ヒツミサマ
僕がその小学校に転校してきて、初めて受けた忠告は「ヒツミサマに気ィつけや」というものだった。
「ヒツミサマって何?」
「水場でイタズラしよるんや」と、担任はただ曖昧に笑う。
同級生が「お前、雨の日に川を覗くなよ。」と肩をすくめた。
誰に聞いても、きちんと教えてはくれない。
川と用水路とがそこかしこを縫い、沼やため池の多い町。
雨が降った日は、どこもかしこも濁った水が路地を満たしていく。
僕――瀬戸和真は、その日も家の近くの細い用水路に石を落として遊んでいた。雨の翌日、用水路の水はまだ茶色に濁っている。
ふと、誰かの視線を感じ、用水路の水面を目を凝らして見てみる。
一瞬、自分の顔が水面に浮かんでいるのが見えた気がした。――けれど、水面に映る自分は妙に表情が乏しく目だけがどこまでも黒かった。
気味が悪くなって帰ろうとしたとき、後ろから誰かがぐいと袖をつかんだ。
見知らぬおばあさんだった。
「ヒツミサマに目ェつけられたら戻れんよ。水場を覗くもんやない」
注意された事と、その声色が妙に薄気味悪くて僕は急いで、その場から逃げ出した。だけど鼻先に泥臭い水のにおいが残ったままだった。
***
それから、不可解なことが立て続けに起きた。
夜中、枕元で「パシャ、パシャ」と濡れた音がする。
明かりをつけてみれば濡れた形跡などない。ただ畳の一部が妙に冷たかった。
お風呂のお湯に映る自分が、一瞬だけ口角を吊り上げる。
台所のタライに貯めてある水面に映る顔が、誰よりも自分に似ているのに、知らない表情で僕を睨み返す。
そんなある朝、登校しようと玄関を出ると、足元の水たまりから不意に手が伸びてきた。
その「手」は白くふやけ、爪が泥まみれで、僕の足首をつかみかけて消えた。
僕は母親にその事を伝えたが信じてもらえなかった。
それどころか「寝ぼけすぎ」と笑われた。
でも、僕は分かっていた。何かが水の奥に潜み、こちらをじっと見ているのだと……。
***
数日後の夜、僕は夢を見た。
そこは水の中だった。ゆらりゆらりと僕はその水の中をただ漂っていた。視線を感じる。濁った水の中、ようやく僕は視線の主を見つけた。
それは暗い水底に無数の白い目玉だった。目玉は泳いでいた。それが全部、僕の顔を写しこっちを見上げていた。
翌朝、とうとう限界を感じて僕は、近所に住む祖母に泣きついた。
祖母は神妙な顔でこう囁いた。
「……むかし、このあたりはひどい水害で何人も、行方知れずになったことがあるんや。
川底に沈んだ子も、池に飲まれた人も、誰も顔が分からんほど、濁流で変わり果ててな。
そういう人らはな、“ヒツミサマ”になってな、水の底からこちらの世界をジッと見続けてる。
雨の日、水たまりや川面を覗いて、自分の顔と目が合ったらアカン。
目が合うたら、そん人が、お前の顔を「ヒツんで」、お前になって戻ってくる。元のお前は……もう水底や。」
ぞくりと背中が寒くなった。
***
それから数日、僕は極力水面を見ないように生活し始めた。だけど、ある雨の夕暮れ、道にできた大きな水たまりにふと足を止めてしまった。
――水の奥深くで、もう一人の「僕」がじっと見つめていた。
わかっていた。僕のふりをした「ヒツミサマ」は、ずっと僕の隙を狙っていたんだ。
その瞬間、水面の「僕」がぐにゃりと口元を歪め、じっと見つめ返してくる。
身体を動かせなくなった。
泥水の中から、無数の指がぬらりと上に伸びてきて、足首をつかむ。
――冷たさと、泥に混じった強い腐臭。
水面の自分が囁く。
「和真……ちょうだい、かお、、ちょうだい……」
耳の奥でぐちゅぐちゅと濁った水音が響く。ふやけた顔、割れた口元、何人も重なった声。
「ヒツミサマ、ヒツみたる……」
あぁ……そういう事か。
ヒツみたる…、顔を引っつかむ…からそう呼ばれ出したのか。
抵抗することもできず、僕は水たまりの中に、生きたまま沈んだ。
一瞬、ものすごい圧力が全身を締めつけ、目だけが水面をずっと見続けている。
自分の顔が歪み、ひとつ、ふたつと泡となって水底に溶けていく――
***
あくる朝。
家では、僕そっくりの「和真」が、何事もなかったかのようにご飯を食べ、母親に「いってきます」と手を振っていた。
だが、時折鏡の中に、泥水のように淀んだ黒い目がチラリと現れる。
学校では、「和真」が以前よりも饒舌になったと噂された。
帰り道、級友の幼い妹がうっかりぬかるみの水たまりを覗き込む。
その水面から、「みほ……」と、まるで優しい声がそっと呼ぶ――。
新しいヒツミサマとなった僕は、今度は“みほ”と入れ替わるために、水底から、息をひそめて虎視眈々と“その瞬間”を待っている。
町では今も、こう言い伝えられているという。
「ヒツミサマに目ぇ合わせるな。水の奥には、いつでも誰かがお前の顔を待っとるから――」
お読みいただきありがとうございました。
架空の怪異「ヒツミサマ」は、誰もが一度は覗いたことのある“水面”と“自分の影”をテーマに生まれました。
「水」に映る自分。それが本当に“自分”であると言い切れるだろうか?――そんな疑問から、今回の物語を書きました。
地方に伝わる奇妙な言葉や、正体不明の伝承は、時に妙な怖さや、説明しがたい気味の悪さを持っています。
子どもの頃、雨上がりの水たまりを覗くのがなぜか怖かった思い出が、この話の元になっています。
少しでも「この町にはこんな怪異がいるのかもしれない」と感じてもらえたなら、うれしいです。
どうぞこれからも、鏡や水の中の自分とは目を合わせすぎないよう、お気をつけください……。