僕らオリエンタルラジオは1位で通過しちゃったんです。 「年収が俺らじゃねえな」って(笑)。 見たこともない、ラップのようなネタで、もうダーッとウケて、1位通過でした。 準決勝までは行けるかなという感じでしたね。
イ: その後、テレビ番組やラジオなどにも出演されるようになったのですね。
社: はい。特別にオリエンタルラジオは別格で、オーディションも全部オリエンタルラジオのために曲を作って送って。 在学中なのに、吉本の復活のステージや、TBSで新番組が始まる劇場番組やラジオにも出演するようになりました。
イ: それはもうスター街道まっしぐらですね。
社: いや、それがね、複雑な感情でした。「やばい、逆に消費されるな」と思って。 お笑いを始めてからまだ何の経験も積んでいないのに、いきなりテレビに出てしまって。僕のプランでは5年くらいかけて色々なライブに出て、経験を積んでからテレビに出るつもりだったんです。 だから、「今テレビに出たらすぐ死ぬぞ」と。正直、すぐそう思いましたね。
イ: 「一発屋」になることへの危機感があったのですね。
社: はい。「一発屋」にならないための方針を考えていた時に、吉本から声がかかって。 当時、ネタ番組の「エンタの神様」に何度か出ていたんですが、数字が伴いがちで、毎週出ろみたいになって。 でも、ネタはどんどんなくなっていく。 その頃はまだマネージャーもいなくて、実はNSCの校長が勝手に動いていて。 「お前ら売れるから、俺が売ってやる」と言って、僕を「見つけた」という実績を本社に伝えたいがために、預かりで勝手に番組に出していたんです。
イ: それはすごい話ですね。
社: ある日、その校長が本社から外されて、吉本本社の偉い方から「あいつら誰だ?どこの事務所だ?」と。 「吉本です」と答えたら、本社に呼ばれて上がることになりました。 藤原さん(吉本興業の当時の社長)とかもいる中で、「お前らこれから頼むぞ」という感じで。 そこからマネージャーがついて、本格的にオリエンタルラジオの活動が始まったんです。
イ: 本格的な活動が始まってからは、どのような日々でしたか?
社: いわゆる本流と言われるようなプッシュのされ方で、365日ネット配信とライブをやる、という日々が始まりました。 渋谷の劇場を拠点に、毎日休まずライブに出る日々です。 1年目の終わり頃には「エンタの神様」も含め、原石(新しいネタ番組)にも出るようになって。 2年目になると同時に「笑っていいとも!」と「オールナイトニッポン」が始まる、という感じで、怒涛の1年でしたね。
イ: 人気と多忙を極める中で、苦労されたことはありますか?
社: 大変な日々でしたね。正直、他の先輩芸人さんとの関係性も希薄で、とにかく自分たちで何か面白いことをしなきゃいけないと、毎日ライブで暴れまわっていました。 毎日のライブがしんどすぎて、オープニングトークの10分も、もう何もしないで舞台に立っているような状態でしたね。 「一体何をしてるんだ」というような状況だったんですが、その自分を誰かに見ていて欲しくて。 ストレスが溜まって、生配信中にカメラを殴ったり、「お前らが喋れよ、お前らが喋って何が見たいんだよ!」と暴れたこともあります。 「吉本はおかしくなってんだよ!」と。
イ: プライベートな時間は全くなかったのでしょうか?
社: プライベートは全くないですね。 家に帰って寝るか、遅刻が怖いから劇場に泊まるか、そんな日々でした。 相方との関係性も悪くなりましたね。正確に言うと、僕は全てを相方に教えていたつもりなんです。MDでネタを教えていたのと同じ感覚で。 でも、それが彼にとってはプレッシャーになっていたのかもしれません。
イ: そんな多忙な日々を経て、その後「PERFECT HUMAN」で再びブレイクされますよね。どのような経緯で生まれたのでしょうか?
社: 漫才は全然ハマらなかったんですが、歌ったり踊ったりするとすごくウケるということがわかってきて。「音楽をやろう!」と。 最初はリズムネタを改善する方向だったんですが、そこから「PERFECT HUMAN」へと繋がっていくんです。 最初はこっそりリリースしたんですよ。 そしたら、やっぱり一番自分自身が出たんですよね。「俺はこういう人間だ」という、なかなか出すことのできない部分が。 みんなに「あっちゃんかっこいいからブレてないんだ」って言われて、自分自身が何のキャラなのか分かっていなかったんですけど、「自分が大好きだからそう言わせてるんだ」と気づいて。 「あっちゃんかっこいい!」って言われてブレイクして、そこからMステに呼ばれたり、色々な番組に出演するようになりました。
イ: 「PERFECT HUMAN」とほぼ同時期に「しくじり先生」もブレイクしましたね。
社: はい、ほぼ同時でした。 以前から「しくじり先生」はやってたんですけど、呼ばれる芸人さんがどんどん増えて、私の主戦場みたいになっていきました。 歴史のことやマラドーナなどの話をさせてもらって、特番にもなって。 ネタでブレイクして、さらに「しくじり先生」もある。これは「いけるぞ」と自信に満ち溢れていましたね。
イ: その後、テレビの世界を離れてYouTubeへと活動の場を移されていきました。その理由は何だったのでしょうか?
社: 当時、テレビの視聴者層は50代以上の方が多かったんです。 私の特番は30代、40代にはウケていたんですけど、50代以上には届いていなくて。「このままだと勝てない」と感じていました。 「俺が50歳にならないとテレビではもうダメなのか」と。 50代や40代後半のMCの方々が活躍されているのを見て、「これはちょっと無理だな」という気持ちになっていましたね。
イ: その後、ワイドショーなどで過激な発言をされたこともありましたね。
社: はい。ワイドショーでコメントをしていた時、やはり「これは言い過ぎだったな」と反省しています。 相手が大変な時に、同じタレントとして味方でいてほしいのに、ひどいことを言ってしまった。今だったら申し訳ないなと思います。
イ: 一方で、SNSなどでの発信もされていました。松本人志さんに対する意見表明など、物議を醸すこともありました。
社: そうですね。僕としては、「価値観が多様であってもいいじゃないか」という思いがありました。 「上の世代の空気を読まなきゃいけない」というテレビバラエティの現状に対して、茂木さんのような方が「面白いから別に何も問題ない」と言ってくれたような気持ちになったんです。 「言わないことには変わらないだろう」という思いで、ブログで発信しました。 しかし、今考えると、あれがベストな意見表明の仕方だったかというと、そうではないかもしれませんね。
イ: 発言にはリスクが伴うということを再認識されたのですね。
社: はい。結局、言い返せばリスクがある。 今回の件で、自分がもうどうしようもない状態になって後悔しているかというと、今は元気にしてるじゃないですか。 だから、違う方法もあったのかなと思うこともありますが、これ以外の方法がなかったかというと、そうでもないかもしれません。 後悔はしていませんが、反省はしていますね。 「もっとやり方があったかもしれない」という反省です。
イ: YouTubeでの活動は、2019年から始められたそうですね。
社: はい。最初の2年間くらいは、自宅に引きこもってYouTubeの勉強をしていました。 その中で、ある子が「なんでこんなこと言うの?」と聞いたら、「一人の子が面白いからだよ」ってまっすぐに言ってくれたんです。 それがすごく心に響きましたね。
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